Taṇhā-vaggo 渇望の章
ダンマパダ24章は「Taṇhā(タンハー)渇望」がテーマです。タンハーは、ブッダの教えで最も重要なキーワードの1つです。
ブッダは、悟りの最終段階に到達して涅槃を達成した際に、「Taṇhā(タンハー・渇望)こそが、dukkha(ドゥッカ・苦しみ)の原因である」と特定しています。
渇望とは、「もっと〜したい」と強く切望するエネルギーです。すべての「dukkha(ドゥッカ)苦しみ・痛み・不満足」の最も直接的な原因です。また、渇望は生命誕生のエネルギー源で、輪廻転生のエネルギーを作り出しています。
渇望には、3つのタイプがあります。
カーマタンハー(kāmataṇhā)
感覚的快楽の渇望。6つの感覚器官によって得られる刺激から発生する肉体的・精神的快楽への渇望です。
バーヴァタンハー(bhavataṇhā)
存在して欲しいと求める渇望です。
ヴィバーヴァタンハー(vibhavataṇhā)
存在して欲しくないと求める渇望、つまり嫌悪です。
これら3つのタンハーは、この世に、愛着を抱くもの(piya·rūpaṃ)があり、心地快いと思うもの(sāta·rūpaṃ)があれば、どこであれ、そこに渇望が生じて確立します。
しかし、すべてのものごとは常に変化し続け、本質的に不完全なので、渇望が大きくなれば、欲求不満も大きくなります。渇望は人間関係の対立や喧嘩を引き起こし、苦痛をもたらします。だから苦しみの根源なのです。
DhP.334
manujassa pamattacārino, 人間 我儘な・行いをする taṇhā vaḍḍhati māluvā viya; 渇望 増す 蔦 のように so palavatī hurāhuraṁ, 彼は 漂う この世からあの世へ phalam icchaṁ va vanasmi’ vānaro. 果実を求めるように 森で 猿が
利己的に行動する人は
渇望が蔦のように増える。
森の中で果物を求める猿のように
あちらこちらに飛び回る。
解説
利己的な行動とは、わがまま勝手に自分の気分次第で行動することです。無頓着や無関心、怠惰であったり、他者を軽視したり、よく考えずに猿のように行動することです。気づきのある人は、自分の感覚(気分)の通りに物事が運ばないことから渇望が生まれ、決して満たされないその渇望が自分の心を苦しめる原因だとがわかってきます。それがわかれば、渇望は増えません。
DhP.335
yaṁ esā sahatī jammī, 何であれ これより 耐える 低俗な taṇhā loke visattikā; 渇望が この世に 執着して sokā tassa pavaḍḍhanti, 憂いが 彼らに 増える abhivaṭṭhaṁ va bīraṇaṁ. 雨上がり のように ビーラナ草
この世に執着して切望する人は
何であれ世俗で
耐えることになる。
雨上がりのビーラナ草のように
彼らには心配が増える。
解説
Bīraṇa:ビーラナ草はインド原産のイネ科の植物で、根に芳香があります。土を連想させる重く深みのある香りで、この根から抽出したアロマオイルがベチバーです。香水シャネルの5番のベースノートとしても使われています。
jammī:卑しい・低俗な・低次元の。低次元の世界=欲界。世俗
DhP.336
yo cetaṁ sahatī jammiṁ, 人が しかしこの 克服する 低俗にて taṇhaṁ loke duraccayaṁ; 渇望を この世で 難しい・超える sokā tamhā papatanti, 憂い それ故 消え失せる udabindu va pokkharā. 水滴 のように ハスから
しかしこの世で超え難い渇望を
世俗において克服したなら、
蓮から水滴が落ちるように
心配が消えてなくなる。
解説
十分あるのになんだか満ち足りず、「もっと欲しい」と思うのが人間の本質です。強い衝動のエネルギーが生命を輪廻させるエネルギー源だからです。
DhP.337
taṁ vo vadāmi bhaddaṁ vo, 彼らに 実に 説く・私は 幸せを 実に yāvantettha samāgatā; それほど多く・ここに 集合した taṇhāya mūlaṁ khaṇatha, 渇望のために 根を 掘りなさい usīrattho va bīraṇaṁ; 香根のために ような ビーラナ草を mā vo naḷaṁ va soto va, なかれ あなたたち 葦の ように 流れる ように māro bhañji punappunaṁ. マーラが 壊す 何度も
ここに集った多くの方々の
幸せのために
私はお話しします。
ビーラナ草の
香り高い根を掘るように
渇望の根を掘り起こしなさい。
マーラに何度も邪魔されても
葦のように流されないように。
解説
Usīra:ビーラナ草の香根。ブッダ の時代からアーユルヴェーダの薬草で、比丘たちの薬箱にも入っていたそうです。根は2〜4mと深くまで伸びます。薬草になる根を掘り集めるように、徹底的に渇望の根を掘り起こしなさいという教えです。
マーラは私たちの本能です。本能に邪魔されて、何度も輪廻しないように、という意味です。
DhP.338
yathā pi mūle anupaddave daḷhe, ように もし 根が 安全である 強く chinno pi rukkho punar eva rūhati; 切り倒す さえも 木が 再び ように 生長する evam pi taṇhānusaye anūhate, ならば もし 渇望を・潜在的な ない・根絶 nibbattatī dukkham idaṁ punappunaṁ. 生じる 苦しみが ここで 何度も
木を切っても根が残っていれば
また生えてくるように
潜在的な渇望を根絶しない限り
苦しみはここで何度も生じる。
解説
心の奥底に根ざした無意識の渇望も、根絶しなければなりません。これは生命の本能である「生きたい」という渇望です。
私たちは「もう生きていたくない」と思うことはあっても、それは「今の状況では嫌だから、このままでは生きていたくない」という意味であって、本当に生きたくないわけではありません。「死にたい=幸せに生きたい」なのです。
幸せの基準は、人それぞれです。人は「幸せに生きて、人生を楽しみたい」と思っています。しかしこれがイメージ通りにうまくいかない。「すべてうまく行けば、生きることは楽しいはずだ」と考えますが、すべてが自分のイメージ通りになる状態は、起こり得ません。他者の華やかな部分、豊かな部分、幸せそうな部分を寄せ集めた妄想の幸せが、自分のイメージ=幸せの基準だからです。
DhP.339
yassa chattiṁsatī sotā, 人に 36の 流れは manāpassavanā bhusā; 快への流れ 強い vāhā vahanti duddiṭṭhiṁ, 流れは 運ぶ 誤・見解を saṅkappā rāganissitā. 意図から 愛着に・依る
快感へと向かう流れは激しく
人間には36の流れがある。
心地快いもの愛するものを
求める欲望から
間違った見解に流される。
解説
36の流れとは、6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)と6つの感覚対象(色音香味触意)にそれぞれ生じる、3種類の渇望(感覚的快楽の渇望、存在の渇望、非存在の渇望)6つ×3種+6つ×3種=36の渇望の強い流れです。
この36種類の感覚が、心地快い方向へ向かおうとする強い意欲の流れです。
DhP.340
savanti sabbadhī sotā, 流れる あらゆる所に 流れは latā ubbhijja tiṭṭhati; つる草 生まれ 存続する tañ ca disvā lataṁ jātaṁ, その そして 見て つる草の 発生に mūlaṁ paññāya chindatha. 根を 智慧によって 切りなさい
快への流れは
あらゆるところに流れ
蔓草のように生えて茂る。
蔓草の発生に気づいて
智慧によって根を切りなさい。
解説
渇望はあらゆる感覚対象に向かって流れていきます。6つの感覚器官で発生し、6つの感覚対象に固定されます。芽生えた渇望はあっという間に茂るから、渇望が発生したらすぐに気づくように、洞察力で渇望の根を切りなさい、ということです。
DhP.341
saritāni sinehitāni ca, 川に 愛執に そして somanassāni bhavanti jantuno; 喜びに 存在する 人は te sātasitā sukhesino, 彼らは 快に・依存し 楽・求める te ve jātijarūpagā narā. 彼らは 実に 生・老い・至る 人々
そして愛着は川となり
人は喜ぶことで存在する。
彼らは快感に依存し
楽しみを求めて
確実に輪廻に至る人々だ。
解説
人は感覚から得られる快感に執着します。快感は、心地快いと感じることです。嬉しい(喜び)・楽しい(快楽)・満足といった感情と密接に結びついています。
食欲など欲求が満たされれば快感を感じ、満たされなければ不快感を感じるシステムです。快感という報酬と不快感という罰により、私たちの心はコントロールされています。そのために善なり悪なりの行為(カンマ)を作り、その行為が未来の生成のエネルギー源となって、来世への輪廻を引き起こします。
DhP.342
tasiṇāya purakkhatā pajā, 渇愛を 前に置く 人々 parisappanti saso va bādhito; 這い回る ウサギの ように 捕った saṁyojanasaṅgasattakā, 束縛・執着・衆生は dukkham upenti punappunaṁ cirāya. 苦しみに 近づく 何度も 長い間
愛に飢えた人々は
捕らわれた兎のように這い回る。
束縛に執着する生き物は
長い間何度も苦しみを繰り返す。
解説
Tasiṇā(渇愛)は、taṇhā(渇望)と同義語ですが、性欲や情熱など、愛欲に関する強い渇きです。
私たちは、束縛でしかないものに執着して生きています。お金が欲しい、愛が欲しい、楽しいことがしたい、美味しいものが食べたい、健康でいたい、病気になりたくない、死にたくないなどの感情はすべて束縛です。私の知識や意見、こだわりも束縛です。
これらはその時々で、思い通りにいくこともあれば、いかないこともありますが、思い通りにいかない時、私たちは落ち込んだり悩んだりします。
あらゆるものごとは、それぞれの法則に従って進むので、自分にとってどんなに大切で重要なことでも、思い通りにいかないのが常です。自分以外のすべての存在に、自分とは異なるそれぞれの希望があるからです。これは真理なので、自分の希望があればあるほど、常に不平不満があるのは当たり前です。だから望むことは束縛にしかならないのです。
DhP.343
tasiṇāya purakkhatā pajā, 渇愛を 前に置く 人々 parisappanti saso va bādhito; 這い回る 兎の ように 捕った tasmā tasiṇaṁ vinodaye, それ故 渇愛を 捨てなさい bhikkhu ākaṅkha’ virāgam attano. 比丘は 願望 離欲 自分の
愛に飢えた人々は
捕らわれた兎のように這い回る。
自分の欲望から
解放されたいなら
比丘は愛を捨てなさい。
解説
例えば、愛する人と一緒に過ごすとしましょう。一緒に過ごす時間のすべてが、自分のイメージ通りであれば、心地快く過ごせて楽しい幸せな時間だと感じるでしょう。しかし実際には、相手の意思もあるので、すべての時間が自分のイメージ通りにはなりません。最初のうちは妥協できても、だんだん我慢できなくなります。
「あんなに好きだって言ってくれたのに、言ってくれない……」愛に飢えた人は、その渇きを埋めようとします。自分のイメージ通りになれば、満足感が得られるはずだと考えるのです。
自分のイメージを大切にすればするほど、相手のイメージから解離し、相手は心地悪くなります。相手が心地悪ければ、自分も心地悪くなり、お互いに楽しくなくなります。僅かな楽しみに反比例して、悩み苦しみが大きくなることが発見できます。
DhP.344
yo nibbanatho vanādhimutto, 人は 無欲 森・志向する人 vanamutto vanam eva dhāvati; 森・脱する人 森に また 走る taṁ puggalam etha passatha, 彼を 人を ここに 見よ mutto bandhanam eva dhāvati. 脱した 束縛に また 走る
欲望の森(世俗)を脱して
無欲の森(出家)にいるのに
また欲望の森に駆けていく。
ほら、見なさい
脱した束縛に
また走る人の姿を。
エピソード
長老マハーカッサパの弟子だった男は、すでに第4段階のジャーナを達成していました。ある日、叔父の家に托鉢に行った際に1人の女性に出会い、彼女に一目惚れしてしまいました。彼女と一緒になりたいがために、彼は出家生活を離れ、在家の人となりました。しかし努力もせず、ろくに働かなかったので、叔父は彼を家から追い出しました。
その後、男は泥棒たちと行動を共にするようになり、ついに捕らえられ処刑されることになりました。マハーカッサパは、弟子だった男が処刑場に連れ出されるのを見て、「私の弟子よ、瞑想にしっかりと心を向けなさい」と言いました。彼は言われた通りに瞑想に集中し、深い精神統一状態を保ちました。
死刑執行人が彼を殺す準備をしていましたが、元弟子は非常に落ち着いて、恐怖や不安の兆しを見せませんでした。死刑執行人と見物人は、この男の勇気と落ち着きに畏敬の念を抱き、王とブッダに報告しました。王はその男を釈放するように命令しました。
ブッダは男の前に現れてこの詩句で、出家の生活を辞めることがいかに愚かなことかを教えました。男はその後、彼は再び出家の生活に入ることを認められ、すぐにアラハンになりました。
解説
人間は不完全です。出家者であっても、情欲・性欲は簡単に現れます。出家者がそれをコントロールできなければ、還俗することになります。
しかし出家者が、たとえ破門になって還俗しても、本人が改心して再び出家を願えば、再出家することができます。過ちを犯すのが人間なので、間違いに気づいたなら、改めて再出発・再チャレンジすればいいのです。格好悪いことなど、全然ありません。もし、「還俗したのに、そんな格好悪いことはできない」と思うならば、それが束縛です。
DhP.345
na taṁ daḷhaṁ bandhanam āhu dhīrā, ない それ 堅固の 束縛と 言う 賢者は yad āyasaṁ dārujaṁ pabbajañ ca; その 鉄製の 木製の いぐさ製の と sārattarattā maṇikuṇḍalesu, 執着に・染まった心 宝石・耳飾りへの puttesu dāresu ca yā apekhā, 子供への 女への そして 何であれ 愛着が
鉄製や木製やワラの枷は
強い縛りではないと賢人は言う。
宝石や装飾品への強い執着や
子供や女性への愛着の方が、
解説
次の詩句に続きます。
DhP.346
etaṁ daḷhaṁ bandhanam āhu dhīrā, それ 堅固の 束縛と 言う 賢者は ohārinaṁ sithilaṁ duppamuñcaṁ; 重い 緩い 言う 難い・脱する etam pi chetvāna paribbajanti, それ さえ 断って 遍歴する anapekkhino kāmasukhaṁ pahāya. なく・期待 快い・楽 捨てて
緩いようで重くのしかかり
なかなか抜け出せない
強い縛りだと賢人は言う。
それさえ断って期待しないで
快いも楽しみも捨てて修行する。
解説
財産や子供や妻への愛着=執着が、人間の心の自由を奪っています。大切だと思う何かが存在すれば、それを守らなければなりません。何かを期待すれば、それは相手にも自分にもプレッシャーを与えます。執着と愛着は、鎖や手錠よりもはるかに強い束縛なのです。
なぜ、心に束縛が起きるのでしょう?
身体に「感覚(vedanā)」があるからです。感覚がある肉体を持つ私たちは、目・耳・鼻・舌・身体・心の6ヵ所で感じます。束縛・執着は、この感覚から生まれます。
美しいものを見る(目から感じる)と、心地快く感じて「好きだ」と思い、適正だと認識します。キープしたい意欲が現れて、見たいものを求める欲が生じます。
醜いものを見る(目で感じる)と、心地悪く感じて「嫌だ」と思い、不適正だと認識します。遠ざけたい意欲が現れて、見たくないものを嫌悪する怒りが生じます。大なり小なりあっても、これが「Taṇhā 渇望」の仕組みです。
DhP.347
ye rāgarattānupatanti sotaṁ, 人は 欲に・染まった・近・苦 流れる sayaṁkataṁ makkaṭako va jālaṁ; 自分で・作った 蜘蛛の ように 網に etam pi chetvāna vajanti dhīrā, これ さえ 断ち切り 行く 賢者は anapekkhino sabbadukkhaṁ pahāya. なく・期待 すべての苦を 捨てて
蜘蛛が網を
自分で張るように
人は自ら作った
欲にまみれて流れる。
しかし賢人は
一切の苦しみを捨てて
期待しないで
これを断ち切って進む。
解説
造網性の蜘蛛は、自分のお尻から糸を出して網を張ります。獲物が網に引っ掛かると、その振動で獲物の方向を感知して捕まえそうです。蜘蛛も感覚をもって生きているのですね。
さらに蜘蛛は、網を自分で食べて回収し、毎日か1日おきに巣を新しくするそうです。糸を噛み切りながら、集めて団子状に丸めて食べるようです。この詩句の3行目「etam pi(これさえも)」が謎だったのですが、蜘蛛のこの習性を考えると理解できように思います。
DhP.348
muñca pure muñca pacchato, 放せ 前を 放せ 後を majjhe muñca bhavassa pāragū; 中を 放せ 有る 超えた sabbattha vimuttamānaso, すべての処で 解脱した・意思は na punaṁ jātijaraṁ upehisi. ない 再び 生・老に 近づく
過去を手放し、未来を手放し
時間の概念を超えて
現在を手放しなさい。
あらゆる場面において
解放された意思は
再び生まれて老いることはない。
解説
過去は今より前に起きたことです。1秒前のことも過去です。瞬間的に現在が過去になります。未来は今より後に起きることです。瞬間的に未来が現在になり、現在が過去になります。では、現在は一体どこにあるのでしょう。
私たちが「ある」と思っている時間は、一時的に存在するだけで常に変化していくのです。その変化を数えて、時間という単位に換算しているだけです。
私たちは便宜上、時間という概念を共有することで、共通の社会を生きていますが、実際には過去ばかり見ている人もいれば、未来ばかり気にしている人もいます。
過去に何かが起きたとしても、今は起きていない。未来に何かが起こるかもしれないが、わからない。なのに過去や未来に心を飛ばして、悩み苦しんでいます。過去と未来は想像上の現象ですが、それについて悩み苦しむ感情は現実です。リアルタイムで自分の心を傷つけているのです。
では、現在進行形で何かが起こっている場合はどうでしょう? 現在も瞬時に変わっていくので同じです。「エッ!?」と思っても、3秒待ち、30秒、3分、3時間、3日、3週間と待ってみれば、起こった出来事の刺激はどんどん薄れていきます。
追いかけて欲を抱いたり、怒ったり、無知で落ち込んだりするに値しないのです。反応の速い人ほど、瞬間瞬間、起きることを気にしますが無意味です。
気にすること=気づきではありません。「気にすること=自分の心を傷つけている」という自覚=気づきです。
敏感に反応することは、気づきではなく、欲・怒り・無知の発生です。「欲・怒り・無知の働きが、自分の心に生じた」と認識することが気づきです。常に敵は外ではなく、自分の内側にあるのです。
vimuttamānaso:vimutta(解脱した・解放された)mānasa(心・意)。mānasa は肉体を離れた心のことです。
DhP.349
vitakkapamathitassa jantuno, 考えが・混乱した 人は tibbarāgassa subhānupassino; 激しい・欲望 美しい・観察する bhiyyo taṇhā pavaḍḍhati, より多く 渇望は 増大する esa kho daḷhaṁ karoti bandhanaṁ. これ 実に 強い 作る 束縛を
美しいものを見て
欲が激しくなり
あれこれ思い描く人は
渇望がさらに増えて
強い束縛をつくる。
エピソード
ある若い修行僧が、若い女性が一人暮らしをしている家で水を求めたことがありました。彼女はすぐに彼に恋をして、いつでも托鉢に来てくださいと誘いました。その後、彼女は「お金は十分にあるけれど、とても寂しい」とほのめかしました。修行僧はその若くて魅力的な女性にどんどん惹かれていきました。出家生活に不満を持ち、出家をやめて彼女と結婚したいと思い詰めて、痩せ細っていきました。他の修行僧たちは、このことをブッダ に報告しました。
ブッダ はその修行僧に、「前世ではこの女性は君の妻だった」と言いました。「ある時、2人で旅をしていたら盗賊に襲われた。すると彼女は盗賊のリーダーと恋に落ち、彼らが夫である君を殺すのを手伝ったのだ。前世で彼女が君の死の原因となったように、現世でも彼女が君の修行僧としての人生を破滅させる可能性がある」。そしてブッダ はこの詩句とDhP350を語りました。修行僧はその助言を心に留め、覚醒に向けて熱心に努力し始めました。
解説
楽しいこと、嬉しいこと、快楽的なことを考えると、ワクワクして気分が上がるので、人は喜びを感じます。そして考えれば考えるほど、そのイメージが心に焼きつき、より多くの快楽を求めるようになります。楽しいことを想像するのは人間の喜びですが、渇望や執着も増えるのです。
DhP.350
vitakkupasame ca yo rato, 考えが・寂静 そして 人は 悦ぶ asubhaṁ bhāvayatī sadā sato; 不浄に 状態を 常に 気づき esa kho vyantikāhiti, これ 実に 終わらせるだろう esacchecchati mārabandhanaṁ. これ・断つ マーラの・束縛を
あれこれ考えるのを止めた人は
悦びを得る。
人の不浄を常に意識して
マーラの枷を断ち切って
渇望を終わらせるだろう。
解説
心地快いことをイメージするのを止めるのは、本当の意味での人の悦びです。ramati(悦び)とnandī(喜び)は違います。
nandī(喜び)は、嬉しく感じること、気分が上がった状態です。ramati(悦び)は、心のつかえがとれて楽に感じること、気分が穏やかで安らかな状態で、常に平静な状態です。
気分は上がれば落ちる。これは真理です。ずっと上がっていることも、ずっと落ちていることもあり得ません。
原始的な心に振り回されていると、気分によって喜んだり落ち込んだり、上がったり下がったりしてしまうのです。しかし、自分自身で心をコントロールすれば、上がったり下がったりすることなく、平静を保つことができるのです。これが本当の意味での悦びです。
渇望や執着を抑えるための瞑想法には、不浄なものを観察することで洞察を得る瞑想があります。どんなに美人でもイケメンでも、その肉体の中では臓物がうごめき、大腸には大便が、膀胱には尿が溜まっています。死ねば皮膚が膨れ上がり、腐って異臭を放ちます。こうした肉体の不浄について詳細に観察することで、どんな美人もイケメンも、贓物や体液が詰まった肉塊であり、どんどん劣化して、死んで腐る、という真実に気づくことができるのです。そうすると、一時的な美しさに執着することもなくなります。少しずつこの束縛を外していき、最終的には束縛から完全に自由になり、覚醒に至ることができます。
DhP.351
niṭṭhaṁ gato asantāsī, 目的に 達した人は ない・怖れ vītataṇho anaṅgaṇo; 離れ・渇望を ない・穢れ acchindi bhavasallāni, 取り除いた 存在・矢 antimoyaṁ samussayo. 最後の これが 身体
渇望を離れ、穢れがなく
目的に到達した人は怖れない。
刺さった矢を取り除いた
この肉体が最後になる。
解説
目的に到達した人=涅槃に到達した人=解脱者です。輪廻転生のサイクルから外れて、もう生まれ変わることはないので、今世が最後の身体=人生です。
私たちは怖がりです。病気になったらどうしよう、仕事がなくなったら、お金がなくなったら、家がなくなったら……。なってもならなくても怖い。この世でうまく生きていくことを心配して、怖いのです。
そして誰でも必ず経験する老いと死。これがもっと怖い。老いれば老いるほど、怖くなります。身体が思い通りにならない、足が不自由になるのも、歯がなくなるのも、不安で怖い。死に向かって、不安に怯えながら生きています。
この世でうまく生きられなくなることを心配して怖いのですが、それは死ぬのが怖いからです。誰でも例外なく、最終的には老いて死にます。当たり前のことなので、怖れるほどのことではないのです。
解脱した人は、怖いという心が生じなくなった人です。だから何が起きても動揺しません。極端に言えば、殺されても、「はい、そうですか。今、刃物が当たった部分に痛みを感じています」と怖れを感じることなく、現実をありのままに受け止められる人です。
DhP.352
vītataṇho anādāno, 離れ・渇望を ない・穢れ niruttipadakovido; 言語・詩句・熟知した人は akkharānaṁ sannipātaṁ, 文字を 配列を jaññā pubbaparāni ca; 知る 前後 と sa ve antimasārīro, 彼は まさに 最後の・身体 mahāpañño (mahāpuriso) ti vuccati. 偉大な智慧者 偉大な人 と 言われる
渇望も穢れもない
詩句の言語に通じ
言葉、文脈、前後関係を
理解する者
彼はまさに最後の身体
偉大な智慧者
偉大な人と呼ばれる。
解説
詩句の言語とは、ダンマパダなど経典のパーリ語原典のことだと解釈しました。パーリ語には文字がありません。ブッダ の時代は、文字を書くのは世俗的なことに限られていました。書くことは一種の冒とくだと考えられていたので、様々な宗教の聖典を書き記すことは許されず、すべて口伝伝承でした。
超合理的なブッダでも、弟子たちが教えを書き写すことを許しませんでした。弟子たちは、真理の言葉の意味を変えないように、教えを完璧に記憶することが重要でした。ブッダの教えについては、従兄弟であり秘書だったアーナンダが一語一句正確に記憶していました。ブッダの死後、ブッダの教えを書き残すことになった時に、アーナンダの記憶は重要な役目を果たしました。
DhP.353
sabbābhibhū sabbavidūham asmi, 全て・征服者 全て・知った 私です sabbesu dhammesu anūpalitto; 全てにおいて 現象において 汚れのない者 sabbañjaho taṇhakkhaye vimutto, 全て・捨てた者 渇望・滅尽した 解脱した者 sayaṁ abhiññāya kam uddiseyyaṁ. 自分で 熟知して 誰を 言うだろう
私はすべてを知り
すべてを克服した。
いかなることにも心は汚れない。
すべてを捨てて
渇望を滅尽して解脱した。
自分で悟った。
誰を師と言えるだろう。
エピソード
ブッダ が解脱して間もない頃、ウパカという行者に出会いました。ウパカはブッダのあまりに神々しい姿に感銘を受け、「あなたの師匠は誰か」と尋ねました。ブッダ は、自分には師匠はいない、完全に自分の力で解脱に至ったのだと、この詩句で答えました。ウパカは、ブッダ を信じるでもなく、信じないでもなく、ただ立ち去りました。
解説
この時ブッダは、まだ誰にも真理を説いていません。ブッダは、元の修行仲間で自分から離れていった5人の比丘たちに真理を説くために、ヴァーラーナシーに向かって歩いているところでした。本来であればウパカが、ブッダの最初の説法を聞いた人物ですが、ウパカはスルーしてしまったのです。
DhP.354
sabbadānaṁ dhammadānaṁ jināti, すべての施しに ダンマの施しが 勝つ sabbaṁ rasaṁ dhammaraso jināti; すべての 味に ダンマの味が 勝つ sabbaṁ ratiṁ dhammaratī jināti, すべての 悦びに ダンマの悦びが 勝つ taṇhakkhayo sabbadukkhaṁ jināti. 渇望の滅尽は すべての苦しみに 勝つ
ダンマを施すことは
あらゆる施しに勝る。
ダンマの味わいは
あらゆる味に勝る。
ダンマの悦びは
あらゆる悦びに勝る。
渇望の滅尽は
あらゆる苦しみに勝つ。
エピソード
神々が4つの質問について議論していました。お布施で一番優れているのは何か? 味の中で最も優れているのはどれか? 悦びの中でどれが一番か? すべての苦しみを克服するには? 答えが見つからないので、神々の王であるサッカ神がブッダに質問をしました。ブッダ はこの詩句で答えました。
DhP.355
hananti bhogā dummedhaṁ, 殺している 富は 愚かな人を no ve pāragavesino; ない 実に 彼岸・求める人を bhogataṇhāya dummedho, 富への・渇望で 愚かな人は hanti aññe va attanaṁ. 殺す 他人の ように 自分を
富は愚かな人を破滅させるが
解脱を求める人には関係ない。
愚かな人は富への渇望から
他人のように自分を滅ぼす。
エピソード
ジャータカ物語(ブッダの前世の話)の1つです。長者の家に生まれたブッダの、両親が亡くなりました。財産が自分のものになり、財産管理者が「これは父親の財産、これは母親の財産、祖父の財産、曽祖父の財産」と説明していきました。
それを聞いてブッダは、「みな必死で財産を築いたのに、誰も来世に持って行っていない。すべてを置いて、何の功徳もない。私はすべての財産を持って、あの世に逝く」と考えて、全財産を必要な人々に分け与えました。ブッダは一文無しになり、出家して森に入って修行しました。
解説
ブッダは自分が財産の持ち主である間に、すべてを寄付したのです。必要な人々のために財産を使うことで、来世でその財産の恩恵を受けることになるのです。
お金や物は死んだら持って行けませんが、身体・言葉・考えることで何らかの行為をしたならば、善も悪も行為の結果は、死んでも来世についていきます。決して自分から離れません。だから来世で幸福をもたらす善行為をした方がいいですよね。すべての財産を恩恵に変えて、持っていった方がいいのです。
DhP.356
tiṇadosāni khettāni, 草は・悪い状態 田には rāgadosā ayaṁ pajā; 欲は・悪い状態 この 人々には tasmā hi vītarāgesu, それ故 実に 離れる・欲から dinnaṁ hoti mahapphalaṁ. 与えることは なる 大きな・果報に
雑草のある田畑は悪い状態
欲のある人間は悪い状態
欲のない人に与えるならば
実に大きな成果になる。
解説
雑草だらけの田畑に種を蒔くよりも、雑草のない田畑に種を撒いた方が効果的です。人間も同じです。欲だらけの人に与えるよりも、欲のない人に与える方が成果が大きいのです。
DhP.357
tiṇadosāni khettāni, 草は・悪い状態 田には dosadosā ayaṁ pajā; 怒りは・悪い状態 この 人々には tasmā hi vītadosesu, それ故 実に 離れる・怒りから dinnaṁ hoti mahapphalaṁ. 与えることは なる 大きな・果報に
雑草のある田畑は悪い状態
怒りのある人間は悪い状態
怒りのない人に与えるならば
実に大きな成果になる。
解説
与えることは他者と共有することであり、とても大切ですが、誰に与えるかは気をつけなければなりません。怒りのある人に何かを与えることは、その人だけでなく、社会にも害を与えることになるからです。
DhP.358
tiṇadosāni khettāni, 草は・悪い状態 田には mohadosā ayaṁ pajā; 無知は・悪い状態 この 人々には tasmā hi vītamohesu, それ故 実に 離れる・無知から dinnaṁ hoti mahapphalaṁ. 与えることは なる 大きな・果報に
雑草のある田畑は悪い状態
無知な人間は悪い状態
無知ではない人に与えるならば
実に大きな成果になる。
解説
無知な人には理性がありません。無知な人に与えても、その人を助けるどころか、かえって不幸になるかもしれません。
DhP.359
tiṇadosāni khettāni, 草は・悪い状態 田には icchādosā ayaṁ pajā; 願望は・悪い状態 この 人々には tasmā hi vigaticchesu, それ故 実に 離れる・無知から dinnaṁ hoti mahapphalaṁ. 与えることは なる 大きな・果報に
雑草のある田畑は悪い状態
願望のある人間は悪い状態
願望のない人に与えるならば
実に大きな成果になる。
解説
rāga(欲望)、dosa(怒り)、moha(無知)とくれば、次はこの章のテーマである taṇhā(渇望)と続くはずですが、ここでは icchā(願望)となっています。
taṇhā(渇望)は、経験した喜びをもう一度味わいたいと望むことです。一方、icchā(願望)は、未経験の想像される喜びを味わいたいと望むことです。どちらもnandī(喜び)を望むことですが、taṇhā は経験されたもので、icchā は想像されたものです。
この違いが重要なのは、私たちが「 icchā の時代」に生きているからです。私たちは「願いが叶う時代」に生きています。新しい技術はすべて icchā から生まれます。これらの新しい技術は、nandī(喜び)によって苦しみを紛らしてくれますが、同時に渇望をもたらします。現代の仕事のほとんどは、この icchā の追求と、その新しいものへの渇望の成果を収益化して展開しています。私たちはすぐに古い欲求に飽きて、次々と新しいものを求め、喜んでそれを使い捨てています。
この対極にあるのが「anicchā(an-icchā)無求」です。願望・渇望から離れた人は、何であろうとすべてを受け入れます。未経験のnandī(喜び)を味わいたいというicchā(願望)も、経験後にもう一度nandī(喜び)を味わいたいというtaṇhā(渇望)もないのです。
ダンマパダ24章「渇望」了
まとめ
美しいと感じるのも、醜いと感じるのも、個人的な主観です。何の根拠もありません。ただのフィーリングです。それなのに人は、自分が好きだと感じたものを正しいと思い込み、大切に守ろうとします。嫌いだと感じたものは間違っていると思い込み、怒りを抱いて排除しようとします。
しかしこの世は「私」のイメージ通りには展開しません。当たり前なのに、思い通りにいかないことを、憂いたり、悲しんだり、悩み苦しんでいます。自分で作り出した愛着や嫌悪に、自ら縛られています。
問題はいかなる場合でも、外ではなく自分の内側にあるのです。自分自身の心が、美しいとか醜いとか、好き嫌いに判別して、自分で自分を縛っているのです。だから、人と話すとぶつかるから、誰ともつきあわない。見ると欲が生まれるから、森で隠遁する。これは一時的なストレス解消でしかなく、根本的な解決にはなりません。
感覚のある肉体を持って生きている私たちが、感覚から生じる渇望のシステムから抜け出すことはとても難しいのです。生命の本能だからです。ブッダは、この「Taṇhā(タンハー)渇望」こそが苦しみの原因だと発見したのです。