ダンマパダ6章 76〜89

Paṇḍita-vaggo 賢い人の章

ダンマパダ6章は、Paṇḍita賢い人」がテーマです。Paṇḍita とは、賢くい、懸命で、巧みな、思慮深い人のことです。

DhP.076

nidhīnaṁ va pavattāraṁ,
隠れた宝 ような 指摘
yaṁ passe vajjadassinaṁ; 
人 見ている 間違いを・見つける
niggayhavādiṁ medhāviṁ, 
叱責者 賢き
tādisaṁ paṇḍitaṁ bhaje;
そのような 賢い人に 近く
tādisaṁ bhajamānassa, 
そのような 付き合いにおいて
seyyo hoti na pāpiyo.
より良い ある ない より悪い

欠点を指摘してくれる人は
宝のありかを
教えてくれるようなもの。
そんな賢い人を見つけたなら
その賢い人と親しくなりなさい。
そのような人と付き合うなら、
良いことはあっても
悪いことにはならない。

解説
人は、他人の欠点は見えても、自分の欠点は見えないものです。また、自分が気に入る人の指摘は素直に受け入れられても、そうではない相手の指摘には、ムッとしてしまうのです。

DhP.077

ovadeyyānusāseyya, 
訓戒・忠告すべし
asabbhā ca nivāraye, 
無・作法の と 遠ざける
sataṁ hi so piyo hoti, 
善い 実に 人 好き なる
asataṁ hoti appiyo.
不・善 なる 否・好き

人を諭して、忠告しなさい。
不正を遠ざけるために。
そうすれば良い人から好かれ
悪人からは嫌われるだろう。

エピソード
キタギリの村にアッサジとプナバスカという2人の僧侶が弟子を連れて滞在していました。彼らは好き勝手に木を植えたり、戒律を破ったりしました。そのため僧院は騒がしくなり、瞑想修行には適さなくなっていました。

このことを知ったブッダは、サーリプッタとモッガラーナを派遣して、この僧侶たちに助言を与えました。彼らに諭された後、ほとんどの僧侶は生活様式を変えましたが、中には不満を持ち、在家に戻ってしまう者もいました。

ブッダは「諭すことや忠告することは、善人にはいつでも問題ないが、悪人は助言されることに同意しないものだ」と言いました。

DhP.078

na bhaje pāpake mitte, 
ない 親しむ 悪い 友
na bhaje purisādhame, 
ない 親しむ 人・最下の
bhajetha mitte kalyāṇe, 
親しめ 友 善良な
bhajetha purisuttame.
親しめ 人・最上の

悪い友人とは付き合わない。
最低な人とは付き合わない。
良い友人と付き合うこと。
最高な人と付き合うこと。

解説
良い友とは、助けてくれる人です。あなたの成功を自分のことのように喜び、悪口を言ったりしない人です。

悪い友は、なにかと理由をつけて手伝ってくれない人です、でも、怖い時、不安な時、自分の有利になる時だけは助けてくれます。そしてあなたが成功すると、妬んで悪口を言う人です。

DhP.079

dhammapīti sukhaṁ seti, 
ダンマを・喜ぶ 安楽 暮らす
vippasannena cetasā; 
清浄の 心によって
ariyappavedite dhamme,
聖者の・説いた ダンマ
sadā ramati paṇḍito.
常に 楽しむ 賢い人は

ダンマの実践に
悦びを見出す人は
清い心で幸せに暮らす。
賢い人は
ブッダが説いた真理で
常に満ち足りている。

解説
ramatiとは、「悦にいる=物事がうまくいって、喜び満足すること」という意味です。ram は「満ち足りた気分」です。でも、その中で、「満ち足りた気持ち」に「入る(いる)」ということです。

これは喜びを外に表現するのではなく、自分の心の中で、自分にしかわからない喜びを、自分の世界だけで喜ぶということです。

この世は常に変化し続けているので、満足するという状態が永遠に続くことはありません。これはダンマ(真理)です。だから、外の世界に満足し続けることは不可能ですが、自分の心の中だけであれば、常に満足することは可能なのです。

DhP.080

udakaṁ hi nayanti nettikā, 
水 実に 運ぶ 導く人
usukārā namayanti tejanaṁ, 
矢を作る人 加工する 矢を
dāruṁ namayanti tacchakā, 
木材 加工する 大工
attānaṁ damayanti paṇḍitā.
自我を 調教 賢者

水道屋は水を自在に扱う
矢職人は矢を自在に扱う
大工は木材を自在に扱う。
賢い人たちは
自分の心を自在に扱う。

解説
人にとって職業は副業で、本業は心を調えることです。自分にあった仕事だとか、好きな仕事だなどと悩んだり、そのために仕事がないなどとは考えずに、とにかく働けばいいのです。それよりも本業である心を調えることに力を使った方がいいのです。

DhP.081

selo yathā ekaghano,
岩は ように 固い
vātena na samīrati; 
風によって ない 動く
evaṁ nindāpasaṁsāsu,
このように 非難・賞賛によって 
na samiñjanti paṇḍitā.
ない 屈する 賢者は

風にびくともしない
岩のように賢い人は
非難にも賞賛にも動じない。

解説
人は非難されれば、落ち込んだり怒ったり。賞賛されれば、喜んだり自惚れたりします。賢者は何が起こっても、心を動かさず、感情を左右ないのです。

DhP.082

yathā pi rahado gambhīro, 
ように 湖 深い 
vippasanno anāvilo; 
清浄の 濁りのない
evaṁ dhammāni sutvāna, 
そのように ダンマを 聞いて
vippasīdanti paṇḍitā.
清らかだ 賢人

清く澄みきった深い湖のように
賢い人は真理に耳を傾けて
心を澄ませる。

解説
かと言って、無感情なわけではありません。静かに深く澄みきったその心は、常に平静なのです。そして慈愛の心、優しさや思いやりで溢れています。そして自分のためにではなく、他者のために心を配るのです。

DhP.083

sabbattha ve sappurisā cajanti, 
すべて・ここ 実に 善人 諦める
na kāmakāmā lapayanti santo, 
ない 欲・欲へ 静かな人は
sukhena phuṭṭhā atha vā dukhena, 
楽に 触れた 時に あるいは 苦に
noccāvacaṁ paṇḍitā dassayanti.
ない・上下 賢い人 見える

賢い人はすべてを捨てられる。
気分次第で語ることもなく
良いことがあっても
苦しいことがあっても
舞い上がったり
落ち込んだりしない。

解説
愚かな人だけが、物事がうまくいかないときには悲しみに打ちひしがれ、すべてがうまくいっているときには嬉しくて幸せなのです。賢い人は、こだわりを捨て、良いことに直面しても悪いことに直面しても、常に穏やかで平静です。

DhP.084

na attahetu na parassa hetu, 
ない 自分の・ため ない 他人の ためで
na puttam icche na dhanaṁ na raṭṭhaṁ;
ない 子供を 願う ない 財産を 王国
na iccheyya adhammena samiddhim attano,
ない 願うような 非・法 成功 自分の
sa sīlavā paññavā dhammiko siyā.
人は 道徳的な 智慧のある 真理・備えた なるだろう

自分のためであっても
家族のためであっても
子供や財産、権力を
望むことはない。
法に反してまで
成功を願うこともない。
モラルのある人には
智慧と真理が備わるだろう。

エピソード
サーヴァッティの町に、身重の妻を連れた男が住んでいました。男は出家したいと思い、妻に許可を求めました。妻は、子供が生まれてからにしてほしいと頼みました。男は妻の言う通りにしました。

子供が生まれたので出家しようとすると、妻は再び、子供が歩けるようになってからにしてほしい頼みました。男は「妻に出家を認めてもらうのは無駄だ。自分の解放のために働こう」と考えました。決意を固めた彼はすぐに出家し、熱心に瞑想を修行して、たちまち悟りを得てアラハンになりました。

数年後、男は家族にダンマを教えるため、自分の家を訪れました。教えを受けた息子も出家し、やがてアラハンになりました。妻は「夫も息子も出家したのだから、私も出家したい」と思い、彼女も出家して修行し、やがて彼女もアラハンになりました。

ブッダは、一家全員がアラハンになった経緯を聞かされ、「彼はただ、ダンマを理解し、ダンマに従って生きることで、輪廻から自分を解放するために働いただけだ」と言いました。そしてこの言葉を付け加えたのです。

DhP.085

appakā te manussesu, 
少ない 彼らは 人間において
ye janā pāragāmino; 
その 人々は 向こう岸に行く
athāyaṁ itarā pajā, 
時にまた 他の 人々
tīram evānudhāvati.
岸を だけ・走り回る

向こう岸に
たどり着く人は少ない。
多くの人々はこちら岸を
走り回っているだけ。

解説
向こう岸=涅槃。ほとんどの人は、この世に執着しているので向こう岸には行けません。向こう岸に到達して涅槃を得ることができるのは、ごくわずかの人です。

DhP.086

ye ca kho sammad-akkhāte, 
彼らは と 実に 正しく 語られた
dhamme dhammānuvattino; 
ダンマに ダンマに・従う人は
te janā pāram essanti, 
これらの 人々は 向こう岸に・行くだろう
maccudheyyaṁ suduttaraṁ.
死の領域 極めて越えがたい

正しく説かれた真理に
則って修行する人は
渡るのが非常に困難な
死の領域(輪廻)を超えて
向こう岸に渡る。

解説
間違った考え方を聞くと、知識を得たはずが無智になり、悩み苦しむことになります。正しい真理に則って素直に実践すれば、自然に苦しみから自由になります。それが涅槃です。

輪廻転生については、興味がある方はこちらの記事「死んだらどうなるのか」をお読みください。ご参考まで。

DhP.087

kaṇhaṁ dhammaṁ vippahāya, 
黒い ダンマを 放棄して
sukkaṁ bhāvetha paṇḍito; 
白い 修習せよ 賢い人は
okā anokaṁ āgamma,
家から 非家に よって 
viveke yattha dūramaṁ.
離れて 所へ 困難・楽しみ

賢い人は
暗い悪の道を捨てて
明るく正しい道を
修行しなさい。
出家して、世俗の
楽しみがない所でね。

解説
二人の僧侶がブッダに会いに来て、瞑想についてのアドバイスを求めました。ブッダ はこの詩句と次の88、89の詩句で助言しました。

瞑想修行に完全に専念するためには、「悪い状態を放棄」しなければなりません。これは悪行や悪い想念のことです。瞑想しながら、過去の怒りを反芻していては、いくら浄化しても、心は汚れっぱなしになります。そして良い状態、つまり良い行ないや良い思考を身につけなければなりません。

もし心を入れて修行したいのであれば、世俗の生活を捨てて出家し、孤独の中で熱心に瞑想することはとても良いことです。孤独の中では「楽しむもの」や「心を満たすもの」は何もなく、自分自身だけが残され、修行に集中しなければならないからです。

DhP.088

tatrābhiratim iccheyya, 
そこに・喜びを 願うように
hitvā kāme akiñcano; 
捨てて 欲を 何もない
pariyodapeyya attānaṁ,
浄化するように 自分を
cittaklesehi paṇḍito.
心の汚れを 賢い人は

欲を捨てて執着するものが
何もないことを喜びなさい。
賢い人は
心の汚れを浄化しなさい。

解説
kāma(カーマ)は、欲望・願い・憧れなど、5つの感覚器官(目耳鼻舌身)を通してに感じる欲求です。何かを見たいと思ったり、聞きたい、嗅ぎたい、味わいたい、触れたい、触れられたいと思う気持ちです。また、その好みの対象という意味でもあります。

DhP.089

yesaṁ sambodhi aṅgesu, 
それらの 悟りの要素において
sammā cittaṁ subhāvitaṁ; 
正しく 心は よく・修めて
ādānapaṭinissagge, 
掴む・捨離
anupādāya ye ratā;
執着なく それを 楽しむ
khīṇāsavā jutimanto, 
尽きた・汚れ 光輝いて
te loke parinibbutā.
彼らは この世で 完全な涅槃に

悟りに必要な7つの要素で
心を正しく鍛える。
「私のもの」を手放して
執着がないことを楽しむ。
この世で完全な涅槃に入った人は
穢れが消えて光り輝いている。

解説
悟りに必要な7つの要素」とは、気づき・探究心・やる気・喜び・安らぎ・集中力・平静さです。詳細はこちら

ādāna-paṭinissagga は「握る・捨離」断捨離です。片付け論として世俗で流行った断捨離は「不要なものを断つ・捨てる・離れる」ですが、ブッダ の教えでは「私のもの」だと掴んでいたものを手放して、執着をなくすということです。

完全な涅槃に入った人は、悟った人アラハンのことです。次の章のテーマになります。

ダンマパダ6章「賢い人」了