ダンマパダ7章 90〜99

Arahanta-vaggo アラハンの章

ダンマパダ7章は、Arahantアラハン」がテーマです。アラハン(仏教用語では阿羅漢)とは悟りを完成させた人のことです。

この章は、ブッダ の教えの基本の最後です。修行を完成すればどうなるのかについて語られています。

DhP.90

gataddhino visokassa, 
行った・旅路を 憂いなき
vippamuttassa sabbadhi; 
自由となった すべての・処で
sabbaganthappahīnassa, 
すべての・束縛・捨てた人に
pariḷāho na vijjati.
熱悩は ない 見出され

旅路を終えて
憂いがなくなった人
すべての場で解放された人
すべての束縛を捨てた人には
苦悩は見当たらない。

解説
gataddha:(涅槃への)旅路を終えた人という意味です。

pariḷāha熱脳という意味ですが、身を焼くような心の苦悩です。sabbadhi:単なる場所としての全ての所ではなく、場所はもちろん、人生におけるあらゆる場面において、という意味です。

すべてが解放された人とは、渇望・憎悪・迷いが一切なく、心が束縛から解放されて執着がない状態で、これを「悟り(涅槃・解脱)」といいます。悟りを得た人アラハンには、痛みもないそうです。アラハンについて詳細はこちら

DhP.91

uyyuñjanti satīmanto, 
出発する 気づきのある人は
na nikete ramanti te; 
ない 家庭に 楽しみ 彼らは
haṁsā va pallalaṁ hitvā,
白鳥 ように 沼を 離れる
okam okaṁ jahanti te.
居場所 居場所 捨てる 彼らは

気づきを得たアラハンに
心の拠り所はなく
家庭に楽しみを
見出すことはない。
白鳥が沼を離れるように
すべての居場所を捨てられる。

解説
Sati(サティ)は、ブッダ の教えで最も重要なキーワードの1つです。「気づき」という意味です。いわゆるマインドフルネスです。常に心が自分のしていることに気づいている、自覚している状態です。アラハンは、常に自分の行為・言葉・思考に気づいています。

uyyuñjati:出発する。活動する。pabbajati(出家する)と似ていますが、実際に出家するかどうかは関係なく、たとえ、家族と一緒に暮らしていても、家庭や家族に依存せず、心が拠り所から完全に旅立つということです。

私たちにとって「居場所」があることは、心の安泰に必要不可欠なことです。ところがアラハンは、居場所をすべて捨てられる人なのです。家庭も社会もすべてです。だからといって、完全に孤立して生きるということではありません。

どこにも誰にも依存せず、どこであっても、誰であっても、出会う場、出会う人と共存して生きることができる、ということです。安住できるような「私の居場所をもたないのです。世俗の価値観では、なかなか理解できないことですが、これができる人は本当に心が強い人だと思います。

DhP.92

yesaṁ sannicayo natthi, 
彼らに  蓄積は ない
ye pariññātabhojanā; 
彼らは よく知る・食事を
suññato animitto ca,
空(くう)は 無・前兆は と 
vimokkho yesaṃ gocaro;
解脱 彼らの 行処は
ākāse va sakuntānaṁ, 
空(そら)を ように 鳥の
gati tesaṁ durannayā.
行方 彼らの 難い・随行

アラハンはため込んだりせず
「食」を十分理解している。
彼らの目的は解脱であり
(渇望・憎悪・迷いの)
兆しがなくなり
空(くう)になること。
空を飛ぶ鳥の行方のように
その道をたどるのは難しい。

エピソード
長老ベラッタシサは、ある村で托鉢をして歩きました。食べ物が集まるとそれを食べ、食べ終わったら、さらに食べ物を求めて托鉢を続けました。そして僧院に戻ってから、集めた米を乾燥させて保存しました。そうすることで、毎日その米を水に浸して食べ、瞑想に集中できたのです。

それを見た他の僧侶たちは、「この人は怠け者で欲張りだ」と思い、そのことをブッダに報告しました。ブッダは、これが全ての僧侶の間で習慣化されてしまうと、怠惰や貪欲につながる恐れがあると考え、僧侶たちが食べ物をため込むことを戒めました。

しかし、ベラッタシサは食べ物が欲しくて米をため込んだのではなく、瞑想の時間を増やすために米を蓄えたのだから、彼を一切責めてはならない、とブッダは宣言しました。アラハンは何も欲張らず、快楽のためではなく、体を良い状態に保つためだけに食べ物を取ると、この言葉を語りました。

解説
Bhojana は「食べること・飲食」という意味です。私たちにとって、食事は楽しみです。食べるために生きているといってもいいくらいです。人は、食べて満足したいのです。不満があると、好きなものを食べて心を落ち着かせるのもそのせいです。食べて満足することで、不満が解消されたように心が錯覚するのです。

しかし修行者は違います。食べることは生命をつなぐのに最低限の栄養分の摂取であり、心を満足させるものではありません。ましてアラハンにいたっては、もし目の前に飢えているものがいれば、自分の「食べ物(場合によっては自分自身)」を与えてしまいます。

この地球上で、必要以上に食べるということは、その分食べられない生命がいるかもしれないのです。ですから、「食べる」ということを、よく理解しているアラハンが、何かを蓄えることはありません。もし食べる物がなければ、それをありのままにyathā-bhūta)受け止めることができるのです。生きるために何とかしようと、あがらうことはしません。

DhP.93

yassāsavā parikkhīṇā, 
彼の穢れが 滅尽した
āhāre ca anissito; 
栄養において そして ない・依存
suññato animitto ca, 
空(から)は 無・前兆は と 
vimokkho yassa gocaro;
解脱 彼らの 行処は
ākāse va sakuntānaṁ, 
空(そら)を ように 鳥の
padaṁ tassa durannayaṁ.
足跡 彼らの 難い・随行

心の穢れがないアラハンは
食べ物に執着しない。
彼らの目的は解脱であり
(渇望・憎悪・迷いの)
兆しがなくなり
空(くう)になること。
空を飛ぶ鳥の軌跡のように
その道をたどるのは難しい。

解説
Āhāra は「食べるもの。栄養」です。

私たち人間は、必ず何かを食べて生きています。「食べもの」というと「食糧」が思い浮かびますが、「食べもの」には4つの種類があります。ひとつは体の栄養、残りの3つは心の栄養です。

  1. 食べ物(口から得る物質)さまざまなものを食べて消化します。
  2. 刺激(接触による感覚)心は、快い感覚を得るために常に刺激を求めています。
  3. 欲望(思考による意思)心は、自分にとってより良い状態を常に求め続けています。
  4. 渇望(意識による心)上記3つの食べ物がより多く手に入るようにと欲する心。人間が生きているということは、意識があるということです。それは心を回転させ続けることです。それには、心を動かす渇望が必要です。

私たちは食べ物だけでなく、心地よい刺激や、どんどん広がる自分の欲に支えられて生きているのです。

かつてブッダは、極端な断食修行をしました。しかし「苦行では解脱できない」と悟り、断食を放棄しました。修行仲間からは脱落者扱いでしたが、スジャータが施したキール(ミルク粥)を食べた後、瞑想によって完全な悟りを開いたのです。

つまり、私たちを支えている「食べ物」を否定しても、解脱できないのです。だからといって全面的に肯定しているわけでもありません。ブッダが悟ったのは、両極端ではなく「中道」であり、4種の食べ物を適切にコントロールすれば、解脱できるということです。

DhP.94

yassindriyāni samathaṁ gatāni, 
彼の・感情は 定まっている 様子
assā yathā sārathinā sudantā,
母馬 ように 御者 よく・訓練された
pahīnamānassa anāsavassa,
捨てた・慢心 ない・穢れ
devā pi tassa pihayanti tādino.
神々 も 彼を 羨む そのような

よく調教された母馬のように
アラハンは感情の
浮き沈みがないので
比較したりせず
心に穢れがありません。
このような人は
神々の羨望の的。

解説
indriyaniindriya(感覚知覚の能力)の複数形。indriyaは、スッタ(経典)やアビダンマ(説法解説書)にある22の物理的・精神的な感覚現象のことです。詳細はこちら

アラハンには感情の起伏がありません。喜怒哀楽が安定していて、平静でバランスのとれた穏やかな心だからです。

私たちの心は4種類の食べ物をエネルギーにしていますが、これらは6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)から取り入れています。人はこのエネルギーをコントロールしないでインプットしているので、心は常に忙しくて、落ち着く暇がないのです。常に喜怒哀楽でアップダウンしています。

DhP.95

paṭhavisamo no virujjhati, 
大地・等しい ない 敵意
indakhīlūpamo tādi subbato; 
門柱の・ような そんな 善行者は
rahado va apetakaddamo, 
湖の ような 消失・泥は
saṁsārā na bhavanti tādino.
輪廻は ない 存在する そのような人は

徳の高い人は
大地のように何も恨まず
門柱のように執着せず
泥が消えて澄んだ湖のような
そのような人は輪廻しない。

エピソード
ある時、長老サーリプッタが数人の従者を連れて、旅に出ようとしていました。その時、サーリプッタに些細なことで恨みを持つ若い僧侶がブッダに近づき、「サーリプッタに罵倒され、殴られた」と偽りの報告をしました。

ブッダがサーリプッタを呼び寄せて尋ねると、サーリプッタは次のように答えました。「不動の心を持つ身の僧侶が、仲間の僧侶に悪いことをしたのに、どうして謝らずに旅に出ることができるのですか? 私は、花が咲いても喜ばず、ゴミや排泄物が積まれても恨まない大地のようなものです。ドアマットや乞食、角の折れた牛のようなもので、もう自分の身体に執着することもありません」

若い僧侶は非常に悔やんで涙を流し、自分が嘘をついたことを認めました。ブッダはサーリプッタに、若い僧侶の謝罪を受け入れるよう助言しました。するとサーリプッタは、若い僧侶を赦し、もし自分が何か悪いことをしたのなら、許してほしいと頼みました。

DhP.96

santaṁ tassa manaṁ hoti, 
寂静 彼の 心は である
santā vācā ca kamma ca; 
寂静の 言葉は と 行為 と
sammad aññāvimuttassa, 
完全な 了知・解脱した
upasantassa tādino.
静まる そのような人は

アラハンの心は穏やかで
言葉も行ないも穏やか。
正しい智慧を理解した人は
何があっても冷静。

エピソード
長老ティッサは、7歳でアラハンになったサーマネラ(sāmaṇera 小僧)を伴って、ブッダに会うためサーヴァッティに向かいました。途中、ある村の僧院で一晩を過ごしました。ティッサは眠ってしまいましたが、小僧は年老いたティッサのベッドの傍らで一晩中起きていました。

早朝、ティッサはそろそろ小僧を起こす時間だと思い、小僧を起こそうとしました。すると扇子の柄が小僧の目に当たり、目を傷つけてしまいました。小僧はその目を片手で隠しながら、ティッサの顔や口を洗うための水を汲んだり、僧院の床を掃除したりと、仕事をこなしていました。

小僧が片手でティッサに水を差し出すと、ティッサは彼を叱り、両手で物を差し出しなさいと言いました。ティッサはその時初めて、小僧が目を失ったことを知りました。その瞬間、ティッサは自分が本当に尊い人を傷つけてしまったことを悟り、申し訳なさと屈辱を感じて、小僧に謝罪しました。

しかし小僧は、それは長老のせいでも、自分のせいでもなく、カンマ(kamma 行為)の結果に過ぎないのだから、長老は悲しむ必要はないと言いました。しかしティッサは、この不幸な出来事を乗り越えられませんでした。

2人はサーヴァッティへの旅を続け、ブッダのいる僧院に到着しました。そこでティッサは、一緒に来た小僧が、今まで出会った中で最も高貴な人物であることをブッダに伝え、旅の途中で起きたことをすべて話しました。ブッダはそれを聞いて、「アラハンは誰に対しても何があっても怒らない。感覚が抑制されていて、完全に穏やかで落ち着いている」と答えました。

解説
アラハンは、何が起きても、それをありのままに(yathā-bhūta)受け止めることができます。

私たちの心は、知らないことや理解できないことがあると不安になり、知りたい、わかりたい という思いで、落ち着きがなくなります。

アラハンは、完全な智慧で全てのことを理解した人なので、わからないことはありません。だから心に不安や不安定は生じず、常に心が穏やかです。この穏やかさは、努力してできるものではありませんが、心の汚れがなくなると、自然にそうなるそうです。

DhP.97

assaddho akataññū ca, 
無信仰は ない・恩義 と
sandhicchedo ca yo naro; 
結合・切断 と その 人は
hatāvakāso vantāso, 
機会・失った 吐き出した・意欲を
sa ve uttamaporiso.
彼は まさに 最上の人

信じているからではなく
恩があるからでもなく
その人が自ら実行して
輪廻を断ち切り
善も悪もなくなり
渇望を吐き出した
アラハンはまさに最上の人。

エピソード
ある村の30人の僧侶が、ブッダに会うために僧院にやってきました。ブッダはこの僧侶たちが、アラハンになる機が熟したことを知っていました。そこでブッダはサーリプッタを呼び寄せ、彼らの前で「サーリプッタよ、あなたは感覚を瞑想することで涅槃を悟ることができるという事実を受け入れますか?」と尋ねました。

サーリプッタは「感覚を瞑想することで涅槃が実現することについて、私はあなたを信じているから受け入れるのではありません。人から聞いた事実を受け入れるのは、自分で実現していない人だけです」と答えました。

僧侶たちはサーリプッタの答えをよく理解できず、「サーリプッタは、まだ間違った考えを捨てていない。今でもブッダを信じていない」と思いました。そこでブッダは、サーリプッタの答えの本当の意味を説明しました。

「サーリプッタは、感覚の瞑想によって涅槃が実現されるという事実を受け入れていますが、それは彼自身の個人的な実体験によるものであり、単に私が言ったから、あるいは誰かが言ったからではありません。サーリプッタは私を信頼していますが、同時に善いも悪いも行為の結果を信頼しているのです」

解説
どんなに瞑想のやり方を聞いても、教えを聞いても、心の仕組みを頭で理解しても。自分の心の汚れは、自分で瞑想を実行し、汚れに気づいて消さない限り、決して消えません。

ここでブッダは「自力的修行者」であることが涅槃の道への条件としていますが、後世の宗教・宗派では「他力的信仰者」に変化していきました。

ダンマパダが編纂された時代は不明ですが、おそらく紀元前3世紀頃と考えられているようです。少なくともアショーカ王(紀元前268〜232年)の時代にはあったようです。この時代までは明らかに「信仰ではなく、自分で実践すること」と説かれています。

hatāvakāso は、すべての善悪の機会がなくなった人という意味です。アラハンに達すると、良いことも悪いことも、すべてただ行なうだけになり、結果が出せなくなるそうです。理解が難しいところですが、良い悪いの判断は、想像や願望、妄想から発生するので、それらを滅したアラハンであれば、判断のしようがありません。良い悪いを判断せずに起きた事実実際に体験した事実のみを信頼しているということです。DhP.095のエピソードも「アラハンなのに、どうやって結果を出せますか」ということです。

DhP.98

gāme vā yadi vāraññe, 
村で あるいは もし あるいは・森林で
ninne vā yadi vā thale; 
低地で あるいは もし あるいは 高地で
yattharahanto viharanti, 
の所へ アラハンは 住む
taṁ bhūmiṁ rāmaṇeyyakaṁ.
その 土地 快適

村でも森でも
谷でも丘でも
アラハンがいるところは
どこでも極楽。

解説
ninna:低地・湿地 、thala:高地・乾地。

アラハンのいる所は、都会でも山奥でもどこであっても快適です。アラハンは決して他を傷つけることはありません。この章で挙げられたように、執着や敵意が一切なく、何かを比べることもなく、常に冷静で言葉も行いも穏やか、足を知る人がいる人です。そんな人がいる場所であれば、それは誰でもホッとできて、気を遣うこともなく、安らぎのある場だと思います。

DhP.99

ramaṇīyāni araññāni, 
快適な 森は
yattha na ramatī jano; 
所 ない 楽しむ 人々は
vītarāgā ramissanti, 
無欲においては 楽しむ・平穏を
na te kāmagavesino.
ない 彼らは 快楽を・求める

森は快適なところ。
世俗の人には
楽しいものは何もないけれど
欲のないアラハンにとっては
快楽を求めず
平穏を楽しむところ。

解説
俗人が求める楽しみと、アラハンが求める楽しみは違うということです。執着心をなくすことで得られる、身軽さや人生の解放感を手に入れようとする考え方です。

ダンマパダ7章「アラハン」了

ここまでの7つの章で、ブッダ の教えの基本はひと通り語られました。