ダンマパダ8章 100〜115

Sahassa-vaggo 数字の章

ダンマパダ8章は、Sahassa「千」や sataṃ「百」といった数にちなんだ言葉が集められています。

Dhp.100

sahassam api ce vācā千の たとえ もし 話が
anatthapadasaṁhitā; 
無意味な・語を・伴った
ekaṁ atthapadaṁ seyyo, 
1つ 意味のある語 よりよい
yaṁ sutvā upasammati.
いつでも 聞いて 静まる

たとえ千のスピーチでも
それが無意味な言葉なら
心が鎮まるたった一言の
意味のある言葉を聞く方がいい。

エピソード
タンバダーティカは、若い時に犯罪を起こして死刑となり、死刑の代わりに死刑執行人として生きることになった囚われの身です。王に55年間仕え、年老いてその職を退いたところでした。やっと自由の身になった老人は、川で身を清め、家に帰ってお粥を作りました。お粥を食べようとしたところ、長老サーリプッタが托鉢にやってきました。

サーリプッタは、罪深い老人を何とか助けられたら、と思って来たのでした。心清らかな修行者を初めて見たタンバダーティカは、「私は生涯、罪人を処刑して悪人だけに関わってきた。善人に会うことさえなかった。この食べ物を長老に捧げるチャンスを逃してはいけない」と考えて、サーリプッタを招き入れ、お粥をすべて捧げました。

食事の後、長老はタンバダーティカにダンマを教えましたが、彼は処刑人としての過去の人生を思い出して動揺し、集中できなくなりました。それに気づいた長老は、タンバダーティカに「罪人を殺したのは、自分が殺したいと思ったからなのか、それとも命令されたからなのか」と聞きました。タンバダーティカは、「王様に命じられて殺したのであって、殺したいとは思っていない」と答えました。すると長老は、「そうだとしたら、あなたは有罪か無罪か」と尋ねました。タンバダーティカは、自分には悪行の責任がないので、自分は無罪であると考え、心を落ち着かせて、長老に説法を続けるように求めました。

説法の後、タンバダーティカは長老を見送ってしばらく付き添い、帰路につきましたが、その途中で牛に襲われ、死んでしまいました。

夕方、ブッダが僧侶たちのところに来ると、僧侶たちはタンバダーティカが死んだことをブッダに伝えました。僧侶たちは、処刑人として人をたくさん殺したタンバダーティカは、どこに生まれ変わったのか、とブッダに尋ねました。

ブッダは、「タンバダーティカは生涯悪行を重ねていたが、死ぬ前にサーリプッタからダンマを聞いて理解し、天界の1つTuṣita に生まれ変わった」と教えました。このような悪人が、たった一度ダンマを聞いただけで、どうしてそんな大きな利益を得ることができるのかと、僧侶たちは不思議に思いました。

そんな彼らにブッダは、説法の数は関係ない。たった一度の意味のある説法が多くの利益を生むのだと教えたのが、この言葉です。

解説
ずっと人を殺してきたのに、最後の最後に改心すれば天界に生まれ変わることができるのなら、生きている間はどんな悪いことをしても、最後の改心で帳消しにできる、と考える人もいるかもしれません。しかし、あとで改心すればいいと、いま悪いことをするならば、悪いと自覚している時点でアウトなのです。

誰にも気づかれなくても、真理だけは決してごまかせません。なぜなら真理は、自分自身の心の判断だからです。その時点で正しい道へ修正しなければ、その行為は悪いエネルギーとして蓄積されます。それが自然の法則です。タンパダーティカには、修正する自由さえなかったのです。

良いことでも悪いことでも、行為のエネルギーは簡単には消えません。潜在的なエネルギーとして蓄積されていきます。ただしエネルギーなので、エネルギーをより強いエネルギーで抑えることは可能です。

タンパダーティカは、自分の行いを振り返って動揺しました。この時、彼は後悔していたでしょう。しかし長老に問われて、自分の無罪を自覚しました。過去について後悔することも悩むこともやめ、ネガティブなエネルギーを、より強いポジティブなエネルギーで抑えることができたのです。だから天界に生まれ変わったのです。(死に際に発生する生成のエネルギー源と、生まれ変わり先についての詳細はこちら

Dhp.101

sahassam api ce gāthā千の たとえ もし 詩が
anatthapadasaṁhitā;
無意味な・語を・伴った
ekaṁ gāthāpadaṁ seyyo, 
1つ 詩の語 よりよい
yaṁ sutvā upasammati.
いつでも 聞いて 静まる

たとえ千の詩でも
それが無意味な言葉なら
心が鎮まるたった一言の
詩を聞く方がいい。

エピソード
ある商船が海で難破し、一人を除いて全員が死んでしまいました。一人だけ生き残った男は板をつかんで漂流し、やがてスッパーラカの港に上陸しました。裸だったので樹皮を体に巻きつけて、お椀を持って人目につく場所に座りました。

通りすがりの人々は、彼に米や粥を与え、ある者は聖人だと思い込んで拝みました。衣服を提供する者もいましたが、彼は服を着ることで人々の評価が下がることを恐れて断りました。また、彼はアラハンだと言う者まで現れて、彼は自分が本当にアラハンであると勘違いするようになりました。このように間違った考えを持ち、樹皮をまとっていたので、バーヒヤダルシリヤと呼ばれるようになりました。

ちょうどその頃、前世で友人だったブラフマーが、彼がアラハンになりきって道を踏み外している姿を天界から見ていました。「バーヒヤを正しい道に導くのが自分の役目だ」と思ったブラフマーは、その夜、バーヒヤの前に現れました。そして「あなたはまだアラハンではないし、さらに言えば、あなたはアラハンになるための資質を持っていない」と告げました。

バーヒヤはブラフマーを見上げ、「その通りです。私はアラハンではありません。私は今、自分が大きな過ちを犯したことに気づきました。今、この世界にアラハンの人はいますか?」と尋ねました。ブラフマーは、サーヴァッティにアラハンのゴータマ・ブッダがいることを教えました。

バーヒヤは自分の罪深さに気づき、すぐさまサーヴァッティまで走っていきました。ブラフマーは超能力を使い、1200キロの行程をバヒヤが一晩で行けるように手助けしました。サーヴァッティに着いたバヒヤは、ブッダが他の僧侶と一緒に托鉢をしているのを見つけました。

バーヒヤはブッダに近づき、ダンマを教えて欲しいとお願いしましたが、ブッダは「今は托鉢の最中だから、話をする時ではない」と断りました。しかしバーヒヤは、「今すぐ教えて欲しい」と懇願しました。ブッダは、バーヒヤがアラハンになる準備ができていることを知っていました。だからこそ、すぐにダンマの話をするのではなく、きちんと受け止められるように落ち着かせようとしたのですが、バーヒヤはしつこく引き下がりません。

「人は、いつでも食べることはできますが、いつ死ぬかはわかりません。その前に心を浄化することこそ、最優先なのでは?」とブッダに訴えました。そこでブッダは立ったまま、道端のバーヒヤに、「物を見たら、目に見える物だけを意識しなさい。音を聞いたら、音だけを意識しなさい。何かを嗅いだり、味わったり、触ったりしたら、匂いや味や触感だけを意識しなさい」と言いました。

バーヒヤはこれを聞いてすぐに実行し、すぐにアラハンになりました。そしてブッダと一緒に出家するため、僧衣にする布を探していたところ、牛に襲われて死んでしまいました。ブッダと他の僧侶たちが托鉢を終えて戻ると、バーヒヤはゴミの山の上で死んでいました。

僧院に戻ったブッダは、バーヒヤが涅槃に到達したことを僧侶たちに伝えました。そしてバーヒヤが、弟子の中で最短でアラハンになったと宣言しました。ブッダの発言に戸惑った僧侶たちは、バーヒヤがいつ、なぜアラハンになったのかを尋ねました。これに対してブッダは「バヒヤは、托鉢の途中で私の言葉を聞いてアラハンになった」と答えました。

たった数行のダンマを聞いただけで、アラハンになれるのか、と驚く僧侶たちに、ブッダは「誰かのためになるのであれば、言葉の数や説法の長さは問題ではない」と言いました。

Dhp.102

yo ce gāthā sataṁ bhāse,
彼が もし 詩が 百 語る
anatthapadasaṁhitā;
無意味な・語を・伴った
ekaṁ dhammapadaṁ seyyo.
1つ ダンマの語 よりよい
yaṁ sutvā upasammati.
いつでも 聞いて 静まる

無意味な議論を
百回するよりも
心が鎮まるたった一言の
真理を聞く方がいい。

エピソード
ラージャガハの町に、クンダーラ・ケシという大金持ちの娘がいました。ある時、彼女は処刑されるために連行される泥棒を見ました。彼女は彼に恋心を抱き、彼と結婚できなければ死んでしまうと親を脅しました。

彼女の両親は死刑執行人に賄賂を渡し、娘を泥棒と結婚させました。しかし夫は、ケシの財産にしか興味がなく、彼女を愛してはいませんでした。ある日、夫は彼女に最高の服と宝石を身につけるように言い、「自分の命を救ってくれた守護霊に敬意を表したい」と言って、彼女を山に連れて行きました。

山頂に到着すると、夫は宝石を奪い、彼女を殺そうとしました。ケシは、服や宝石はあげるから、命だけは助けてくれと懇願しました。しかし夫は容赦なく、彼女を殺そうとしました。そこで彼女は、自分が助かるためには、夫を殺さなければならないと考えました。

そして「あと少ししか一緒にいられないのだから、最後に夫に敬意を表したい」と言って、夫の周りを礼儀正しく回り、夫の後ろに回り込んで崖から突き落としました。

ケシは家に帰らず、彷徨い歩いて、パリッバージカー(Paribbājikā 女性放浪修行者)の弟子になりました。聡明な彼女は、教えられた1000題の詭弁(きべん)をすぐにマスターしました。パリッバージカーは「世の中に出て行って、もし自分の問いに答えてくれる人を見つけたら、その人の弟子になりなさい」と彼女を送り出しました。

彼女はあちこちを歩き回り、誰にでも論争を挑みました。多くの人が異議を唱えましたが、誰も彼女の質問に答えることができず、彼女はすべての人を打ち負かしました。ある日、彼女はサーヴァッティに到着しました。いつものように砂で小さな丘を作り、その上に木の枝を置いて、論争の相手を誘いました。

そこに長老サーリプッタがやって来て、この挑戦を受けました。ケシは彼に多くの質問をしましたが、サーリプッタはすべての質問に躊躇なく答えました。長老が質問する番となり、彼はたった1つの質問をしました。「一の意味は何ですか?」

彼女は答えることができませんでした。そしてサーリプッタに教えを請いました。サーリプッタは答えを教えました。「この世のすべての生き物は、ひとつのもの、つまり食べ物によって支えられている」。その後、ケシは尼僧になり、あっという間にアラハンになりました。

僧侶たちの中には、わずかな法の言葉を聞いただけで、どうして覚醒に至ることができるのかと不思議に思う者もいましたが、ブッダは、DhP.102 と DhP.103 の言葉を彼らに伝えました。

解説
sataṃ
:百。sahassam:千。いわゆる禅問答の原点ですね。

Dhp.103

yo sahassaṁ sahassena人は 千に 千によって
saṅgāme mānuse jine; 
戦いで 人間に 征服する
ekañ ca jeyya attānaṁ, 
1人 しかし 征服 自分を
sa ve saṅgāmajuttamo.
彼は 実に 戦勝者・最上の

人間は戦いで
百万人を征服できるが
自分自身を征服できる人が
最も偉大な勝利者。

解説
千×千の人=100万人。103、104、105は連詩です。DhP.104に続きます。

Dhp.104

attā have jitaṁ seyyo, 
自分に 実に 征服する よりよい
yā cāyaṁ itarā pajā;
こと しかし・これ 他の 人々
attadantassa posassa, 
自分を・制御する 人
niccaṁ saññatacārino.
常時 自制行者は

他の人々を征服するよりも
自分を征服する方がいい。
常に自制心のある人は
自分に打ち勝った人。

エピソード
あるバラモンがブッダに近づき、こう言いました。「あなたは有益な修行をすべて知っていますが、不利益な修行を知らないのでは?」ブッダは、有益な修行も不利益な修行も知っていると言いました。そして富を失う原因となる6つの不利益な行為を列挙しました。

「早起きしないで朝寝坊、怠惰、暴力、酒や麻薬に溺れる、夜の街を一人で歩き回る、性的不品行」

ブッダはバラモンに、どうやって生計を立てているのか尋ねました。バラモンは、サイコロを使ったギャンブルで生計を立てていると答えました。ブッダはさらに、勝ったのか負けたのかと尋ねました。バラモンは、勝つこともあれば負けることもある、と答えました。ブッダは、「サイコロ遊びで勝つことは、自分の心に勝つこと、自分の無知や心の汚れに勝つこととは比べ物にならない」と言いました。

解説
DhP.105に続きます。

Dhp.105

neva devo na gandhabbo, 
ない・実に 神は ない 音楽神も
na Māro saha Brahmunā; 
ない 魔王は ともに 梵天も
jitaṁ apajitaṁ kayirā, 
打ち勝った 敗北 する
tathārūpassa jantuno.
そのような見者 人

神や天界の音楽神
死神やブラフマーであっても
このような勝者を
負かすことはできない。

解説
DhP.104の続きです。このような勝者=自制心があり、自分自身に打ち勝つことができる人。

Dhp.106

māse māse sahassena, 
月に 月に 千
yo yajetha sataṁ samaṁ; 
彼が  供養する 百 年
ekañ ca bhāvitattānaṁ, 
1人 と 修習した・自ら
muhuttam api pūjaye;
寸時 さえも 敬意を払うなら
sā yeva pūjanā seyyo, 
それは まさに 尊敬は よりよい
yañ ce vassasataṁ hutaṁ.
それは たとえ 百年 供養物に

百年間、毎月
千回の供養をする人が
ほんの一瞬でも
修行を完成した人に
敬意を払うなら
それは実に百年のお布施に勝る。

エピソード
ある時、サーリプッタは叔父であるバラモン僧に、何か功徳を積んでいるのかと尋ねました。叔父は、「来世で梵天の世界に行けるように、毎月、指導者に大金をお布施している」と答えました。サーリプッタは、指導者が間違った期待をさせていること、自分たちも梵天界への道を知らないことを説明しました。

サーリプッタは、叔父をブッダのもとに連れて行き、人を確実に梵天界に導くダンマを説いてくれるように頼みました。ブッダはバラモン僧にこう言いました。「1人の修行僧に一匙の施しを捧げることは、あなたが今、指導者に大金を捧げることよりも、はるかに良いことです」

Dhp.107

yo ca vassasataṁ jantu, 
彼が また 年・百 人
aggiṁ paricare vane;
聖火に 崇拝する 森で
ekañ ca bhāvitattānaṁ, 
1人 と 修習した・自ら
muhuttam api pūjaye;
寸時 さえも 敬意を払うなら
sā yeva pūjanā seyyo, 
それは まさに 尊敬は よりよい
yañ ce vassasataṁ hutaṁ.
それは たとえ 百年 供養物に

また、森で百年
火を崇拝する人が
たとえ一瞬でも
修行を完成した人に
敬意を表するならば
それは実に百年のお布施に勝る。

解説
DhP.106のエピソードと同様に、サーリプッタの甥が、「来世で梵天界に行きたいと思って、毎月、山羊を生け贄にして火を拝んでいる」と聞き、ブッダのところに連れて行った際に、ブッダが語った言葉です。

Dhp.108

yaṁ kiñci yiṭṭhaṁ ca hutaṁ ca loke, 
それは 何でも 捧げられた と 供物 と この世では
saṁvaccharaṁ yajetha puññapekkho,
一年中 祭る 恩恵を望む人は
sabbam pi taṁ na catubhāgam eti,
すべて さえも それは ない 第4の・一部分・至る
abhivādanā ujjugatesu seyyo.
頭を下げること 正しく・行く人への よりよい

世間では恩恵を得たい人が
年中、供物を捧げたり
祀ったりしているが
正しい道を歩む人に
頭を下げて得られる功徳の
4分の1の価値もない。

解説
abhivādana頭を下げることですが、これには、3つの意味があります。1. お辞儀挨拶2. お詫び謝罪3. 敬服する感服することです。このスッタでは、どれか1つではなく、この3つすべての意味が込められていると思います。

Dhp.109

abhivādanasīlissa,
頭を下げる・習慣の
niccaṁ vaddhāpacāyino,
常時 年長を・敬う人は
cattāro dhammā vaḍḍhanti: 
4つの 性質 増大する
āyu vaṇṇo sukhaṁ balaṁ.
人生 外見 幸せ 力

頭を下げることを心掛けて
常に年長者を敬う人は
人生、外見、幸せ、力
4つの性質が増える。

解説
常に礼儀正しく挨拶し、失敗したら素直に謝り、年長者を敬うことができるなら、人間関係は良好になります。当然、生活も良くなり、生き生きと輝いて見え、存在感が増して幸せになります。

Dhp.110

yo ca vassasataṁ jīve,
人は と 百年 生きる
dussīlo asamāhito; 
不道徳 無統制
ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo, 
一日の 生きるが よりよい
sīlavantassa jhāyino.
道徳のために 瞑想する人は

道徳心も自制心もなく
百年生きるより
徳を積むために瞑想する
1日の方がいい。

解説
感情に振り回されて生きる百年よりも、自分の心を見つめ直す1日の方がはるかに有意義です。

Dhp.111

yo ca vassasataṁ jīve,
人は と 百年 生きる
duppañño asamāhito;
ない・智慧 無統制
ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo,
一日の 生きるが よりよい
paññavantassa jhāyino.
智慧のために 瞑想する人は

無知で心乱れて
百年生きるよりも
智慧のために瞑想する
1日の方がいい。

解説
Paññā(パンニャー)智慧」は、学習などによって得る知恵知識ではなく、人智を超えたすべての道理を見抜く深い智慧です。この智慧は心を浄化することで自然に現れるもので、直感的に現れる「ひらめき」です。

Dhp.112

yo ca vassasataṁ jīve,
人は と 百年 生きる
kusīto hīnavīriyo;
怠惰で 劣る・努力
ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo,
一日の 生きるが よりよい
viriyam ārabhato daḷhaṁ.
努力に 励む 強く

怠けて努力しないで
百年生きるよりも
熱心に懸命に努力する
1日の方がいい。

解説
viriya(ヴィリヤ)精進」とは、一つのことに精神を集中して励むこと。一生懸命にひたすら努力することです。

生き物には常に、より快適で楽な方向へと向かう性質があります。私たちが寝返りを打つことも、生活を向上させたいと望むことも、すべてこの性質によるものです。人はずっと寝ていたい、ダラダラしていたいのです。考えたり、心配したりしなくて済むから、楽だからです。だから意識して精進しないと、あっという間に怠惰な百年を過ごせてしまうのです。

Dhp.113

yo ca vassasataṁ jīve,
人は と 百年 生きる 
apassaṁ udayabbayaṁ; 
見ないで 生滅を
ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo,
一日の 生きるが よりよい
passato udayabbayaṁ.
見る人は 生滅を

現象が生じては消えるのを
見ることなく
百年生きるよりも
生じては消えるのを見る
1日の方がいい。

解説
Udayabbayam
:「発生と消滅」。心と身体に起きるすべての現象は、常にものすごい速度で変化していて、「生じては朽ち」ています。これは洞察瞑想ヴィパッサナー瞑想によって確認できる知識で、すべての現象は、不変・永久ではなく、「無常」だということです。

この世に変化しない現象はありません。変化しないように見える石でも、長い歳月を掛けて変化しています。私たちの細胞は、生まれた瞬間から新しい細胞をどんどん作り続けて、古い細胞がどんどん死んで入れ替わっています。赤ちゃんの時は、生じる細胞の方が圧倒的に多いので、どんどん大きくなるように見えます。

老人になると、生じる細胞の数が少なくなり、朽ちて古い細胞が目立って見えます。最終的には新しい細胞が生じなくなって、肉体の機能が停止して朽ちていきます。

Dhp.114

yo ca vassasataṁ jīve,
人は と 百年 生きる 
apassaṁ amataṁ padaṁ;
見ないで 不死を 歩みを
ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo,
一日の 生きるが よりよい
passato amataṁ padaṁ.
見る人は 不死を 歩みを

不死の道を見ずに
百年生きるよりも
不死の道を見る
1日の方がいい。

エピソード
キサ・ゴータミーはサーヴァッティの金持ちの娘で、金持ちの青年と結婚して息子が生まれました。しかし、まだ幼い息子が突然亡くなり、彼女は悲しみに打ちひしがれていました。

ゴータミーは息子の遺体を抱え、会う人会う人に、息子を生き返らせる薬を求めて回りました。人々は彼女が狂ったと思いました。しかしある賢者が、自分が彼女の助けになるべきだと考えて、「ブッダなら、あなたが望む薬を持っているだろう」と彼女に教えました。そこでゴータミーはブッダのもとに行き、死んだ息子を生き返らせる薬を教えてほしいと頼みました。

ブッダは彼女に、死のない家からカラシ種を取ってくるように言いました。息子の遺体を抱いたゴータミーは、カラシ種を探して家々を回りました。誰もが協力してくれましたが、人が死ななかった家は一軒もありませんでした。

そしてゴータミーは、「死に直面しているのは自分の家だけではない、生きている人よりも死んでいる人の方が多い」ということに気がつきました。その途端、彼女は死んだ息子に対する態度が変わり、息子の遺体に執着しなくなりました。

彼女は遺体をジャングルに残してブッダのもとに戻り、死のない家は見当たらないと報告しました。するとブッダは、「あなたは息子を失ったのは自分だけだと思っていた。あなたが今、悟ったように、死はすべての生き物に訪れるものであり、欲望が満たされる前に、死が彼らを連れ去ってしまうのだ」と言いました。

解説
不死の道とは「死なない道」ということですが、「不死身永遠の存在への道」ではありません。113番の通り、あらゆる現象が生じては朽ちていき、私たちの身体も生まれては死んで生まれ変わり、を繰り返しています。

しかし、完全な悟りを得て涅槃に至った人は、この輪廻のサイクルから外れるので、肉体が朽ちたら、もう生まれ変わらないのです。

Dhp.115

yo ca vassasataṁ jīve,
人は と 百年 生きる  
apassaṁ dhammam uttamaṁ;
見ないで 真理を 最高の
ekāhaṁ jīvitaṁ seyyo,
一日の 生きるが よりよい
passato dhammam uttamaṁ.
見る人は 真理を 最高の

素晴らしい真理を見ずに
百年生きるよりも
素晴らしい真理を見る
1日の方がいい。

解説
Dhamma(ダンマ)」は、真理(102番)であり、宇宙の法則自然の法則です。そして同時に、あらゆる現象のことでもあり、性質(109番)でもあるのです。

ダンマパダ8章「数字」了