Yamaka-vaggo 対比の章
ダンマパダ1章は、Yamaka「対比」がテーマです。私たちの心の性質について、幸せ vs 苦しみ、喜び vs 悲しみといった対比を用いて語られています。この章はブッダの教えの大原則です。
幸せや苦しみ、喜びや悲しみといったすべての心の現象は、心によって作られます。心の現象とは、感情(vedanā ヴェーダナー)、知覚(saññā サンニャー)、反応(saṅkhāra サンカーラ)のことです。これらの現象は、心が作り出したものであり、心と密接に関係しているため、常に「色(先入観や偏見)」がついています。
DhP.001
manopubbaṅgamā dhammā, 心は・先行 ダンマ manoseṭṭhā manomayā, 心は・屈指の 心は・作られる Manasā ce paduṭṭhena, 心が もし 汚れた bhāsati vā karoti vā, 話す あるいは 行動 あるいは Tato naṁ dukkham-anveti, それ故に それは 苦しみが・従う cakkaṁ-va vahato padaṁ. 車輪が-ように 運ぶ 足跡を
ものごとは心から始まる。
心がものごとの作者で
心がつくっている。
汚れた心で
話したり行動すると
苦しみがついてくる。
車を引く牛の足跡に
車輪がついていくように。
解説
もし、この言葉のように心が汚れていて邪念に満ちていれば、その結果、苦しみや悲しみだけが待っていることになります。心は、これらの心的現象を「自分のイメージ通り」に作り出しているに過ぎません。マイナス思考は、常に苦しみと悲しみをもたらします。私たちが苦しみを経験するのは、そのことを自覚していないからで、そのことに気づくことが、苦しみを取り除くことになる、ということです。
DhP.002
manopubbaṅgamā dhammā, 心は・先行 ダンマ manoseṭṭhā manomayā, 心は・屈指の 心は・作られる manasā ce pasannena 心が もし 清らかな bhāsati vā karoti vā, 話す あるいは 行動 あるいは tato naṁ sukham anveti それ故に それは 幸せが・従う chāyā va anapāyinī. 影が ように 離れない
ものごとは心から始まる。
心がものごとの作者で
心がつくっている。
清らかな心で
話したり行動すると
幸福がついてくる。
影が体から離れないように。
解説
幸せも苦しみも、すべて自分自身、自分の心、自分が抱く考えに依存しています。幸福への道は、心を浄化する以外にはありません。
DhP.003
akkocchi maṃ avadhi maṃ, 乱暴した 私を 非難した 私を ajini maṃ ahāsi me; 征服した 私を 奪った 私のもの ye ca taṃ upanayhanti, 彼らは と 伴う・違いない veraṃ tesaṃ na sammati. 憎しみ それ ない 癒し
あの人は私を虐待し
私を殴った。
あの人は私を負かして
私から奪った。
そんな思いを抱いているかぎり
その憎しみが
癒されることはない。
解説
もし、自分が不当に扱われているという考えに陥り「強い者に弄ばれる、かわいそうな者」であると常に思っているならば、苦しみや憎しみは決して消えることはなく、むしろ増していきます。「ああ、あの人はどうして私にこんなことをするの? こんなに不公平なことはない!」。 このような考えは、自分の心が作り出して、自分が選択したものに他なりません。
DhP.004
akkocchi maṃ avadhi maṃ, 乱暴した 私を 非難した 私を ajini maṃ ahāsi me; 征服した 私を 奪った 私のもの ye ca taṃ nupanayhanti, 彼らは と ない・紐付け veraṃ tesūpasammati. 憎しみ それ・伴う・癒し
あの人は私を虐待し
私を殴った。
あの人は私を負かして
私から奪った。
そのような考えを抱かなければ
その憎しみは和らぐ。
解説
泣いたり、怒ったりしても、憎しみや苦しみを克服できません。そもそも、その感情を作り出しているのは、自分自身の心だからです。過去の出来事の記憶に反応して、怒り続けているのです。相手はもうそんな出来事をすっかり忘れているかもしれないのに、いつまでも自分の記憶の舞台に登場させては、怒りをぶつけて断罪し続けているのです。しかしその断罪は、心の中だけで起きていることであって、幻想です。事実ではありません。よって現実は変わりません。いつまでも不満で、自分の心が汚れるだけです。
そのように考えるのを止めれば、直ちに憎しみが消え、解消されます。そしてもし、自分を苦しめる行為を楽しんでいる人たちがいたならば、相手が全く怯まず、何を言っても動揺せず、反応しないことを知れば、やがてこのような行為をやめるでしょう。
DhP.005
na hi verena verāni, ない 実に 恨み 恨みによって sammantīdha kudācanaṁ; 合議 いつでも averena ca sammanti, ない・恨み と 合議 esa dhammo sanantano. この ダンマは 永遠
憎しみは
憎しみによって
鎮めることはできない。
憎しみは
憎しみではないことで鎮まる。
この法則は永遠に変わらない。
解説
憎しみはさらなる憎しみを生むだけであり、友情・理解・善意によってのみ、憎しみをなくすことができます。
記憶は過去の記録に過ぎません。間違ったり、失敗したり、恥ずかしかったり、辛かったり、いろいろ修正したくなるものですが、書き換える必要はないのです。そのままスルーして、いま現在進行形の行為に、活かすようにすればいいのです。記憶は現在の事実ではありません。記憶を相手にしないことです。
DhP.006
pare ca na vijānanti, 他の と ない 理解 mayam ettha yamāmase; 私たちは ここで 自制 ye ca tattha vijānanti, 彼らは と そこで 理解 tato sammanti medhagā. それ故 鎮まる 揉めごとが
私たちはこの世で
自制すべきことを
理解していない。
そのことを理解している人は
だからこそ争いを
鎮めることができる。
解説
争いはすべて「私」のために起こります。大切な私、私のもの、私の財産・立場・仕事、私の考えを守りたいがために、人は争うのです。「大切なあなた」も実は「大切な私のあなた」です。「私のなにか」が他者に奪われると、強い怒りや嫉妬を感じ、攻撃できると思ったら「争い」、攻撃できないと思ったら「悩み・苦しみ」になります。
しかし現実には、物も人も常に変化しているので「私を取り巻く状況」は刻々と代わり、「私のなにか」はなくなったり、失ったり、死んだりします。これはとても嫌なことなので、そのことを思うと憂い・悲しみが生じ、ますます強く守りたいと思うようになります。「執着」です。これが「この世で自制すべきこと」です。
これらの問題はすべて、心が作った幻想から生まれた「心に浮かぶ現象」でしかないのです。そのことに気づき、「私のなにか」にこだわらない人は、争いを鎮めることができるのです。
DhP.007
subhānupassiṁ viharantaṁ, 楽しみ・想定する 生きる indriyesu asaṁvutaṁ, 感情に支配 ない・抑える bhojanamhi amattaññuṁ, 食物において ない・適量を知る kusītaṁ hīnavīriyaṁ; 怠惰の 怠る・努力を taṁ ve pasahati Māro, 彼を まさに 圧する マーラは vāto rukkhaṁ va dubbalaṁ. 風は 木 ように 弱い
楽しいことばかり考えて
感情を抑えられない人
食事の節度を守らず
無気力で怠ける人
弱った木を吹き飛ばすように
マーラはそんな人を負かすだろう。
解説
マーラ:「ゴータマ・ブッダが悟りを開く際に、瞑想を妨げるために現れたとされる魔物」のことですが、「悪魔」のような存在ではありません。外部からやってくる何かではなく、私たちの心の中にある邪悪な部分、煩悩の象徴です。無我の境地に至ると自己が死滅することになるので、それを妨害しようと現れる心の動きです。
DhP.008
asubhānupassiṁ viharantaṁ ない・楽しみ・想定する 生きる indriyesu susaṁvutaṁ, 感情に支配 抑える bhojanamhi ca mattaññuṁ, 食物において 適量を知り saddhaṁ āraddhavīriyaṁ, 確信して ない・怠る・努力を taṁ ve nappasahati māro 彼を まさに ない・圧する マーラは vāto selaṁ va pabbataṁ. 風は 岩 ように 山
楽しいことばかり考えないで
感情をよく抑えられる人
食事の節度を守り
信頼して努力を怠らない人
岩山を吹き飛ばせないように
マーラはそんな人には勝てない。
解説
ここでいう信頼とは、ブッダが教えてくれた道への信頼のことです。道をただ信じるだけで歩かないのではなく、道を信頼して自分自身で歩いて確かめなさい、ということです。
DhP.009
anikkasāvo kāsāvaṁ, 不浄心は 黄衣を yo vatthaṁ paridahessati; 人は 衣を 着るべき apeto damasaccena, 離れた 調御・真理 na so kāsāvam arahati. ない 彼は 黄衣 値する
心が汚れに染まった人は
黄衣を着るべき。
真理の道から外れる人は
黄衣を着るには値しない。
エピソード
デーヴァダッタは、ブッダの従兄弟であり弟子でもありましたが、とても欲深く、常に名声と富を求める男でした。ブッダの地位を狙ってブッダを3回も殺そうとした邪悪な僧侶です。ある日、デーヴァダッタはお布施として捧げられた高価な布を独り占めして僧衣を作りました。
他の僧侶がそのことをブッダに伝えると、ブッダは「デーヴァダッタが自分にふさわしくない衣を着るのは初めてのことではない」と言い、次のような話をしました。
デーヴァダッタは前世では狩人で、その頃、森にたくさんいた象を狩っていました。あるとき彼は、象たちが高僧侶を見るとひざまずくことに気がつきました。そこで僧侶の黄衣を盗み、体と手をそれで覆いました。そして手に槍を持って、いつもの道で象を待ち構えました。やってきた象たちは狩人を高僧侶だと思い、ひざまずいて拝礼し、簡単に捕まってしまいました。このようにして狩人は毎日、象を殺していました。
ブッダはその時、象の群れのリーダーでした。仲間が減っていくのに気づき、調べようと思って群れの最後尾につきました。警戒していたので、槍を避け、鼻で狩人の胴体を捕らえました。そして地面に叩きつけようとした時、象のブッダは黄衣に目にとめて思いとどまり、狩人の命を助けたのです。狩人は明らかに黄衣を着るに値しなかったのです。
DhP.010
yo ca vantakasāvassa, 人は と 排除・汚濁 sīlesu susamāhito; 規律を よく・心を定める upeto damasaccena, 従う人は 調御・真理 sa ve kāsāvam arahati. 彼は 実に 黄衣 値する
心の汚れを除いた人は
規律を守って穏やか。
真理の道を進む人は
黄衣に着るにふさわしい。
DhP.011
asāre sāramatino, ない・真実と 真実・考え sāre cāsāradassino; 真実と と・ない・真実・見ている te sāraṁ nādhigacchanti, 彼は 真実には ない・到達 micchāsaṅkappagocarā. 間違った考え・餌
真実を価値がないと考えて
真実ではないものに
価値を見出す人は
間違った考えをエサにして
真実に至ることができない。
解説
本質的なものを無意味なものと勘違いし、実際には何もないものに本質があると考えてしまうと、真理には近づくことすらできないという教えです。あらゆる迷信がこの範疇に入りますが、この方向に迷い込んだ思考はより強くなり、増えていきますが、私たちの助けには全くなりません。
DhP.012
sārañ ca sārato ñatvā, 真実だと と 真実は 知っている asārañ ca asārato, ない・真実だと と ない・真実は te sāraṁ adhigacchanti, 彼は 真実には 到達する sammāsaṅkappagocarā. 正しい・考え・餌
真実には価値があると
真実ではないものに
価値はないと知っている人は
正しい思考を糧として
真実に至ることができる。
解説
何が大切で何が虚しいことかを本当に知っていれば、本質がどこにあるかを知っていれば、それを発見できます。心を浄化したいと思ったら、どうすればいいのか、正しい手順は何なのか、慎重に判断し、理解しなければなりません。何が必要かを知っていれば、それを達成できる可能性があるのです。
DhP.013
yathā agāraṁ ducchannaṁ, ように 家 悪く・覆われた vuṭṭhī samativijjhati; 雨 通す evaṁ abhāvitaṁ cittaṁ, このように ない・修習する 心 rāgo samativijjhati. 貪欲は 通す
屋根のない家に
雨が吹き込むように
未熟な心に欲望は入り込む。
解説
屋根は、家にとって最も重要な部分です。屋根がちゃんとしていなければ、雨が降ったときに大変なことになります。それと同じように、心は人間にとって最も重要な部分です。もし、心がうまく機能していなければ、心も「雨漏り」します。欲望や憎しみなどが心に入り込みます。雨が降るたびに、心の修理にかり出され、肝心の心を浄化が難しくなってしまいます。
DhP.014
yathā agāraṁ succhannaṁ, ように 家 よく・覆われた vuṭṭhī na samativijjhati; 雨 ない 通す evaṁ subhāvitaṁ cittaṁ, このように よく・修習する 心 rāgo na samativijjhati. 貪欲は ない 通す
しっかり屋根で覆われた家に
雨が吹き込まないように
鍛えた心に欲望は入り込まない。
解説
家の屋根がよくできていれば、どんなに強い雨が降っても恐れる必要はありません。屋根がそれを支え、家の中は水浸しにならず、濡れもしません。同様に、心をしっかり育てようと意識して、心を研ぎ澄ませば、どんな情念も入り込むことができません。小雨が降るたびに屋根を修理する必要もなく、主目的である心の浄化に集中することができます。
DhP.015
idha socati pecca socati, ここに 嘆く 死後 嘆く pāpakārī ubhayattha socati, 悪人 両方で 嘆く so socati so vihaññati, 彼は 嘆く 彼は 挫折 disvā kammakiliṭṭham attano. 見て 行為・汚された 自分自身の
現世で嘆き死後にも嘆く。
悪いことをした人は
どちらの世界でも嘆く。
自分がした汚い行いを見て
打ちのめされる。
解説
悪事とは、肉体的であれ、精神的であれ、他の生き物を傷つける行為のことです。毛沢東、スターリン、ヒットラーのような世紀の悪人たちは、全ての影の背後に敵を見るような問題のある心を持っていました。悪事は「分断」を生み出し、最終的には社会から孤立することになります。
DhP.016
idha modati pecca modati, ここに 喜び 死後 喜び katapuñño ubhayattha modati, した・功徳 両方で 喜ぶ so modati so pamodati, 彼は 喜び 彼は 満足した disvā kammavisuddhim attano. 見て 行為・清浄な 自分自身の
現世で喜び死後も喜ぶ。
良いことをした人は
どちらの世界でも喜ぶ。
自分がした善い行いを見て
嬉しくて幸せになれる。
解説
「良いこと」とは、すべての生きとし生けるものを様々な方法で助けること、他の役に立つことです。良いことをすると満足感を感じ、幸せな気持ちになります。なぜでしょう? 良いことをすると相手が喜び「つながり」ができます。つながりができることで、社会の中に自分の存在価値を見出すことができます。自分の外側に自分の存在価値を見つけることで、心が安心して癒されるのです。
DhP.017
idha tappati pecca tappati, ここに 焼かれる 死後 焼かれる pāpakārī ubhayattha tappati, 悪人 両方で 焼かれる pāpaṁ me katan ti tappati, 悪い 私の 行い こうして 焼かれる bhiyyo tappati duggatiṁ gato. より多く 焼かれる 悪道
現世で苦しみ死後も苦しむ。
悪いことをした人は
どちらの世界でも苦しむ。
「自分は悪いことをした」
と思って苦しくなり
悪い生まれになってさらに苦しむ。
解説
ダンマパダは、輪廻転生(すべての生き物は死後に生まれ変わる)を前提に語られているので、随所に輪廻が登場します。ブッダの教えは、「生きることは苦しみ」であり、輪廻転生が有る限り、死んでも生まれ変わって、また苦しむことになる。根本から苦しみをなくすためには、その輪廻のサイクルから外れ、「死んだら、もう生まれない」道しかない、という考えに基づいています。信じるかどうかはさておき、輪廻転生について関心があればこちら
DhP.018
idha nandati pecca nandati, ここに 嬉しい 死後に 嬉しい katapuñño ubhayattha nandati, した・功徳 両方で 嬉しい puññaṁ me katan ti nandati, 善い 私の 行い こうして 嬉しい bhiyyo nandati suggatiṁ gato. より多く 嬉しい 善道
現世で楽しみ死後も楽しむ。
良いことをした人は
どちらの世界でも楽しむ。
「自分は良いことをした」
と思って嬉しくなり
良い生まれになって
さらに喜びを感じる。
DhP.019
bahum-pi ce saṃhita bhāsamāno, 多く たとえ でも 備えている 語る na takkaro hoti naro pamatto, ない そうする 存在 人 怠け者 gopo va gāvo gaṇayaṁ paresaṁ, 牛飼は ようだ 牛 群れ 他人の na bhāgavā sāmaññassa hoti. ない 共有の 出家修行者 存在
たとえ多くの知識を
語ったとしても
それを実行しなければ
その人は怠け者。
他人の牛を連れ回すだけの
牛飼いのようなもので
修行者のうちには入らない。
解説
牛飼いは貧しく、自分の牛を持っていないので、他人の牛を牧草地に連れて行くだけです。自分の行動から実利は得られません。同じ意味で、ブッダの教えについて語るだけで、自分で実践しなければ、他人のために仕事をする牛飼いと同じということです。
sāmañña = samaṇa:解脱するために、質素で禁欲的な生活を行い、労働・苦労・奮闘する人。出家修行者のことです。
DhP.020
appam pi ce sahitaṁ bhāsamāno, 少し たとえ でも 備えている 語る dhammassa hoti anudhammacārī, ダンマに 存在 共に・ダンマ・歩く rāgañ ca dosañ ca pahāya mohaṁ, 情熱を と 怒りを と 捨てて 無知を sammappajāno suvimuttacitto, 正しく・自覚 よく・解脱した・心 anupādiyāno idha vā huraṁ vā, ない・執着 ここで あるいは あちらで あるいは sa bhāgavā sāmaññassa hoti. 彼は 共有の 出家修行者 存在
教えを少ししか語らなくても
真理に従って
ダンマと共に歩む。
欲望・憎悪・無知を捨てて
正しい気づきを持って
心はよく解放されている。
この世でもあの世でも
何にも執着しない人は
立派な修行者。
解説
「欲望、怒り、無知」この3つが諸悪の根源です。まずは、自分の心の中に自分が作り出すこの3つを捨てる。正しい知識を持って、心を解放する。あらゆることに執着しない。そうなれば、もう立派な修行者です。
ダンマパダ1章「対比」了