レディ・サヤドー『牛について』概要

概要

Namo Tassa Bhagavato Arahato Sammāsambuddhassa

アラハンであり、正覚者であり、福徳に満ちた世尊に、私は礼拝いたします。

上層も下層も、すべてのビルマの帰依者に、スッタ・ピタカに従って牛の徳に関するダンマを教えるために、私はパーリ語のテキスト翻訳を行った。

注)「上層も下層も」は、カースト制の「上流階級・下流階級、すべてのビルマの帰依者」だと思います。

スッタニパータBrāhmaṇadhammika Sutta(286-317)には、バラモンの善行が書かれてある。

  1. 牛や水牛のような家畜動物は、人間の親に例えられる。人間に奉仕するので、人間の母や父に似ている。実際、彼らは人間の両親であり、兄弟であり、息子であり、娘である。ブッダは、人間の身内だと断言している。
  2. 人間は、牛や水牛の労働力に頼って生活している。これらの動物の奉仕によって、人間は生命を維持している。農作業は牛や水牛が行うので、牛や水牛は毎日人間に生命と美と幸福と力を与えてくれる。人間にとって4つの大きな恩恵があり、動物の助けは計り知れないとブッダは断言している。
  3. 生命力を与えてくれる動物たちを、親や親戚として敬うとき、すべての善なる神々は人間の面倒をみてくれる。動物に愛情を示すように、神々は人間を身内とみなす。こうして神々は人間を病気や危険、災難から守ってくれる。また、牛や水牛もこれらの危険から守ってくれる。これがブッダ の教えである。
  4. 感謝や愛や慈悲が弱かったり欠けていたりすると、人は動物を平気で自分の欲求のために利用する。動物を激しく叩いたり、鞭で打ったり、さまざまな方法で苦しめる。最後には殺して食べる。

この恩知らずで無節操な貪欲さのせいで、神々は人間を嫌っている。守護神は各々の人を嫌う。村の神々は村人を嫌う。町の神々は町の住人を嫌う。国の神国を嫌う。その結果、神々は人間の幸せを顧みず、人間を守ることができない。魔物には絶好のチャンスだ。人間に新たな疾病、伝染病、危険が起こる。あらゆる災難が多くの人々に災いをもたらす。これがブッダの教えである。

上記の説明は、スッタニパータに基づくもので、直接的な意味と間接的な意味がある。

  1. ブッダは『Nārada Jātaka』の中で、牛や水牛は元気なうちは仕事に使ってもよいが、年をとって弱ったら、きちんと世話をしなければならないと説いている。働いている間は十分な餌を与え、愛と思いやりをもって扱わなければならない。役に立たなくなっても、決して殺してはならない。
  2. Sarabhaṅga Jātaka五戒(衆生を殺さない、盗みをしない、姦淫をしない、嘘をつかない、酒や薬物を摂取しない)を守ることが、すべての人に求められている。すべての比丘(出家修行者)は、227のヴィナヤの規則を注意深く守らなければならない。すべての仏教徒は、この道徳律を守ることで、道徳の主な効果である身体と言葉において純粋になる。人は道徳的な生活を送ることによって道徳的な人になる。

智慧の特徴は、ブッダが説いたダンマに従って他者に教える能力である。ダンマを教える目的は、礼節・知識・理解・知恵を身につけることにある。この資格を得る者は賢者(paṇḍita)と呼ばれる。テキストを学び、他の人に教えることができる賢者は、善良な人に必要な要素である智慧を得る。

善人(sappurisa)の特徴には、他者への感謝を率直に認め、他者の善良な資質を敬うことなどが挙げられる。この資質が人を善人にする。これら2つの基本的な資質に加えて、3つ目の資質として、温和で優しい心、すなわち良い心が必要である。これらは善人の基本的な資質である。

ブッダの教えの中で、Vinaya道徳に関係し、Abhidhamma智慧Suttanta善人(sappurisa)の資質に関係している。このように私たちは、人生を3つの基本的な側面に分類することができる。しかしながら、これらは必ずしも両立するものではない。道徳心はあっても、智慧善良さに欠ける人もいるから、賢明な人でも善良な人でもないかもしれない。賢明だが、道徳心を欠いているので善良ではない人もいるし、善良ではあるが、道徳心と智慧が欠けている人もいる。道徳心と智慧の両方を持っていても、善良でない人もいる。道徳心と善良さに恵まれているが、智慧に欠ける人もいるし、智慧と善良さを持っていても、道徳心がない人もいる。

道徳心・智慧・善良さという3つの基本的な資質をすべて備えている人もいる。また、3つの良い資質すべてを欠いている人もいる。3つの良い資質をすべて持っている人は非常に稀だ。

  1. Temiya Jātaka』には、木の下で寝起きする者は、悪意を持って木の枝を折ってはならないとある。木は親友であり、感謝に値する助っ人だからである。もし枝を折ってしまったら、友情の義理に反して、恩人を傷つけることになる。善人としての基本的条件を欠くことになる。これは『Temiya Jātaka』におけるブッダ の教えである。

枝を折ったり木を伐採することは、たとえ悪意や恩知らずな心を持っていたとしても、木は衆生ではないので、殺生という悪行ではない。しかし、恩知らずという悪い精神状態が支配している。それゆえ、違反者は悪行を犯す。善人の徳を維持するためには、命のないものに対しても感謝の気持ちを示さなければならない。休息や保護などを与えてくれる木々に対しても、尊敬と敬意を示さなければならない。生きとし生けるものすべて、そして命のないものに対してさえも感謝の気持ちを持ち続けることは、無視できないほど重要なことである。木は劣っていると見なすべきではない。恩を忘れることは善良な人の目には常に重大な欠陥と映る。恩を忘れるということは、悪い人の態度をとるということだからだ。生きとし生けるものに対しては、感謝の念をさらに大切にしなければならない。

  1. Mahābodhi Jātaka (528) 』には、Khattavijāvādiṃ という邪教が述べられている。この誤った見解は、木の下に避難したり寝たりする者は、そうすることで利益を得るならば、その木を根こそぎ倒してもよいというものである。目的が手段を正当化するということだ。不義理が存在するのだから、これは誤った見解を表している。この信念は恩義を認めていない。

感謝の念

他者から得た恩に報いることを感謝(kataññutā)という。これは、受けた恩恵に対する謝意、あるいは心からのねぎらいを意味する。恩恵は人から受けることもあれば、物から受けることもある。恩人には、2つの階級がある。有名人や上流階級の人と、無名の人や下層階級・威厳・権力・地位の低い存在である。

ほとんどの人は、有名人や上流階級の人から受けた利益を誇張する。彼らは、1ポンドで100ポンド、100ポンドで1,000ポンドの利益を受け取る。しかし、身分の低い人からの贈与や奉仕は、通常、公表されない。受益者が恩義を認めても、真実をすべて話すことは滅多にない。1,000ポンドの利益を1ポンドとしか言わない。これは邪悪で狡猾な人々の態度であって、善良な仏教徒ではない。

誠実な善意者はみな、次のように感謝の意を表す。有名人から受ける恩恵は百倍であるのに対し、一般人から受ける恩恵は千倍である。彼らは感謝の気持ちを強調するため、一般の人々から受けた奉仕について熱く語る。これが Bodhisatta(菩薩)や善人の性質である。