ブッダは「サティの実践によってのみ、解脱に至る」と説いています。
Sati(サティ)とは「気づき」のことですが、そもそも「気づき」って何なのでしょう?
気づきとは
それまで意識していなかった感覚刺激を自覚すること。
例えば「音楽が聞こえている」ことを意識がはっきりと自覚して、それを言語で報告できる状態、「自分がある種の感情を持っている(怒り、喜びなど)」ということをはっきりと自覚して、それを言語で報告できる状態が「気づき」です。
人間は自分の身体内で行われている処理であっても、そのすべてに関して気づきを持っているわけではありません。むしろ逆にほとんどの処理は、気づきを伴わず進行しています。
気づきのない状態とは
私たちは普段、「見るもの・音・匂い・味・皮膚感覚・心に浮かぶ思考」に対して、自分の感情や固定観念による判断を瞬時に加えて、解釈しています。
例えば、音が耳に入った瞬間に「この音楽、いいね〜」とか「ヤダっ、同僚がまた嫌味を言ってる」などと解釈して、気分が上がったり、気分が落ち込んだりします。これはサティ(気づき)のない状態です。
サティがないと、このように心に「kilesa(キレーサ)汚れ・邪念(欲・怒り・無知)」が生じます。仏教用語ではこれを煩悩と呼んでいます。
自分では、経験によって的確に判断しているつもりでも、実際には感覚の対象(この場合は音)に対する自分の思い込みによって、心が誘導されている状態です。「見るもの・音・匂い・味・皮膚感覚・心に浮かぶ思考」という6つの感覚器官から入る情報に、私たちはその都度「喜んだり、嫌悪したり」心を揺り動かされているのです。
これが日々積み重なって、人は心の汚れを増やし続けています。歳とともに許せなくなるのも、頑なになるのも、様々なものごとに対して、自分の感情や固定観念を加えて判断し続けていることに、自分で気づいていないからです。だからサティ(気づき)が重要なのです。
とはいっても、好きな音楽や同僚の嫌味が聞こえた時、「これは単なる音だ、音に過ぎない、ただの音」と先入観を振り払って、正しく気づく努力をしても、すぐに音楽に魅かれる気持ち(好き→欲)や、嫌味に対する嫌悪感(嫌い→怒り)がなくなるわけではありません。
自分の身体を利用して気づきを実践
サティ(気づき)は理屈で理解するよりも、自分で実際に体験するのが一番てっとり早く理解できます。
サティの実践法は、「一瞬、一瞬、自分の言葉・行い・心に浮かぶことに、常にありのままの状態で気づき続ける」という簡単なやり方です。年齢を問わず、誰にでも実践できます。
このとき、自分の判断を加えないように努力するのではなく、まずは、自分の判断が加わっていることに、気づくのです。心が良くも悪くも揺れ動く様子に、常に気づき続けるのです。
好きな音楽が聞こえてきたら、「自分はこの音に対して、好きだと感じている。いい気分になってきた。もっと聞きたいという思いも出てきた……」と、心の様子をありのままに捉えるのです。同僚の嫌味が聞こえたら、「同僚の言葉に対して、嫌だと感じている。いや、この同僚自身に、嫌悪感を持っている。なにか一言、言いたくなってきた……」と気づくのです。
このとき、それがなぜかは考えずに、どんどん移り変わる気分を捕まえ続けます。ここで考えたり、分析するのが妄想で、気づきとは逆方向です。ただ、現れては消えるその気分(好感や嫌悪感)を感じ取って、心が気分に振り回されないように、反応しないようにします。
と言っても、反応が癖になっているので、反応しないようにするのも一苦労です。
反応を止めて調和をとる
ついカッとなったり、イヒヒと嬉しくなったするのが反応です。この反応そのものを止めようと直球勝負で立ち向かうと葛藤が起きますが、何が起きても調和をとることを優先するように努力します。
慣れ親しんだ反応そのものを止めるのは難しいのですが、今まで馴染みのない調和をとるのは、意外にすんなりできるものです。自分の考えはゼロにして、その場にいる全員にとってのベストは何かを探りながら、自分以外の他者(人とは限らない)の希望通りに少しでもなるように努力するのです。
頭で考えれば絶対無理、こじれにこじれた最悪の状況でも、たった一人の調和をとろうとする心が入れば、驚くほどパタパタと周りの心も緩んでいくのです。勇気を出して体験してみてください。救世主になった気分になれます(←ここに喜びを見出さないよう、要注意)。
反応より調和を優先させると、自分の嫌悪感や好感に気づきつつ、周囲と一体感を味わうことができます。
日常生活のたわいないことでも、人が見ている見ていないに関わらず、どんな些細な問題でも調和をとるようにすると、反応が止まります。
調和がとれているかどうかは、これは自分のためなのか、家族のためなのか、人間のためなのか、あらゆる生物のためなのか、地球のためなのか、全宇宙のためなのかを、絶えず自分に問いながら行動し、より大きなカテゴリーであれば、よりよいのです。
こうして正しく気づくことによって、欲や怒りを自制して、最終的にはキレーサ(汚れ)が生じない状態にまでもっていくのが、ブッダの説く修行です。
修行者は感覚と感情に気づく
修行者であれば、そのとき同時に身体に起こる感覚にも気づき、それを観察し続けます。これが、サティ・パッターナ(気づきの確立)の瞑想修行です。
新しいキレーサを作らない状態が確立できたら、過去のキレーサを浄化して、心を純粋な状態にする過程に進みます。瞑想しなくても気づけるなら、瞑想しなくても構わないのですが、身体の微細な感覚と心のより繊細な感覚に、常に同時に気づき続けるためには、やはり静かに坐った状態で集中しないと、感受は難しいと思います。
こうして毎日毎日正しくサティを積み重ねていくうちに、だんだん対象への執着が薄れていきます。長い年月がかかる場合もあれば、すぐにそうなる場合もあります。人それぞれです。
そうして少しずつさまざまな対象に対して、心が揺れ動かないようになると、自然に智慧が生じます。
サティで生じる智慧
生じる智慧は、①すべてが無常 ②すべてが苦しみ ③ものごとに実体はない の3つです。
この段階になると、気づきは突然パッとひらめくような状態となり、ただ「あっ、そうか!」と気づく(目覚める)ようになります。
さらにサティを実行していると、努力する力(ヴィリヤ)、集中力による精神統一(サマーディ)、自分を信じてきっとうまくいくと確信する力(サッダー)、という悟るために必要な力がすべて同時に鍛えられます。
だから、あらゆる瞬間に対して、絶えずサティを正しく続けていると、最終的には悟りの境地に至り、自然に解脱できるのです。
サティの行き着く先
サティの道は、選ばれた人や特別な人の道ではありません。それぞれの人間の心を育て、成長させる道です。宇宙=自然の法則は、誰も選ばないし、特別扱いしません。結果としてそれぞれの役割があるだけです。
解脱は本来、誰もがいつかは至るゴールであって、目標とするものではありません。結果として、そこに至るだけです。
また、サティの道は何か神秘的な体験をする道でありませんが、自然の法則にかなった調和のとれた意識改革をして、それを実行に移すと、人間が本来持っている機能が実際に使えるようにどんどん変わり出します。
これを超能力と呼ぶこともできるかもしれませんが、実際は意識を超越したから出現する能力です。この能力は誰もがみんな、本来自然に持ち合わせている潜在能力です。ただ、現在の文明社会では、それを活用するのが不可能になっているだけです。
不思議な能力を得よう、超能力を得ようといった個人の欲望が完全に消滅した場合に、自然の法則によって出現する能力なので、興味本位で得られることはあり得ません。
以上です。