怒りのコントロール

宇宙空間での炎
空気に満たされた国際宇宙ステーションの微小重力環境で球状に燃える炎。重力のある地上では、熱せられた空気が上昇して膨張するため、炎は穂のような形になるが、宇宙の炎は、四方八方からランダムに漂ってくる新しい酸素分子と出会うことで、煤が炎の中に長く留まり高温で球状に包まれる。 NASA

「怒り」と言えば炎のイメージですね。漫画などでは、怒り心頭の主人公の瞳に「涙の形の炎」がメラメラと燃え、「憎悪」や「強い恋愛感情」は、炎に例えられます。

怒りと一口で言っても、いろいろなものがありますが、パーリ語では「dosa(ドーサ)」といいます。涅槃(解脱)を目指す人は、10の束縛をクリアしなくてはなりませんが、その5番目が怒りです。

怒りとは?

怒り(dosa ドーサ)」とは、目の前にあるものに対して反対的な態度をとるエネルギー、「嫌だ」と悪意を感じるエネルギーです。怒りのエネルギーが生まれると、出会う対象について、「反対したい、拒否したい」という反応を起こします。

外に向かう怒りと内に向かう怒り

怒りには2タイプがあります。1つは外に向かう怒り、もう1つは内に向かう怒りです。

外に向かう怒り

外に向かう怒りは、他者に対して怒ること、「嫌だ」という悪意を持って反発する怒りです。怒りの原因が外にあると思い、「私が原因ではない、私は正しい」と攻撃的になることです。

「なんでちゃんとできないの、私はやっているのに違うでしょ、あなたもちゃんと従いなさいよ」という怒りの感情です。

例えば、ルールに反する行動をする人に対して「こうすベきだ、ああすべきだ」と正したくなることはありませんか? ルールに従ってもっともらしく善悪の基準をつけ、人に指摘したくなる時「自分は原則通りに正しいことをしている」つもりかもしれませんが、このとき心にあるのは、怒りのエネルギーです。そこにあるのは「正しさ」ではなく「怒り」です。

社会を良くしたい」と言いながら、「あれが悪い。これが悪い」と批判ばかりしているのも同じことです。怒りのエネルギーを放出しているだけで、結局は何も変えられません。

常に他人を批判したり、欠点ばかり見ているので、自分が精神的に苦しく、人間としての成長もなく、悩み苦しんで生きることになります。周りからも「嫌な人だ」と思われて、隔たりができてしまいます。それはもともと「怒り」の気持ちがあるからです。

内に向かう怒り

一方で、内に向かう怒りは、自分自身に不平不満を感じたり、落ち込んで自己嫌悪になる怒りです。

何でも自分が悪いと思い、自分に向かって攻撃的になる状態です。生きることがとても苦しくなり、苦しみが限度を超えると、突然暴力的になって他者に危害を加えたり、自殺を図ったりすることもあります。

怒りには慢心が伴う

外に向かう怒りも、内に向かう怒りも「慢心māna マーナ)」が伴います。

慢心とは、自分を評価すること、計ることです。自分が正しいと評価することは「高慢(ati māna)」、自分がダメだと評価することは「卑下慢(hīna mānaī)です。

前頭葉と怒り

西洋医学的には、若者が怒りをセーブできなかったり、高齢者が怒りっぽくなるのは、大脳の前頭前野が未熟、または萎縮して怒りを制御する力が弱まるから、と考えられています。

前頭前野は高次脳機能の中枢で、衝動による抽象的な行動を制御しています。人間の脳は後ろから前に向かって成長します。初めに首の後ろの部分が成熟し、最後に額の奥にある前頭葉が完成しますが、20代後半から30歳頃までかかるといわれています。

つまり前頭前野は、遺伝子よりも環境・経験に影響を受けるということです。

その前頭前野の機能を強化するには、有酸素運動や瞑想が効果的と言われています。特に瞑想は確実に効果があるとか。

瞑想が効果的かどうかよりも、そもそも怒りの正体が何なのか考えてみます。

この怒りのエネルギーは一体何なのか?

そもそも怒りは、怖れから引き起こされます。

外に向かう怒りで考えてみると、「悪意を抱く」とは、人がその対象を受け入れず対立している状態です。このとき心には「相手が間違っている、私の気持ちを理解していない。言うことを聞かない。自分勝手で社会性がない」といった「怒り」の感情が現れるわけですが、これらはすべて、「私の意に沿うように行動できていない」だけです。

周りの人々が自分の希望通りに動き、物事がすべて自分の思い通りに運ぶならば、誰も悪意を抱きません。しかし、他者も同様にそれぞれの意を持って生きているわけですから、当然、自分の意にそぐわない事態が起こります。

つまり、悪意を抱かずに生きていくためには、自分に関係するすべての人々や動物が、自分ののニーズを満たさなければならない、ということです。明らかに不可能なのです。自分の意のままにできるのは、自分だけです。自分直ししかできないのが、真理なのです。

怒りは弱者へ向かう

それなのに無知な人は、自分の心には目を向けようとせず、何とかその欲求不満を外で解消しようとします。

自分よりも強い人を相手に自分の欲求を通そうとしても、逆攻撃されて自分が傷つくかもしれません。それはもっと怖いので、矛先は悪意がない人、清らかで正しい人に向かいます。

良い人ほど無抵抗で、相手の意を尊重し譲ってくれるので、そこにつけ込むのです。さらに、良い人をコントロールできれば、その人を慕う人々も支配した気分になり、満たされなかったニーズを一気にまとめて解消できるのです。

しかし、制御する気のない心のニーズは、もっともっとと増える一方で、決して満足できません。寛大な良い人によって、少しは満たされていたニーズも、いつかは破綻します。

そして自分の思い通りに動く人だと思っていた相手に、軽くでも拒絶されようものなら、直ちに猛烈な悪意に変わるのです。これが良い人に抱く悪意です。これは悪人に対して悪意を抱くよりも、もっと大きな悪意です。たまりにたまったネガティブなエネルギーの塊です。良い人に悪意を抱くことは、これは自分に対する最悪な行為になります。

もし、自分がそうなっているかもしれない、と思ったら、どうしたらいいのか?

怒りをしずめる方法

怒りの停止は実は単純な構造です。判断し反応することを止めればいいのです。

まずその前に、自分が他者に怒りをぶつけていることに気づかないとなりません。こっちの方が難しいですね。

「何でちゃんとできないの!」という怒りが起きたら、なんとかその怒りを相手に投げつける前に、「あの人はできていないと評価した」ことに、気づくようにするのです。

「あの人はできていない、と勝手に自分の価値観で評価して、苛立っている高慢な心」に気づくのです。そしてその心に沸き起こる純粋な怒りのエネルギーを、ただ感じるだけにとどめます。

その先の行動であるアウトプットをしなければいいのです。黙って自分の心の内なる怒りを観察し、他者に怒りをぶつけなければ、行為が起きないからです。

「怒ってしまった」と反省する必要も、「気に食わないと感じる他者を受け入れる」必要もありません。ただ、自分が「気に食わない」と評価したことを受け入れて、それを相手に返さなければいいのです。

内に向かう怒りも同じです。「自分はできていない、と勝手に自分の狭い価値観で評価して、落ち込んで卑下する心」に気づくのです。

行為を起こさなければ、結果も起きません。当たり前すぎて、???と思うかもしれませんが、これが因果の法則です。何かの行為(この場合は「怒る」という行為)をしなければ、その結果(この場合は「怒りのエネルギーが心に蓄積される」)も生じないのです。

怒る人への対応

では、自分は怒るつもりなど全くなりのに、相手が絡んできて、理由もなく、自分に対して怒ってきた時にはどうするか?

たとえ相手が犯罪者であっても、怒りに対して怒りで対応してはダメです。

なぜなら、それに対して怒ったり攻撃して反撃すると、自分も他者に対して怒る行為や傷つける悪い行為をしたことになるからです。

それがどんなに理不尽であっても、理由は関係ないのです。自然の法則に正当防衛はありません。自分がした行為に怒りや敵意があれば、それは悪い行為であり、悪い結果を自分にもたらします。

相手は無知で、自分の心を抑制できない状態です。そんな人に対して、反撃したり怒ったりしてわからせようとしても、うまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もあります。しかし怒りで反応した自分の心が、怒りのエネルギーを蓄えて不幸になることだけは確実なのです。実にアホらしいことです。

だからどんな場合でも、怒ってはいけないのです。

以上です。