物惜しみ・ケチ

月から見た地球
月から見た地球。月周回衛星「かぐや」から、ハイヴィジョンカメラで撮影された。 JAXA/NHK

この写真は2008年に撮影されたものですが、公開されたのは2016年。ケチなわけではなく様々な事情があったのでしょうが、8年の歳月を費やしました。

 

物惜しみ(Macchariya マッチャリヤ)」とは、大切な物や値打ちのある物に限らず、使ったり貸したりして失うことを嫌がること、「ケチ」のことです。

自分の持ち物を他人が触るのは嫌。自分の部屋に他人が入るのは嫌。自分の持っている物を、他の人と共有するのが嫌なのです。

自分の方へ財産が流れてくることは歓迎しますが、自分から外へ出ていくことは嫌なのです。与えると損をすると思う人は、ものの価値をお金に換算して考えています。生きる上で何が必要になるか、危険や不幸は予測できません。その不安に備えて価値をお金に換算するのです。

お金があるということは、買おうと思えばなんでも買える力があるということです。それを使ってしまえば、使った分だけ買える力も弱くなります。だからいつまたっても使えない。使えずに目減りするのを、心配ばかりしているのです。お金が何か他のものを得るための手段ではなく、目的そのものになり、自分を護る力だと錯覚しているからです。

実際には、必要になった時に初めて、ものには価値が生まれるのですから、予めお金には換算できないものなのです。いくら財産があっても不安は尽きず、満足することはありません。物惜しみは精神的な病で、苦しみをもたらす不健全な心です。こんな人とは誰も付き合いたくありませんよね。

物惜しみは分離を生み出す

共有するのが嫌ということは、他者を排除することです。つまりそこで分離が発生します。

私のもの VS 他者のもの。

たとえ自分で意識していなくても、自分と他者は違う存在だとみなした時点で、そこに分離が生まれるのです。分離感を感じると私たちは、他者を無視したりぞんざいに扱ったりして、自分の利益だけを追求しようとします。分離感は怖れや攻撃の気持ちと同じです。

周りを排除していると、心が内向的になり、自己がどんどん小さくなっていきます。社会との隔たりがどんどん大きくなり、疎外感を感じるようになります。笑顔で挨拶されても「ニヤニヤして、何かたくらんでいるのではないか」と疑ってしまい、挨拶もできなくなるのです。そして生きることが我慢できないほど苦しくなり、最終的には孤立してしまいます。

社会に認めてもらうこと、社会に見放されないことも人間の幸せのひとつなのです。

どうしたらいいのでしょう?

共有する

周りと協力し、他者と共有すればいいのです。

自分の持っている物や能力を、他者と共有する。私の物はみんなのもの。社会のためにあるのです。

自分の物を共有することで、他者とつながることができます。つながることは、共に勝つ感覚を与え、自分の外側に自分の存在価値を見出すことができます。他者を喜ばせたことで自分も喜び、外部に居場所を見つけた心は安心し、満足して癒されるのです。

天界と下界の食卓

下界では、幅2メートルのテーブルをはさんで、みんなで豪勢な食事をしていました。使えるのは長さ2メートルの長い箸だけ。下界の人々は、目の前にたくさんの御馳走があるのに、食べたくても食べられません。

一方、天界でも、同じく幅2メートルのテーブルをはさんで食事をしていました。使う箸も同じく2メートル。ところがこちらは楽しく談笑しながら、御馳走を堪能しています。

どうしてかと見てみると、向かい合った同士が、箸で掴んだものを、相手の口に入れているのです。 一人ではできない事も、お互いに助け合えば解決できるのです。

与える人

与える性格の人は、自分の物を他者と一緒に使いたがります。そういう人は、わがままになったり、他者の気持ちを無視したり、自分の考えを押しつけたりしません。だから自然に周りに人が集まってきて、孤独になることはありません。

与える人は、周りに信頼できる人間関係があるので、自分に何かが必要になった時は、頼んだり、お金を払ったりしなくても、誰かが助けてくれます。結果として、自分が与えたよりも多くを受け取ることになるのです。だから与えれば与えるほど、与えられるのです。

良い人間関係は、与えることから始まります。だからといって、見返りを期待して何かを与えてはいけません。期待は相手に対する要求に他ならないからです。

分離を生み出す心の動き「物惜しみ(Macchariya マッチャリヤ)」を理解し、他者に与え、他者と共有することは、苦しみから抜け出す第一歩です。

以上です。