戒律とは
解脱を願う修行者が守るべき生活上の決まり事です。自分自身に対して課する倫理的な「戒 śīla シーラ」と、出家修行者が僧院での集団生活に課せられる「律 vinaya ヴィナヤ」があります。
戒 śīla シーラ
ブッダは「人が幸せに生きていくためには、この5つはしない方がいい」として、出家、在家を問わずすべての人々に「Pañcasīla:パンチャ・シーラ 五戒」を教えました。これは自分自分に課す倫理的な戒めで、在家で修行する人が守るべき基本的な戒めです。
五戒は、決まりだから守るものでも、ブッダ が言ったから守るものでもありません。自分が幸せに暮らすために、「〜しない」と自分自身に課した方がいい道徳的な戒めです。
五戒
「Pañcasīla:パンチャ・シーラ」の戒めは、生き物を傷つけない、盗みをしない、誤った性行為をしない、嘘をつかない、酩酊しない、の5つです。
1. 生きものを傷つけない
仏教用語では、五戒の1番目は「不殺生=生き物を殺さない」となっていますが、殺さなければ意地悪してもいいわけではなく、他の生き物が嫌だと思うようなことは、どんなに些細なことでもしてはいけない、という教えです。
人間でも動物でも微生物でも、あらゆる生命に対して傷つけないように努めます。
だからといって、歩くだけで足元の微生物を踏み殺してしまう、などと極端に考える必要はありません。自分の心が「他の生き物が傷つくかもしれない」と気づいているのに、行為を続けることはダメですが、普通に歩きつつ、地面を這うアリや小さな虫にも気をつけて、避けて通るくらいで大丈夫です。
肉食は動物を殺すからこの戒めに反するので、菜食主義にならなくてはいけない、ということもありません。ブッダの時代では、托鉢で与えられたものは、肉であってもすべて残さず、ありがたく他の生命をいただくのが原則です。しかし、自分の食事のために他の生き物が殺されるのを見過ごしたり、あるいは自分が殺して料理することは許されません。
この戒めで大切なことは、自分がこの地球上で生きているのは、あらゆる生命の助けを借りて、共存しているからだということを忘れずに、常に他の生命にも気を配り、非暴力であるということです。
逆に、自分が勤務する会社が、兵器を製造していたり、遺伝子組み換えなど微生物を操作するなどの行為は、他の生命を傷つける行為とみなされますので、この戒めに反することになります。
また、現代の仏教論では、死刑・自殺・中絶・安楽死は殺人に含まれますが、中絶に関しては、仏教国は完全に禁止はせず、非難することで中間的な立場を取っているようです。
2. 盗みをしない
物でも場所でも、他者のものだと知っていながら、自分に与えられていないもの持ち去らないという戒めです。窃盗や強盗、詐欺などの犯罪行為はしなくても、実は普通の人でも意外に盗んでいるのです。
無駄話:これは他者の時間を盗む行為で、時間泥棒です。
割り込み:自分の順番ではないのに割り込む行為は、自分に与えられた順番ではないのに、他者の順番を奪う行為です。
情報を伝えない:他者に情報を意図的に伝えない行為は、自分が優位であるために、他者が得るべき利を盗む行為です。
会社の備品を持ち帰る:備品を私的に利用することは、窃盗罪・業務上横領罪です。
3. 誤った性行為をしない
出家者は一切の性行為(自慰を含む)が禁止ですが、在家者は配偶者などパートナー以外との性交渉はしないようにします。お互いの合意があったとしても、パートナー以外と行為に及べば、パートナーが大きく傷つくからです。
性欲は子孫を残すための本能なので、欲の中でも非常に大きな欲求ですが、食欲や睡眠欲のように、人が生きるために必須の欲ではありません。本能なので大きな衝動を伴い、6つの感覚器官のすべての感覚を総動員する行為なので、あらゆるものの優先順位を変えてしまう欲求です。理性によるコントロールが難しい動物的な欲求であり、修行には大きな妨げとなります。
また、自慰行為は、情欲を刺激し増加させるため、性的な欲望からの解放を妨げます。
詳細については、スッタニパータの第4章でブッダ がティッサ・メッテイヤに教えていますので、こちらをご覧ください。
4. 嘘をつかない
嘘とは、真実に反するとわかっていながら相手に伝えて欺くことです。つまりは、不真実を正当化することです。
詐欺はもちろん、実際にしておきながら「私はしていない」と言う保身も嘘です。他人によく思われたくて装うのも嘘です。自分の弱点をごまかす行為です。嘘つきは、信頼を失うだけです。
子供の頃から、散々言われてきた戒めですが、嘘つきの言うことは誰も信じようとはしません。小さな嘘でも大きな嘘でも、隠したり誤魔化したりして、自分を欺く人を信頼して、助けようとは思わないものです。
嘘つきは尊敬されず、本当のことを言っても信じてもらえなくなったり、重要な会合に加われなくなったり、意見を言っても受け入れてもらえなくなります。
正直であれば、他者から信頼されて多くの助けを得ることができます。あらゆる生命が生きる上で大切なことは共存です。
「嘘も方便」ということわざがあります。
「嘘をつくことは本来悪いことだが、物事を円滑に進めたり、良い結果をもたらしたりするための手段(方便)として、時には必要な場合もある」という解釈のようですが、パーリ語の原典には、「嘘も方便」といった記載は見当たりません。
「方便」とは、パーリ語で「upāya(ウパーヤ)」のことで、「方法・手段」という意味で、特に「智慧者が用いる巧みな手段」を指します。相手を悟りに導くために最適な方法を、智慧に基づいて瞬時に適切な判断を下せる能力です。相手にわかりやすく難しいことを理解してもらうために用いる方法であり、「たとえ話・逸話」のことです。逸話は真実ではありませんが、嘘ではないのです。
「嘘」に「害にならない」ものはありません。
「嘘をつかない」ということは、「真理、事実のみを語る」という意味です。
事実だからといって、何でもかんでも率直に語って、他者を不快にすることは罪です。人のためになることのみ、語ればいいのです。語るべきか語るべきでないかを判断して、語るべきでないとわかったら、黙っていればいいのです。
5. 酩酊しない
アルコールや薬物といった中毒性の物質を避けることです。喫煙も含まれます。果実酒もNGです。出家修行者の場合は、戒めではなく禁止事項です。
この5つめの戒めは、五戒の中でも最も守るべき戒めと言われています。その理由は、酩酊すると他の4つの戒めを簡単に破ってしまうからです。
人は飲酒しなくても、大なり小なり多くの「過ち」を犯すものですが、飲酒によって自制心が低くなり、悪行を引き起こす可能性が高くなります。意図的にその要因を増やすのは、愚かなことです。
さらに、酩酊することで、健康を害する、財産を損減する、世間での評判が落ちるなど、自分の為にはなりません。
アルコールや薬物に限らず人は、「たまにはいいだろう。お祝いだから今日だけ。明日からやめる」と、結局は際限がなくなるものです。そういう性質だからです。だから酩酊しなくてもたった1杯でも飲まないの方がいいのです。
アルコールや薬物は、脳を麻痺させますが、特に大脳の理性や判断を司る部分の働きを抑制します。そのために人は本能的な活動が活発になり、自制機能が低下し、上機嫌になったり、おしゃべりになったりして、リラックスし、ストレスから解放されるのです。
しかし修行者は、理性を働かせて常に自制機能をフル稼働することが仕事なのですから、それを妨害することになります。軽くでも酔っていては、瞑想も精神統一も集中も、まして洞察などできません。
悟りを求める者にとって、アルコールや薬物は不要です。飲酒するしないは、あくまで自分自身の問題であり、酒を断って悟りを目指すか、酒を飲んで悟りを諦めるかの二者択一です。
もし自分がアルコールや薬物を止めることができないならば、あるいは時々飲んでしまうなら、「なぜ自分は欲するのか?」その時の自分の心を観察してみてください。それが理解できるようになれば、「我慢してやめる」よりも、楽にアルコールや薬物から離れられるでしょう。
八戒
在家で修行する人が、ウポーサタの日など、一時的に僧院に滞在して修行生活をする場合に、出家者に倣って守る8つの戒めが「八戒」です。
八戒は、五戒+次の3つの戒を守ります。また、五戒の3つ目は「一切の性行為をしない」に変わります。
6. 正午以降の食事を控える
八戒の中では、これが一番つらいかもしれません。
出家者は、托鉢で得た食べ物によってのみ日々の糧を得ます。それで満足しなくてはなりません。「少欲知足」わずかなもので満足し、「欲を少なくして足るを知る」のが、ブッダ の教えです。正午を過ぎて夜明けまでの間は、修行者にとって食事をとるのに適切な時ではない、というブッダの言葉に従っています。
7. 身を飾ることや娯楽を控える
着飾ったり、装飾品を身に着けること、化粧や香水もNGです。また、歌や踊り、テレビや音楽鑑賞などの娯楽も控えなくてはいけません。
これは自分自身のためにはもちろん、一緒に修行する他者の気を散らさない配慮でもあります。6つの感覚器官を研ぎ澄まして、微細な感覚を観察するためには、外からの刺激は極力少ない方がいいのです。
華美な装いは人目を引く視覚刺激で、強い香りも余計な嗅覚刺激です。歌う行為は、声帯から大きな振動を生じさせる聴覚刺激です。踊る行為は、身体を動かし、体性感覚を刺激する触覚刺激です。そして娯楽は、心にインパクトを与える意識刺激です。
8. 贅沢な椅子や寝台を控える
椅子には基本的には座りません。寝床は簡易な敷物の上で眠ります。ブッダ の時代の修行者たちは、雨季を除いて、森の中に入って野宿でした。だから修行者にとっての悩みの種は、吸血昆虫でした。
八戒の目的は、道徳的な戒めを強化しつつ、より瞑想集中力を高め、雑念を防ぐことにあります。
ヴィパッサナー瞑想の合宿コースでも、コース中はこの八戒を守ります。コース中だけなので、アル中などでなければ難しいことではありません。身を清らかに保ち、食べたり飲んだり歌ったりなどの、日常的な楽しみを断つことで、自分自身の心を静かに見つめるのです。
モーセの十戒との共通点
キリスト教圏には、同じような戒律として「モーセの十戒(じっかい)」があります。
- 私の他に神があってはならない。
- あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
- 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
- あなたの父母を敬いなさい。
- 殺してはならない。
- 姦淫してはならない。
- 盗んではならない。
- 隣人に関して偽証してはならない。
- 隣人の妻を欲してはならない。
- 隣人の財産を欲してはならない。
5〜10は、五戒と趣旨が同じです。
律 vinaya ヴィナヤ
五戒や八戒を守ることは、出家修行者にとっては当然のことですが、出家者の集団であるサンガには、出家者が守らなければならない集団規則「律 vinaya ヴィナヤ」があります。
男性出家者である比丘(ビック)には227戒、女性出家者である比丘尼(ビックニ)には311戒の「Pātimokkha パーティモッカ」と呼ばれる規律条項があります。これらは「〜しない」という自発的な戒めではなく、「〜してはならない」という禁止事項です。
ブッダ自身は、「五戒だけで十分。あれこれ決まりがあると、かえって修行の妨げとなる」と考えていましたが、サンガが大きくなるにつれて、大勢の出家者たちが集団で修行生活を送る上で、生活規範やガイドラインが必要な比丘も出てきました。
律の発端となった事件
そもそも出家者のための集団規律である「律 vinaya ヴィナヤ」に規律条項として禁止事項を列挙した「Pātimokkha パーティモッカ」ができた発端は、比丘のスディンナが元妻と性交したことでした。
比丘のスディンナは出家する前は結婚していましたが、ブッダの教えに感銘を受け、家庭を捨ててブッダのサンガに入りました。
ある日、スディンナが実家のあるヴェーサリー近くの村を托鉢で訪れた際、家族から食事の布施をしたいと申し出がありました。スディンナがそれを受けて、実家で食事をしたところ、母親から還俗(出家をやめて世俗に戻ること)して家業を継いでほしいと言われました。
スディンナはもちろん断りましたが、両親は一人息子であるスディンナにどうしても家業を継いでほしいと思っていました。しかし、スディンナの決意が固いとわかった母親は、せめて後継者を残してほしいと懇願しました。
スディンナは断り切れず、母に従って元妻と性交して男の子をもうけました。このことは当然、人々の知ることとなり、サンガの信頼も失墜しました。
ブッダはスディンナのために規律を正式に制定しました。
こうして、比丘が悟りの道に反する行為をするたびに集会が招集され、新しい規律が加えられるようになり、最終的に「Pātimokkha パーティモッカ」は、男性出家者227戒、女性出家者311戒の規律条項になったのです。
このパーティモッカの中には、破ると 即座に僧団から永久追放になる重要な規律があります。「Pārājika(パーラージカ)破滅罪」です。
Pārājika(パーラージカ) 破滅罪
パーラージカは、比丘には4つ、比丘尼には8つあります。
これらのうちいずれかを破った場合、比丘となった本来の目的を失っているので、もはや比丘とは見なされず、サンガ(僧団)から永久追放されます。後に罪を悔い改めたとしても、在家者に戻ることは可能ですが、再び出家者となることはできません。
比丘のパーラージカ
- 性行為:人間、非人間(夜叉・龍・餓鬼)、異性同性に関わらず、たとえ雌雄の動物であっても、いかなる自発的な性交も禁止。自慰も含む
- 盗み:自分に与えられていないものを取ること
- 殺人:人間を殺すこと
- 嘘の申告:悟っていないのに、悟ったと偽りを言うこと。達成していないのに禅定(ジャーナ)の1つを達成したと主張することなど、精神的な到達点に関する虚偽の申告
パーラジカは、五戒のうちの最初の4つの戒をより限定的に定義したものです。
比丘尼のパーラージカ
比丘の4つに以下の4つが加わります。
5. 男性への接触
6. 男性との不適切な交わり
7. 他者の過失の隠蔽
8. 戒律に背く僧侶に従う行為
ブッダの考え
ゴータマ・ブッダは、従兄弟であり従者でもあったアーナンダに、「自分が入滅した後は些細な規律は廃止してもよい」と伝えていました。
しかし、具体的にどの規律を廃止すべきかは示されていなかったため、結局、すべての規律がそのまま残り、現代まで受け継がれています。
ところがその一方で、「竹林精舎の生活は甘すぎて、在家の暮らしとほとんど変わりがない」として、規律をさらに厳しくするよう求めた比丘がいました。
ブッダの従兄弟であり、ブッダの地位を狙っていたことで知られるデーヴァダッタです。
デーヴァダッタは、「これら5つの規則に従えば、欲望を脱して簡素な暮らしができる」として、次の5つの規則を僧団(サンガ)全体の義務とするようブッダに提案しました。
pañca vatthūni:五事
- 比丘は死ぬまで森に住まなければならない
- 比丘は托鉢のみで暮らさなければならない
- 比丘は捨てられた布だけを衣にしなければならない
- 比丘は木の下以外で眠ってはいけない
- 比丘は一切の魚・肉を食べてはいけない
これらはすべて、より厳しい苦行を強制する規則でした。
ブッダは「そうしたい比丘がそうするのは自由ですが、サンガの義務にはしません」と、この提案を認めませんでした。
苦行そのものを否定したわけではなく、それをすべての比丘に強制することを認めなかったのです。
ブッダは、現在の規則であれば、比丘たちは在家者たちと交流する機会が持て、ふとしたきっかけで出会った人々と、ダンマの教えを分かち合うことができる、と考えていました。
「森に住みたい比丘はそうすればよいし、小屋や僧院に住みたい比丘はそうすればよい。
托鉢だけで食べ物を得たい比丘は、在家者からの食事の招待は断ればよいし、在家者とダンマの教えを分かち合いたいと願う比丘は、招待を自由に受けてよいのです。
捨てられた布を衣にしたい比丘はそうすればよいし、在家者が寄付する衣を受け取りたい比丘はそうしてもよいのです。
木の下で眠りたい比丘はそうすればよいし、建物の中で眠りたければ、それもまたよいのです。
菜食だけを実践したい比丘はそうしてください。しかし、動物が布施のために殺されたのでない限り、肉や魚が入った食べ物の布施を受け取ることは構いません。
一番大切なことは、比丘としての気高く純潔な生活を自分自身が実践することです」と、ブッダは言いました。
これがきっかけとなり、デーヴァダッタは同調する数百人の比丘を連れてサンガを離れ、新たなサンガの結成を企てました。これはサンガを分裂させる重大な悪業です。
これはダンマの教えにおいて最も重大な罪とされる「pañcānantarika-kamma:五逆罪」の1つです。
pañcānantarika-kamma:五逆罪
五逆罪とは、これを犯すと直ちに重い業の結果を受けるとされる5つの行為です。比丘であっても在家であっても、誰であれ例外はありません。
- mātughāta:母親殺し
- pitughāta:父親殺し
- arahantaghāta:アラハンを殺す
- lohituppāda:ブッダを傷つける
- saṅghabheda:サンガを分裂させる
五逆罪を犯すと、来世はNiraya(地獄界)に決定です。
まとめ
いろいろな戒律や重罪が登場しましたが、
在家で修行する人には「五戒・八戒」
出家者には集団生活のための規律「パーティモッカ」
その中の最重罪が「パーラージカ」(比丘4つ、比丘尼8つ)
ダンマの教えにおける最重罪が「五逆罪」です。
ダンマの教えの基本となる「五戒」はいわゆる道徳です。
日本人にとって五戒を守ることは、5つ目以外はそんなに難しいことではありません。ごく普通の道徳観であり、他の生き物に対する思いやりがあれば、簡単に守ることができるものです。
むしろ難しいのは、それを守れていない人々に接した時の、自分自身の心のコントロールです。
道徳を守ることは、他者に守らせたり、自分が守っていることを自慢することではありません。ただ、黙ってやればいいことです。しかし人は、自己顕示欲や承認欲から、守れている自分をアピールしたくなるのです。さらに他者にも道徳を守らせようと必死になって、自己の正しさを追求するのです。
これは「自分はできている=他人はできていない」という思い上がりです。
人の意見はすべてが「偏見」で、自分の意見も偏見の1つです。「正しい意見」はどこにも存在しないのです。どんな正論も、それぞれ各人が「正しいと自分の尺度で思っている個人的な意見」に過ぎないのです。
五戒は他者に守らせるべきことではなく、自分自身のための戒めです。
五戒および八戒についてブッダが語った原典は、スッタニパータ第2章「ダンミカ」にあります。
以上です。
