第4章 8つのこと:3. 8つの悪い心 786〜793

3. Duṭṭhaṭṭhakasuttaṃ 8つの悪い心のスッタ集

第4章「8つのこと」の3番目のスッタ集は「Duṭṭha悪い心悪意)+ aṭṭhaka8つの)」、「8つの悪い心についてのスッタ」がテーマです。

悪い心は、明らかな悪意だけではありません。誰もが何気なく抱いてしまう心にも、悪い心があるのです。

SN-4-3-786

Vadanti ve duṭṭhamanāpi eke, 
語る 実に 邪悪な・心から ある人々
athopi ve saccamanā vadanti;
時に 実に 真実の・心から 語る
Vādañca jātaṃ muni no upeti, 
論争・しかし 生じた 聖者は ない 近づく
tasmā munī natthi khilo kuhiñci.
それ故 聖者は なし 頑固 どこにも

ある人々は悪意をもって非難し
またある人々は正義感から説くが
しかし聖者はそのような論争には近づかない
だから聖者はどこにも頑固さがない。

解説

意地悪な心で非難するのも、自分は正しいと信じて説得するのも、どちらも「自分の主義主張は正しい。あなたの考えは間違っている」という悪い心と思い上がりの頑固な心から生じています。

SN-4-3-787

Sakañhi diṭṭhiṃ kathamaccayeyya, 
自分の・実に 意見を いかに超えるか 
chandānunīto ruciyā niviṭṭho;
欲に・導かれた お気に入り 執着した
Sayaṃ samattāni pakubbamāno, 
自ら 公平 実行する
yathā hi jāneyya tathā vadeyya.
ように 実に 知っている そのように 語るだろう

どうやって自分の偏見に打ち勝つか
欲に駆られ自分の好きなことに
凝り固まった意見に。
自分の意見は正しいと思い
知っているつもりで語るだろう。

解説

人の意見はすべて「偏見」です。「正しい意見」など本当は存在しないのです。どんな正論も、それぞれ各人が「正しいと自分の尺度で思っている個人的な意見」に過ぎないのです。だからそれを一方的に人に説いたりする前に、自分自身でその正しさの根拠が、単なる自分の好き嫌いから生じていないか、どのくらい自分の好みが含まれているかに、気づかなくてはならないのです。自分は知っている=他人は知らない、という思い上がりです。

SN-4-3-788

Yo attano sīlavatāni jantu, 
その人は 自己 道徳を・守る 人が
anānupuṭṭhova paresa pāva;
質問されない 他に 言うなら
Anariyadhammaṃ kusalā tamāhu, 
否・聖なるダンマ 善人 彼・言う
yo ātumānaṃ sayameva pāva.
その人は 自分を 自ら・実に 言うなら

聞かれもしないのに
自分は道徳を守っていると
他人に言うなら
それは自分で自分は善人だと
言っていることで
聖なるダンマの教えには相応しくない。

解説

道徳を守ることは、他者に言って自慢することではなく、黙ってやればいいことです。しかし人は自己顕示欲承認欲から言いたくなるのです。さらに他者に道徳を守らせようと必死になって、自己の正しさを追求するのです。

SN-4-3-789

Santo ca bhikkhu abhinibbutatto, 
静まる と 出家修行者は 寂静を・得た
itihanti sīlesu akatthamāno;
と・私はこうだ 道徳において ない・どこにも・慢心
Tamariyadhammaṃ kusalā vadanti, 
それは聖なるダンマと 善人は 語る
yassussadā natthi kuhiñci loke.
彼に・常に ない どこにも この世に

しかし穏やかで平静な心の
出家修行者は
道徳について私はこうしてる
と誇る気持ちはどこにもない
この世のどこにいても常にそれがなければ
聖なるダンマの教えに相応しい

解説

善いことをすると、凡人であれば嬉しくなってそれを誰かに言いたくなるものです。しかし、誰かに言いたいということは、常にそこに自分を誇る気持ちが隠れているのです。そのために、せっかくした善いことの価値が下がってしまいます。人に知られずに善いことをするのは、実はとても難しいのです。

SN-4-3-790

Pakappitā saṅkhatā yassa dhammā, 
作為して 作った 彼に ダンマが
purakkhatā santi avīvadātā; 
尊敬され 存在し ない・清浄では
Yadattani passati ānisaṃsaṃ, 
即ち・自己に 見る 利益を
taṃ nissito kuppapaṭicca santiṃ.
その 頼る 不安定・のために 寂静に

意識的に作った教えを
ダンマの教えではないのに尊んで
自分に都合がいいように考える。
揺れ動くものに頼っても
平穏は得られないのに。

解説

考えて作り上げた教えは、所詮、自分に都合よく考え出したものであって、真理ではありません。ブッダの教えは、ブッダが気づき発見した真理であり、ブッダが考え出したものではないのです。「正しい意見」が存在しないのと同様に、人が考え出す思考は、すべて相対的で変化するものです。不変の真理ではないのです。だから当然、それにすがっても平穏は得られないのです。
 

kuppapaṭiccakuppa(揺れる・不安定)+paṭicca(のために):これは、自然界の物理的・心理的事象の根底にある性質、つまりすべての現象は変化する不安定なものだから、頼っても心の平穏はない、と解釈しました。

SN-4-3-791

Diṭṭhīnivesā na hi svātivattā, 
考えに・固執 ない 実に 超えやすい 
dhammesu niccheyya samuggahītaṃ;
ダンマについて 確かに知り とらわれていた
Tasmā naro tesu nivesanesu, 
それ故 人は それらの 定着において
nirassatī ādiyatī ca dhammaṃ.
軽視する 取り上げる と ダンマを

ダンマの教えについて自分がいかに
捉われているかに気づき
自分の考えに固執しないのは
そう簡単なことではない
だから人はこだわって
ダンマの教えを拒否したり
受け入れたりする

解説

自分が真理だと思っているものすら、単なる自分のこだわりでしかないかもしれません。

SN-4-3-792

Dhonassa hi natthi kuhiñci loke,
清められた人には 実に ない どこにも 世界の
pakappitā diṭṭhi bhavābhavesu;
計画された 考え 種々の存在に対し
Māyañca mānañca pahāya dhono, 
幻と 慢心と 捨てて 清められた人は
sa kena gaccheyya anūpayo so.
彼は 何によって 行くだろうか ない・執着 彼は

浄化された人は
この世のどこにいても
他のあらゆる存在に対して
偏見がない。
浄化された人は
妄想と思い上がりを捨てて
執着のない人は
どのように行くのだろうか

解説

浄化された人=悪い心のない人です。「どのように行くのだろうか」は、おそらく「涅槃に行く」ということだと思います。

SN-4-3-793

Upayo hi dhammesu upeti vādaṃ, 
執着する人は 実に ダンマに対し 近づく 議論に
anūpayaṃ kena kathaṃ vadeyya;
ない・執着・人を 何によって どのように 説くのか
Attā nirattā na hi tassa atthi, 
我も 非我も ない 実に 彼にとって 存在し
adhosi so diṭṭhimidheva sabbanti.
捨て去った 彼は 考えを・ここに すべての・と

確かに、こだわりがある人は
ダンマの教えについて議論するだろうが
こだわりのない人は
何をどうやって論じるだろうか
自己を持たないのだから
その自己に対立するものもない
ここにあるものあらゆる見方を
彼は捨て去ったのだから。

解説

自己がなければ、自分に対立するものもないのです。こだわり、執着のない人はどんな意見にも対立しません。対立がなければ議論が成り立たないのです。791のスッタに当てはめると、覚醒した人は「教えを受け入れることも、拒否することもない」ということです。

まとめ

心が不純だと、渇望や嫌悪を生み出すようになり、ますます不純になりますが、これは単なる心の癖です。心の癖に気づいて心をコントロールすることができれば、心は純粋になり、渇望からも、嫌悪からも解放されます。

Duṭṭhaṭṭhakasuttaṃ tatiyaṃ niṭṭhitaṃ.
悪心 8つ スッタ集 3番目の 終わり

8つの悪い心のスッタ集 終わり