第3章 大きな章:12. 2種類の観察法① 729〜742

12. Dvayatānupassanāsuttaṃ 2種類の観察法①

このスッタ集は、ヴィパッサナー瞑想によって観察すべき2種類の対象についてブッダが語った16カ条を、善逝者(サーリプッタ のような解脱した人)が比丘たちに解説したものです。

1〜13では、この世のすべての苦しみが発生する原因について観察します。何かが存在する時、それが単独で生じることはなく、必ず他との関係が縁となって生じます。私たち人間が存在することも、何かの事象が起こることも、すべてが原因や条件が相互に関係しあって発生します。その変化を引き起こすもとになること=縁となるもの原因です。

前文

Evaṃ me sutaṃ – 
このように 私は 聞いた
ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati pubbārāme migāramātupāsāde. 
ある 時 集会で 世尊は サーヴァッティーに 住む 東園の ミガーラ母堂

Tena kho pana samayena bhagavā tadahuposathe 
そこで 実に しかし 集会 世尊は ウポサータの日  
pannarase puṇṇāya puṇṇamāya rattiyā 
15日 満ちた 満月の日 夜に
bhikkhusaṅghaparivuto abbhokāse nisinno hoti.
比丘・サンガに・囲まれて 屋外 座って 存在

Atha kho bhagavā tuṇhībhūtaṃ tuṇhībhūtaṃ 
そこで 時に 世尊は 静かに 静かに
bhikkhusaṅghaṃ anuviloketvā bhikkhū āmantesi –
比丘・サンガを 見回し 比丘たちに 呼びかけました

"'Ye te, bhikkhave, 
彼ら これらの 比丘たちよ
kusalā dhammā ariyā niyyānikā sambodhagāmino, 
善なる ダンマ 聖なる 解脱を望む 正覚に至る
tesaṃ vo, bhikkhave, 
それ 実に 比丘たちよ
kusalānaṃ dhammānaṃ ariyānaṃ niyyānikānaṃ sambodhagāmīnaṃ 
善のため ダンマのため 聖なるため 解脱を望むため 正覚に至るため
kā upanisā savanāyā’ti iti ce, bhikkhave, 
誰 理由 聞く・と そして また 比丘たちよ
pucchitāro assu, te evamassu vacanīyā – 
問われた 存在 君は このように 言うべきだ
'yāvadeva dvayatānaṃ dhammānaṃ yathābhūtaṃ ñāṇāyā'ti. 
ただ・だけ 2種類の 真理を ありのままに 洞察する と
Kiñca dvayataṃ vadetha?
どんな・そして 2種類を 説くか
 
(1) "Idaṃ dukkhaṃ, 
これは 苦しみ
ayaṃ dukkhasamudayoti ayamekānupassanā. 
これは 苦しみの・発生を これは・第1の・随観する 
Ayaṃ dukkhanirodho, 
これは 苦しみの・制止
ayaṃ dukkhanirodhagāminī paṭipadāti, 
これは 苦しみの制止・いく 道
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これは 第2の・随観する
Evaṃ sammā dvayatānupassino kho, bhikkhave, 
このように 正しく 2種類・随観は 実に 比丘たちよ
bhikkhuno appamattassa ātāpino pahitattassa viharato
比丘たちは 怠けないように 熱心に 自ら励んで 暮らす
dvinnaṃ phalānaṃ aññataraṃ phalaṃ pāṭikaṅkhaṃ – 
2つのことを 結果を 二者の 結果を 期待すべき
diṭṭheva dhamme aññā, 
見られた・ように ダンマを 了知し
sati vā upādisese anāgāmitā"ti.
気づき 或は 生命・残余 不・還果 と

Idamavoca bhagavā. 
こう・言った 世尊
Idaṃ vatvāna sugato athāparaṃ etadavoca satthā –
こう 言った 善逝者は さらに・また これ・言う 師は

私はこのように聞きました。

あるとき世尊は、サーヴァッティーの東園にあるマザー・ミガーラ僧院に滞在していました。世尊はそこで、15日のウポサータの日、満月の夜、屋外で座っていました。世尊は、静まり返った比丘サンガを見渡しながら、こう呼びかけました。

「ここに集う比丘たちよ、
善なる、聖なる、解脱へと、完全な悟りへと導く真理が、比丘たちよ、確かにあります。
これらの善なる、聖なる、解脱へと、完全な悟りへと導く真理は、どうすればいいのかと、もし他の人々に訊かれたなら、こう答えなさい。

『ただ2つの真理を、ありのままに観察するだけ』だと。

その2つを何と説明するか?

1.「それは苦しみです。苦しみが生起する様子を観察するのが1つ目。
そして苦しみの停止苦しみが停止する道を観察するのが2つ目です。
比丘たちよ、このように正しく2つを観察する比丘たちが、怠けずに熱心に自ら励んで歩むならば、2つの果報のうちのいずれか1つの果報が期待できます。
完全に真理を理解するか、あるいはまだ、気づくべきことが残っているならば、アナーガーミー(この世には還らない)になるかです」
と、世尊はこのように言いました。

さらにまた、師(ブッダ)はこう仰ったと、善逝者が次のように語りました。

解説

Migāramātupāsāda:ミガーラ・母堂・パーサーダ。コーサラ国の長者夫人ヴィサーカー・ミガーラが、サーヴァッティの東園で比丘サンガに寄贈した僧院(鹿子母講堂)です。Pāsāda(パーサーダ)は、注釈では高層建築物高楼となっています。「高床式の建築物」で、地面から高い位置にあり、外階段(sopānakaḷevara)や梯子(nisseṇi)で、昇り降りして入室する建物だったようです。また、「宮殿」のような壮大で立派な建物もパーサーダと呼ぶようです。ブッダが出家前の王子だった頃、王宮には王子専用の季節ごとの住まいとしてpāsādaが3つありました。パーサーダは、おそらく当時の最高の建築物だったのではないでしょうか? 個人的には、パゴダ五重塔のようなものかな、とイメージしています。

Anāgāmi:真理を完全に理解した=悟りを完成したアラハン、まだ気づくべきことがある=悟りの第3段階アナーガーミー(不還果)です。

ヴィパッサナー瞑想(洞察瞑想)で観察すべき2つは、「苦しみの発生苦しみの停止」です。

SN-3-12-729

"Ye dukkhaṃ nappajānanti, 
人は 苦しみを ない・知る
atho dukkhassa sambhavaṃ;
また 苦しみの 生起を
Yattha ca sabbaso dukkhaṃ, 
の所へ また すべての 苦しみを
asesaṃ uparujjhati;
ない・余り 滅する
Tañca maggaṃ na jānanti, 
その・また 道を ない 知る
dukkhūpasamagāminaṃ.
苦しみ・停止に・至るを

苦しみを
また、苦しみの原因を
知らない人は
あらゆる苦しみが
どこで完全に停止するか
また、苦しみが停止に至る
方法も知らない。

解説

これは、ブッダが解脱して最初にまとめた「4つの聖なる真理(四聖諦)」です。①苦しみとはそもそも何なのか?(dukkha sacca) ②苦しみがなぜ起こるのか、その原因は?(samudaya sacca) ③苦しみを停止する方法は?(nirodha sacca) ④苦を停止に導く道とは?(magga sacca)の4つです。

SN-3-12-730

"Cetovimuttihīnā te, 
心の・解脱・欠けた 彼らは
atho paññāvimuttiyā;
また 智慧の・解脱を
Abhabbā te antakiriyāya, 
不可能 彼らは 終わらせること
te ve jātijarūpagā.
彼らは 実に 生・老・近づく

智慧の解放にも
心の解放にも欠ける人は
(苦しみを)終わらせる
ことはできない
彼らは確実に輪廻する。

SN-3-12-731

"Ye ca dukkhaṃ pajānanti, 
人は しかし 苦しみを 知る
atho dukkhassa sambhavaṃ;
また 苦しみの 発生を
Yattha ca sabbaso dukkhaṃ, 
の所へ また すべての 苦しみを
asesaṃ uparujjhati;
ない・余り 滅する
Tañca maggaṃ pajānanti, 
その・また 道を ない 知る 
dukkhūpasamagāminaṃ.
苦しみ・停止に・至るを

苦しみを
また、苦しみの原因を
知っている人は
あらゆる苦しみが
どこで完全に消滅するか
また、苦しみが停止に至る
方法を知っている。

解説

4つの聖なる真理について詳細は、マハーサティパッターナ・スッタをご覧ください。

SN-3-12-732

"Cetovimuttisampannā, 
心の・解脱・成就した
atho paññāvimuttiyā;
また 智慧の・解脱を
Bhabbā te antakiriyāya, 
可能 彼らは 終わらせること
na te jātijarūpagā"ti.
ない 彼らは 生・老・近づく 

智慧の解放も
心の解放も確立した人は
(苦しみを)終わらせる
ことができる
彼らは輪廻しない。

(2) "'Siyā aññenapi pariyāyena sammā dvayatānupassanā'ti, 
だろう 他の人々が・もし 理由を 2種類の・随観 と
iti ce, bhikkhave, pucchitāro assu; 
どのように そして 比丘たちよ 問われた 実に
'siyā’tissu vacanīyā. 
だろう・君は・実に 答えるべき
Kathañca siyā? 
方法を・この だろう
Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ upadhipaccayāti, ayamekānupassanā. 
それは 何でも 苦しみは 存在 すべて 制約・縁となって これ・1つ目の・随観
Upadhīnaṃ tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
制約となるものを どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 存在
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ 2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

2. そして比丘たちよ、もし2種類の観察方法について、どのようにするのか、質問する人々がいたならば、君たちはこう答えるべきです。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては制約から発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、制約することをやめて、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Upadhi(ウパディ)制約は、何かを〇〇と定めて、それによって無意識のうちに自分を制限してしまう、自分の価値観です。「こうすべきだ、こうすべきではない」という考えや、家族や社会において自分が求められていると思う役割などが upadhi になります。私たちは無意識のうちに自分で自分を縛っています。それが自分の本質(本当にしたいと感じること)とは違う場合に、苦しみが発生します。

SN-3-12-733

"Upadhinidānā pabhavanti dukkhā, 
制約・のために 発生する 苦は
ye keci lokasmimanekarūpā;
それらは 誰でも 世界に・種々の・色形
Yo ve avidvā upadhiṃ karoti, 
人は 実に 無知な 制約を 作る
punappunaṃ dukkhamupeti mando;
再び・再び 苦に・至る 愚鈍の
Tasmā pajānaṃ upadhiṃ na kayirā, 
それ故に 知って 制約が ない 作る
dukkhassa jātippabhavānupassī"ti.
苦しみの 発生・原因を・随観して・と

誰であっても
この世のさまざまな色形を
〇〇だと決めつけるから
苦しみが発生する。
無知な人はまさに
自分で制約を作っては
愚かにも苦しみを繰り返している。
だから苦しみの発生と原因を
観察して理解して
決めつけないように。

解説

この世のさまざまな色形」とは、人物や物質などの姿形・形態です。

〇〇すべきではない」と思っていることを、やっている人がいるとムカつきますよね? 100人中、自分も含めて99人が「すべきではない」と思うことを、平然とやる人物が1人いたとして、その1人の行動は間違っているのでしょうか? そのコミュニティでのルール違反ではあるかもしれませんが、宇宙的には間違っているも、正しいもないですよね? カバやウサギや毛虫が、「その人、間違ってます!」と判断しませんよね?

何かを正しいとか、間違っているとか、判断していのは自分です。「間違っている」と定義した瞬間に、それを間違いだとする根拠となる「間違っていないこと=正しい」が出現します。プラスを思えば思った分だけ、その反作用として同じ分だけマイナスが創出されます。これは宇宙の法則(dhamma)です。

この相反する2つの原理や要素から構成される二元論で、私たちは判断しようとしますが、実際には2つの概念の間が、私たちの本質的なポジションです。過去でも未来でもないその中間(今)、善でも悪でもないその中間、男でも女でもないその中間、正しいでも間違っているでもないその中間、明日でも昨日でもない「今ここ」が私たちそれぞれが「在る」ポジションです。

(3) "'Siyā aññenapi pariyāyena sammā dvayatānupassanā'ti, 
だろう 他の人々が・もし 理由を 2種類の・随観 と
iti ce, bhikkhave, pucchitāro assu; 
どのように そして 比丘たちよ 問われた 実に
'siyā’tissu vacanīyā. 
だろう・君は・実に 答えるべき
Kathañca siyā? 
方法を・この だろう

Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ avijjāpaccayāti, 
それは 何でも 苦しみは 存在 すべて 無明・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Avijjāya tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
無明を どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 存在
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ 2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

3. そして比丘たちよ、2種類の観察方法について、「では、どうすればいいのか?」と、もし質問する人々がいたならば、君たちはこう答えるべきです。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては無明が原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、無明を脱して、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Avijjā(アヴィッジャー)無明無智、「智慧が現れていない、真理に暗い」という意味です。

人間はデフォルトでは全員が、無知で無明です。無知&無明で生まれ出て、体験を重ねることで情報をインプットし、知識や知恵を獲得していきます。しかし智慧(真理)は情報ではありません。智慧は、人から教えられて学ぶものではなく、各人それぞれに備わった本来の力であり、経験を通して失敗や痛みを味わう中で、それに気づくことで智慧が現れます。真理(智慧)は、知識や知恵ではなく、人智を超えた叡智です。

SN-3-12-734

"Jātimaraṇasaṃsāraṃ, 
生・死・輪廻に
ye vajanti punappunaṃ;
彼らは 行く 再び・再び
Itthabhāvaññathābhāvaṃ, 
ここに・状態から・他の・状態に
avijjāyeva sā gati.
無明により・のみ それ 行方

生と死の輪廻を
彼らは繰り返す。
この世での存在から
他の世での存在へと
無明だからこそ行先がある。 

SN-3-12-735

"Avijjā hāyaṃ mahāmoho, 
無明 必ず・これ 大きな・無知
yenidaṃ saṃsitaṃ ciraṃ;
それにより 輪廻 長い間
Vijjāgatā ca ye sattā, 
智慧・至人 しかし 彼らは 存在
na te gacchanti punabbhava"nti.
ない 彼らは 行く 再び・存在に・と

大いなる無知が
無明であり
それによって長い間
輪廻する。
しかし智慧に至った人々は
生まれ変わることはない。

解説

不健全(akusala アクサラ)な波動の精神作用は、全部で14種類ありますが、その中で無智に属する精神作用は4つあります。無知(moha)・罪を恥ない(ahirika)・罪を怖れない(anottappa)・落ち着きない(uddhacca)の4つです。

無知(moha)は、物事の真の側面に気づくことができない、善悪の判断や思慮分別ができない未熟な精神作用です。この無知から思い違いや妄想が生じ、責めたり怒ったりします。

(4) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう

Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ saṅkhārapaccayāti, 
それは 何でも 苦しみは 存在 すべて 反応・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Saṅkhārānaṃ tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
反応することを どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 存在
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ 2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

4.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては反応が原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、反応することをやめて、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Saṅkhāra(サンカーラ)とは、内外の刺激に対して心が反応することです。習慣的な動作、過去の経験によって条件付けられた行為です。

人助けはよいことだ」と思っている人は、他人から何かを頼まれるとつい引き受けてしまいますが、これも upadhi 制約に基づいた saṅkhāra 反応です。引き受ければ引き受けるほど、反作用の要素である他者からの依頼も増えます。そのうちに「なんでこれくらい自分でやらないの?」といった不平が生じます。苦しみの発生です。宇宙的には人を助けなくてもいいのです。人助けが「善い」とか「悪い」とか判断して反応することをやめればいいのです。

SN-3-12-736

"Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti, 
それが 何でも 苦が 発生
sabbaṃ saṅkhārapaccayā;
すべてが 反応の縁による
Saṅkhārānaṃ nirodhena, 
反応することの 制止によって
natthi dukkhassa sambhavo.
ない 苦の 発生は

それが何であれ
苦しみが発生するのは
すべては反応が原因である。
反応しなければ
苦しみも発生しない。

SN-3-12-737

"Etamādīnavaṃ ñatvā, 
これを・不利益と 知り
dukkhaṃ saṅkhārapaccayā;
苦が 反応の・縁によると
Sabbasaṅkhārasamathā, 
すべての・反応の・停止によって
saññānaṃ uparodhanā;
識別が 破壊される
Evaṃ dukkhakkhayo hoti, 
このように 苦が・尽きる こと
etaṃ ñatvā yathātathaṃ.
これを 知り 通りに・真実の

苦しみの原因が反応であると
これが災いになると理解して
すべての反応をやめることで
識別が破壊される。
このように苦しみが尽きることを
真実のままに理解しなさい。

解説

Saññā(サンニャー)識別」は、外部からの刺激を過去の記憶データ(情報や価値基準)に照合して区別判断する精神作用です。リンゴを見た時、視覚が「色形」を感受する作用が vedanā(感覚)、その色形を「=赤、=果物のリンゴ」と区別判断する作用が saññā(識別)です。これによって「赤いリンゴ」と認識する作用 viññāṇa(意識)が生じます。

SN-3-12-738

"Sammaddasā vedaguno, 
正しく・見る 智慧の達人は
sammadaññāya paṇḍitā;
正しく・了知する 賢者は
Abhibhuyya mārasaṃyogaṃ, 
克服して マーラの・縛りを
na gacchanti punabbhava"nti.
ない 行く 再び存在に・と

智慧を得た人は正しく見て
賢者は正しく理解する。
マーラの縛りを克服して
生まれ変わることはない。

(5) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう
Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ viññāṇapaccayāti, 
それは 何でも 苦しみは 存在 すべて 意識・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Viññāṇassa tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
意識によって どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 存在
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ 2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

5. 「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略…

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては意識があるから発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、意識がなければ、止めてなくなれば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Viññāṇa(ヴィンニャーナ)は意識認識作用です。6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)で感受vedanā)した情報を識別作用saññā)を通して、情報を〇〇と認識する精神作用意識です。認識作用意識です。

は身体中に生じます。指先が氷に触れると「冷たい(痛い)」と指先に意識が生じます。熱い温泉に足を入れると「アッチー!(痛い)」と足に意識が生じます。意識は接触した場所で生じます

SN-3-12-739

"Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti, 
それが 何でも 苦が 発生
sabbaṃ viññāṇapaccayā;
すべてが 意識の縁による
Viññāṇassa nirodhena, 
意識することの 制止によって
natthi dukkhassa sambhavo.
ない 苦の 発生は

それが何であれ
苦しみが発生するのは
すべては意識が原因である。
意識がなければ
苦しみも発生しない。

解説

当たり前ですが、私たちは「意識がある」場合に生きていると言えますが、「意識がない」場合も生きています。寝ている時です。しかし、寝ている時にも意識は当然あります。自覚できる意識がないだけです。寝ている間も苦しみを回避するために呼吸したり、寝返りをうったり、全身が無意識に反応を続けています。

SN-3-12-740

"Etamādīnavaṃ ñatvā, 
これを・不利益と 知って
dukkhaṃ viññāṇapaccayā;
苦しみを 意識の縁による
Viññāṇūpasamā bhikkhu, 
意識の停止 比丘
nicchāto parinibbuto"ti.
無欲の 完全・涅槃に・と

苦しみは意識から生じている
これが災いになると理解して
比丘は意識を停止して
無欲となり涅槃に至る。

解説

私たちは学校や社会を通して「正しさ(価値観)」を学びます。「善い行い」と「悪い行い」を学ぶうちに、よい子になって他者から褒められたい、認められたいと思うようになります。満足感が得られるからです。この時、自分の意識は自分の内側よりも外に向かっています。自分がしたいことよりも、他者からの評価を意識している状態です。

人を助けよう」と思った時、その動機は何ですか? 「人助け=善いこと」だと判断したからであれば、それは純粋な動機ではありません。比較判断です。その方が都合がいいと思ってした行動は、うまくいかなかった場合には都合が悪くなるので、どうしても結果が気になるのです。

ただそうしたいからする」純粋な欲求に従って行動する場合には、苦しみは生じません。この時に善も悪もないからです。純粋な動機は、自分の内から湧き上がったものなので、善いと思ってした行為ではないので、悪い結果も生じようがないのです。だから怖れる結果もないのです。

人を助ける」のは善いことだと学んだ人が、善いことだからと人を助けるようになると、人を助けない人(悪い人)が気になって裁きたくなります。苛立ちが生じて苦しみが発生します。これは意識外と内とで葛藤が生じている状態です。

この時、他者が自分の外に存在していると思っている限り、人を変えることはできません。他者は自分の認識の現れで、自分の内側に存在しているからです。困った人がいるのではなく、自分の心に「困った人」という認識があるだけです。自分の意識(認識作用)を変えれば、自分の認識も瞬時に変わり、他者(のイメージ)も変わります。「助けても助けなくても、どっちでもいい」と、自分の意識が中間のポジションになると、人を助けない人=困った人ではなくなり、人助けしない人にイラつくこともなくなるのです。

(6) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう
Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ phassapaccayāti, 
それは 何でも 苦しみは 存在 すべて 接触・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Phassassa tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
接触によって どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 存在
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ 2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

6.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては接触が原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、接触を避けて、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Phassa(パッサ)とは接触です。6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)は常に外部の対象に接触しています。目は色形に、耳は音に、鼻は匂いに、舌は味に、身体は物質に、心は現象(心に浮かぶ表象)に接触して、vedanā(感受)しています。この時、すべての刺激を認識するわけではなく、 Saññā が判断を加えて、Viññāṇa(意識)が生じた場合にだけ認識します。Vedanā が感受しても意識がなければ、認識されません。

例えば、目の前でお湯が沸騰していても、ぼんやり考え事をしていて気づかないことがありますよね。その場合、目にはお湯が沸騰している様子が感受されていても、意識がそこにないので、認識しないのです。そこで、ケトルのピーッという沸騰音が耳に入って、ハッとして気づいたなら、音刺激を感受して意識(現象)から(音)→目(色形)に移り、湯の沸騰を認識することになります。

意識(心)は常に1箇所にだけ生じるのです。あれこれと同時進行しているようでも、常に1箇所を高速で行き来しているのです。

SN-3-12-741

"Tesaṃ phassaparetānaṃ, 
彼らは 接触・負けたために
bhavasotānusārinaṃ;
存在・流れ・従う・放浪者ために
Kummaggapaṭipannānaṃ, 
邪道・行者ために
ārā saṃyojanakkhayo.
遠い 束縛・滅尽は

接触に負けた人には
生存本能に従う人には
誤った道を進む人には
束縛の滅尽はほど遠い。

解説

接触に負けるとは、どういう意味でしょう? 人は常に快楽(喜び・楽しみ)の感覚刺激を追い求め、それに振り回されて苦しんでいます。私たちが何かを見たり聞いたりする時、6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)に対象物(色声香味触情)が接触すると、瞬間的に感覚(快・不快・どちらでもない)が生じます。

意識)は根拠なく対象に好感を抱いて「自分のものにしてもっと楽しみたい」というが生じたり、意識)が根拠なく嫌悪感を抱いて「自分の喜びの邪魔」という怒りが生じます。どちらもその状態が延々に続くことはない=思い通りにはならないので、苦しみとなり意識が束縛されます。

SN-3-12-742

"Ye ca phassaṃ pariññāya, 
人は しかし 接触を 了知して
aññāyupasame ratā;
悟り・寂静 楽しむ
Te ve phassābhisamayā, 
彼らは 実に 接触を・超えた時
nicchātā parinibbutā"ti.
無欲 完全・涅槃 と

しかし接触を完全に理解し
寂静を悟って楽しむ人は
まさに接触を停止しているので
無欲となり、涅槃に至る。

解説

6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)に対象物(色声香味触情)が接触すると、瞬間的に感覚(快・不快・どちらでもない)が生じますが、同時に過去の記憶とすり合わせて判断し、これによって情報が意味に変わります。これが識別作用saññā サンニャー)です。行動するための意図や動機となります。

Saññā は無意識に瞬時に働く識別作用ですが、外から入った情報に、過去の記憶の概念データを加えて判断し、自分なりに意味付けして識別します。私たちが苦悩する対象物は、「あるもの」に勝手に好きや嫌いの主観を交えて、自分バージョンに心が捏造した「ないもの」なのです。それを「ある」と勘違いして、渇望したり嫌悪したりして、欲や怒りを作り出しています。

このスッタ集で語られていることは「Paṭicca-samuppāda縁起の法則とほぼ同じです。縁起の法則は「あらゆる存在は、何かに依ってこそ生じ起こるもの」であり、それが生命が輪廻し生まれ続ける原因であり、また、人の苦しみの原因である、という真理です。

Paṭicca-samuppāda」は、avijjā(無明)から始まり、saṅkhāra(反応)>viññāṇa(意識)の後に、nāmarūpa(心と身体)>saḷāyatana(6つの感覚器官)>phassa(接触)と続きますが、このスッタ集のブッダ の説明には「心身」と「6つの感覚器官」はありません。