第5章 彼方への道:2. ティッサ・メッテイヤの質問 1046〜1048

2. Tissametteyyamāṇavapucchā:ティッサ・メッテイヤ青年の質問

2番目の質問者は、ティッサ・メッテイヤ尊者です。このスッタ集はスッタが3つだけです。

第4章8つのこと」の7番目のスッタ集に登場する尊者も「ティッサ・メッテイヤ」です。

このスッタ集の1047のスッタでブッダは、涅槃に到達した修行者の条件として、最初に「性欲に対する禁欲」を挙げています。第4章「ティッサ・メッテイヤ」も、性欲についてのスッタ集で、テーマが同じです。他のスッタ集では性欲について言及していないので、これを根拠に同一人物なのではと考えています。

SN-5-2-1046

"Kodha santusito loke,
誰が・ここ 満足した者は この世で
(iccāyasmā tissametteyyo)
と・尊者 ティッサメッテイヤは
Kassa no santi iñjitā;
誰に ない 寂静 動揺する
Ko ubhantamabhiññāya,
誰 両方・極端・精通して
majjhe mantā na lippati;
中立も 考慮して ない 汚されて
Kaṃ brūsi mahāpurisoti,
誰を 説くのですか 偉大な人・と
ko idha sibbinimaccagā".
誰 ここで 執着・死ぬべき人を・超えて行く

尊者ティッサ・メッテイヤ:
この世に満足しているのは
どんな人ですか?
心が揺れない穏やかな人は
どんな人ですか?
両極端を知り尽くし
中立も考慮して
穢れのない人は
どんな人ですか?
あなたはどんな人を
偉大な人と呼ぶのですか?
この世で執着を
死を超えて行くのは
どんな人ですか?

解説

ubhanta両極端とは、好き嫌い・苦楽・善悪のような相対的な判断のことです。人の心は常にこのどちらかに揺れ動いていますが、これが両極端に傾くと苦しみとなります。

majjha中立は、2つの意味があります。1つは「どちらでもない=無関心」、もう1つはバランスをとって中間を保つ「中道」です。

sibbinimaccagā = sibbanī + macca + gā: sibbanī は本来、「刺繍を縫いつける」という意味です。「心に欲や嫌悪を刻み付ける」こと「執着」と解釈しました。macca は「死ぬべき人」のことで、輪廻のサイクル内の人と解釈しました。 は「行く」という意味です。

SN-5-2-1047

"Kāmesu brahmacariyavā, 
欲望において 禁欲を実践して
(metteyyāti bhagavā)
メッテイヤよ ブッダは
Vītataṇho sadā sato;
離れ・渇望を 常に 気づいて
Saṅkhāya nibbuto bhikkhu,
理解して 安らぎに達した 修行者は
tassa no santi iñjitā.
彼に ない 寂静 動揺は

ブッダ:
メッテイヤよ、
快楽を避けて禁欲を実践し
常に気づきをもって
渇望を離れなさい。
理解によって涅槃に
到達した修行者は
心が動揺することなく
寂静である。

解説

メッテイヤは5つの質問をしましたが、その2番目「心が揺れない穏やかな人はどんな人ですか?」に対する答えです。

心が揺れない穏やかな人とは、①禁欲を実践し、②常に気づきを持ち、③渇望を離れ、④智慧の理解によって、涅槃に到達した修行者=アラハンです。

憶測ですが、メッテイヤがブッダに出会ったのは、これが初めてだと思うので、第4章の問答は、このブッダの言葉を受けて、性欲を禁欲すべき理由について、さらに尋ねたのではないかと思います。

SN-5-2-1048

"So ubhantamabhiññāya,
彼は 両方・極端・精通して
majjhe mantā na lippati;
中立も 考慮して ない 汚されて
Taṃ brūmi mahāpurisoti,
彼を 説く・私は 偉大な人
so idha sibbinimaccagā"ti.
彼は ここに 執着・死ぬべき人を・超えて行く と

ブッダ:
彼は両極端を知り尽くし
中立にも固執せず
穢れがない。
そんな人を私は
偉大な人と呼ぶ。
この世で執着を
死を克服して行った人だ。

このようにブッダは言いました。

解説

メッテイヤの質問の3、4、5番目に対する答えです。ブッダは、ティッサ・メッテイヤの言葉をそのまま返しているだけなのに、ちゃんとした答えにしています。「彼」とは、涅槃に至った修行者のことです。

Tissametteyyamāṇavapucchā dutiyā niṭṭhitā.
ティッサ・メッテイヤ・青年・質問 2番目 終わり

ティッサ・メッテイヤ青年の質問 終わり