第1章 蛇:5. 鍛冶屋のチュンダ 83〜90

5. Cundasuttaṃ チュンダのスッタ集

第1章「蛇」の5番目のスッタ集は「チュンダのスッタ集」です。ブッダは鍛冶屋であるチュンダに問われ、4種類の出家者について説明します。

なお、ブッダが死ぬ原因となった最後の食事を施した鍛冶屋のチュンダとは、別人であるという説がありますが、事実はわかりません。

SN1-5-83

‘‘Pucchāmi muniṃ pahūtapaññaṃ,
質問する 賢人 多くの知恵がある
(iti cundo kammāraputto)
と チュンダ 鍛冶屋は 
Buddhaṃ dhammassāmiṃ vītataṇhaṃ;
覚者 ダンマの主 欲も渇望もなく
Dvipaduttamaṃ sārathīnaṃ pavaraṃ,
二足・最上の 運転手 最も優れた
kati loke samaṇā tadiṅgha brūhi’’.
どれだけ 世界 出家者 それを・どうか 言う

智慧に満ちた賢人にお尋ねします、
と鍛冶屋のチュンダは言う。
欲も渇望もない
ダンマの主である覚者
二足歩行の最高者
最も優れた指導者
この世にどんな出家者がいるのか
どうか教えてください

解説

チュンダ はなぜ、このような質問をブッダにしたのでしょう。

SN1-5-84

‘‘Caturo samaṇā na pañcamatthi, 
4 出家者 ない 5・存在
(cundāti bhagavā)
チュンダよ とブッダ
Te te āvikaromi sakkhipuṭṭho;
それ あなたに 説明する 直接・質問
Maggajino maggadesako ca,
道・勝者 道・説く者 と
magge jīvati yo ca maggadūsī’’.
道を 生きる 者 と 道・壊す者 

チュンダよ
出家者は4種類いる
5番目はいない、
とブッダは言う。
直接尋ねられたので
あなたにそれを説明しよう
道を達成した者
道を説く者
道を生きる者
そして道を乱す者だ。

解説

道とはダンマの道であり、悟りへの道です。わざわざ「5番目はいない」と言ったのは、カースト制度が4階級あり、アウトカーストとしてカースト外の人々を「panchamas(5番目)」と呼んだことへの皮肉ではないかと思います。

SN1-5-85

‘‘Kaṃ maggajinaṃ vadanti buddhā, 
誰を 道・勝者 言う 覚者は
(iti cundo kammāraputto)
と チュンダ 鍛冶屋は
Maggakkhāyī kathaṃ atulyo hoti;
正しい道を示す者 なぜ 無比の 存在
Magge jīvati me brūhi puṭṭho,
道 生きる 私に 述べて 尋ねる 
atha me āvikarohi maggadūsiṃ’’.
さらに 私に 明示して 道・壊す者

覚者たちは誰を
道の達成者と呼ぶのですか、
と鍛冶屋のチュンダは言う。
正しい道を示す者は
なぜ比類なき存在なのですか?
また、道を生きるとは
どういうことか教えてください
そして道を乱す者について
私に明らかにしてください。

SN1-5-86

‘‘Yo tiṇṇakathaṃkatho visallo, 
人を 超えた・疑念 苦から解放
nibbānābhirato anānugiddho;
涅槃・喜び 貪欲のない者
Lokassa sadevakassa netā,
世間の 天界を含めて 導者
tādiṃ maggajinaṃ vadanti buddhā.
そのように 道・勝者 語る 覚者

疑いを克服し
苦しみから解放され
涅槃を喜び、欲がなく
天界と人の世の指導者である
そのような者を覚者たちは
道の達成者と呼ぶ。

解説

道の達成者は、苦しみから解放され、涅槃を喜び、欲がないのですから、涅槃を達成したアラハンのことだと思います。涅槃を実現した覚者、と言う考え方もできますが、実現した覚者であれば現存しないはずなので、チュンダの質問の答えから外れます。

天界も人間界と同様に欲のある存在界です。人間よりは快楽の多い恵まれた界ですが、欲があるのですから、天界の存在は涅槃に至っていません。次に生まれ変わる際にはどうなるかわかりません。覚者の指導が有効だということです。

SN1-5-87

‘‘Paramaṃ paramanti yodha ñatvā, 
最高を 最高だと 戦士 知った
akkhāti vibhajate idheva dhammaṃ;
告げる 判別して ここに ダンマを
Taṃ kaṅkhachidaṃ muniṃ anejaṃ,
それは 疑い・絶った 賢人 不動の
dutiyaṃ bhikkhunamāhu maggadesiṃ.
第2の 修行僧たち 道・説く者

この世で最高(涅槃)を
最高と知っている者は
ここでダンマを解説し、説明する
疑いを絶って心を平静に保つ賢人
これが2番目の出家者であり
道を説く者である。

解説

2番目は、道を説くことができる出家者ですが、おそらくアラハンより下の悟りの段階に至った人のことではないかと思います。悟りの第1段階であるソータパンナは疑いが消え、第3段階のアナーガーミーでは心が一切動揺しなくなります。

SN1-5-88

‘‘Yo dhammapade sudesite, 
人 ダンマ・歩む よく説かれた
magge jīvati saññato satīmā;
道に 生きる 抑制され 気づき
Anavajjapadāni sevamāno,
無罪の・歩み 付き合い
tatiyaṃ bhikkhunamāhu maggajīviṃ.
第3に 出家者 道・生きる

よく説かれたダンマに沿った
道を生きている人は
抑制され気づきをもって
過ちを犯すことのなく歩む
これが3番目の出家者であり
道を生きる者である。

解説

dhammapada:ダンマパダ。ダンマはブッダの教え(自然の法則・真理)のこと、パダは、足・歩という意味です。道を生きる人は、ダンマの道を歩む人であり、悟りへの道を生きている人のことです。

SN1-5-89

‘‘Chadanaṃ katvāna subbatānaṃ, 
覆い(屋根) 作って 従順・弱者
pakkhandī kuladūsako pagabbho;
傲慢 厄介者 無謀
Māyāvī asaññato palāpo,
偽善者 自由奔放 くだらない話 
patirūpena caraṃ sa maggadūsī.
ふさわしい 行いつつある 彼は 道・壊す

従順で善人のふりをして
傲慢、厄介者、図々しい
偽善者、自由奔放
くだらない話をする
そんな行為をしつつある者は
道を乱す者だ。

解説

道を乱す者とは、戒律を破り、悪行を平気で行う人々で、残念ながらブッダと行動を共にする出家者の中にも、そのような人がいたということです。

kuladūsaka:家族を堕落させる厄介者。家族の愛情につけ込み、ダンマと戒律に生きる人々から家族の信頼を遠ざける僧侶のことです。

SN1-5-90

‘‘Ete ca paṭivijjhi yo gahaṭṭho, 
そんな と 見抜いた 人を 在家者は
sutavā ariyasāvako sapañño;
聞いて 聖なる弟子は 智慧者は
Sabbe netādisāti ñatvā,
すべてが ない・そのような者 理解した
iti disvā na hāpeti tassa saddhā;
このように 見る ない 失う 彼の 信用 
Kathaṃ hi duṭṭhena asampaduṭṭhaṃ,
どうして 一体 堕落した者 否・堕落した者
suddhaṃ asuddhena samaṃ kareyyā’’ti.
純粋な者 否・純粋な者 同じく 行動する と 

これを聞いて
智慧があり聖なる弟子であり
そんな者を見抜いた在家者は
そんな人ばかりではないと理解した。
だからといって
信用は失われはしない。
一体どうして
堕落した者と堕落していない者
純粋な者と不純な者が
同じように行動する、と。

解説

智慧のある聖なる弟子である在家者とは、チュンダのことです。チュンダはブッダと共に行動する出家修行者の中に、堕落した不純な出家修行者を見つけたのでしょう。だからブッダに、修行者について遠回しに尋ねたのです。ブッダにはすべてお見通しなので、チュンダのことを「見抜いた在家者」と呼んだのではないでしょうか。

「堕落した者と堕落していない者、純粋な者を不純な者が同じように行動する、と」の部分は、解釈が難しい部分ですが、「堕落した者が純粋な者に変わるかもしれないし、純粋な者が不純な行動をするかもしれない、すべては無常なのだから、ずっと同じように行動するとは言えないんじゃないか、チュンダよ」としました。

4番目の出家者のようにはならないと、誰も言えないのです。

Cundasuttaṃ pañcamaṃ niṭṭhitaṃ.
チュンダのスッタ集 5つ目の 終わり

5. チュンダのスッタ集 終わり