第3章 大きな章:3. 善い話し方 452〜456

3. Subhāsitasuttaṃ 善い話し方

このスッタ集のテーマは、subhāsitasu(善く)+bhāsita(説かれた)です。本サイトでは「い話し方」としてみました。
 
善い話し方の特徴をブッダが語り、それにインスピレーションを得た長老ヴァンギーサが、即興詩を唱えたものです。「前文+5スッタ+散文」で構成され、第3章では最も短いスッタス集になります。

前文

Evaṃ me sutaṃ – 
このように 私は 聞きました
eka samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. 
ある 集会で 世尊は サーヴァッティに 住する ジェータ林の アナータピンディカ 園内
Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi – 
そこ で 世尊は 比丘たちに 呼びかけた 
"bhikkhavo"ti. 
比丘たちよ と
"Bhadante"ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. 
尊師よ と 彼らは 比丘たち 世尊に 同意した
Bhagavā etadavoca –
世尊は これ・言った
"Catūhi, bhikkhave, 
4つ 比丘たちよ
aṅgehi samannāgatā vācā subhāsitā hoti, 
部分を 備えた 語が 善・説かれた ある
na dubbhāsitā, 
ない 悪・説かれた
anavajjā ca ananuvajjā ca viññūnaṃ. 
無罪 と ない・非難する と 識者
Katamehi catūhi? Idha, 
いずれか・実に 4つが ここに
bhikkhave, 
比丘たちよ
bhikkhu subhāsitaṃyeva bhāsati no dubbhāsitaṃ, 
比丘は 善・説かれた・のみ 語る あらず 悪・説かれた
dhammaṃyeva bhāsati no adhammaṃ, 
真理・のみ 語る あらず 非真理
piyaṃyeva bhāsati no appiyaṃ, 
好き・のみ 語る あらず ない・好き
saccaṃyeva bhāsati no alikaṃ. 
真実・のみ 語る あらず 虚偽
Imehi kho, bhikkhave, 
これらは 実に 比丘たちよ
catūhi aṅgehi samannāgatā vācā subhāsitā hoti, 
4つの 部分を 備えた 言葉 善・説かれた ある
no dubbhāsitā, 
あらず 悪・説かれた
anavajjā ca ananuvajjā ca viññūna’’nti. 
無罪 と ない・非難する と 識者 だと
Idamavoca bhagavā. 
これ・語った 世尊は
Idaṃ vatvāna sugato athāparaṃ etadavoca satthā –
ここで 語った 善・行った さらにまた これ・言葉 師は

このように 私は聞きました。
 
サーヴァッティのジャータ林苑にある祇園精舎に世尊が滞在していた時のことです。ある集会で世尊は、比丘たちに呼び掛けました。
 
「比丘たちよ」
「はい、尊師」と比丘たちは応じました。
世尊はこう語りました。
 
「比丘たちよ、賢者から非難されず欠点のない、悪い話し方ではない善い話し方には、4つの特徴が備わっている。この4つとは何か?」
 
「比丘たちよ、比丘は悪い話し方をせずに、善い話し方だけをする。真理から外れず、真理だけを語る。否定せず、肯定的なことだけを語る。嘘ではなく、真実だけ語る」
 
「比丘たちよ、これらがまさに、賢者から非難されず欠点のない、悪い話し方ではない、4つの特徴を備えた善い話し方である」と、世尊は言いました。
 
ここでさらに善逝者が、このような言葉も語りました。

解説

Su-bhāsitadu-bhāsita を対比させています。su-は「善く・好的・容易」という意味の接頭辞で、du-は「悪く・反発・困難」といった反対の意味になります。

Subhāsita(善い話し方)は、好感のもてる話し方、わかりやすい話し方、他者が共感・賛同する話し方です。逆に、Dubbhāsita(悪い話し方)は、反感を買う話し方・難しい話し方、他者が嫌がる話し方です。

ブッダが教える言葉に関する戒めは4つあり「嘘・悪口・暴言・噂話や無駄話」を口にしないことですが、ここでは言葉を善い観点から捉えていて、「他者が嫌がる話し方ではなく共感・賛同が得られる善い話し方」をすることについて語っています。

SN-3-3-452

"Subhāsitaṃ uttamamāhu santo, 
善・説かれた 最上・言う 善人たちは
dhammaṃ bhaṇe nādhammaṃ taṃ dutiyaṃ;
真理を 私は言う ない・非真理を それが  第2
Piyaṃ bhaṇe nāppiyaṃ taṃ tatiyaṃ, 
好きを 私は言う ない・否・好きを それが 第3
saccaṃ bhaṇe nālikaṃ taṃ catuttha"nti.
真実を 私は言う ない・虚言を それが 第4 と

善き人々は
善い話し方が1番だと言う。
2番目は、真理に外れず
真理を語ること。
3番目は、否定しないで
肯定的に語ること。
4番目は、嘘ではなく
真実を語ること。

解説

前文と内容が重複します。このスッタはブッダではなく、ブッダの説法を受けて善逝者(アラハン=例えば、サーリプッタのような高弟)が語ったのではないかと思います。

このスッタでは、善い話し方をするための4つを改めて列挙しています。
 
1. 共感・賛同が得られる善い話し方をする
2. 真理を語ること
3. 否定しないで肯定的に語ること
4. 嘘ではなく本当のことを語ること

散文

Atha kho āyasmā vaṅgīso
この 時に 長老の ヴァンギーサは
uṭṭhāyāsanā ekaṃsaṃ cīvaraṃ katvā 
立ち上がり 一方の肩に 衣を 為して
yena bhagavā tenañjaliṃ
そこから ブッダに 拝礼した
 paṇāmetvā bhagavantaṃ etadavoca – 
差し出した ブッダの この・言葉
"paṭibhāti maṃ bhagavā, 
現れた 私は 世尊よ
paṭibhāti maṃ sugatā"ti. 
現れた 私は 善逝者よ・と
"Paṭibhātu taṃ vaṅgīsā"ti 
現れたこと あなたは ヴァンギーサよ・と
bhagavā avoca. 
ブッダは 促した
Atha kho āyasmā vaṅgīso
この 時に 長老の ヴァンギーサは
bhagavantaṃ sammukhā sāruppāhi gāthāhi abhitthavi –
ブッダの 前で 適切な 偈を 唱えた

この時、肩に衣をかけた長老ヴァンギーサが立ち上がり、ブッダ に向かって拝礼して次の言葉をブッダに告げました。
 
「世尊よ、ひらめきました! 善逝者よ、ひらめきました!」
「ヴァンギーサよ、あなたのひらめきとは?」と、ブッダは促しました。
 
そこで長老ヴァンギーサはブッダの前で、ぴったりな即興詩を唱えました。

解説

長老ヴァンギーサは、ブッダの教える「善い話し方」からインスピレーションを受けて、即興詩が浮かんだようです。ヴァンギーサはこのように、ブッダの教えを自分なりに即興でまとめて詩にするのが得意でした。

SN-3-3-453

"Tameva vācaṃ bhāseyya, 
その・のみ 言葉を 語るなら
yāyattānaṃ na tāpaye;
それにより・自分を ない 苦しめるように
Pare ca na vihiṃseyya, 
他人を そして ない 傷つけるなら
sā ve vācā subhāsitā.
その 実に 言葉は よく説かれた

自分が不愉快にならない
言葉を話すだけでなく、
他者を傷つけないように
配慮した言葉であれば
それは実に善い話し方です。

解説

自分が不愉快にならないように話すだけでなく、相手にも不愉快な気持ちを与えないよう心掛けることが、善い話し方の基本です。

自分が言われたら不愉快になるような否定的な言葉は、当然、相手を嫌な気持ちにさせます。たとえ事実であっても、相手を傷つけたり、不安にさせたり、怒らせたり、やる気をなくさせたり、萎縮させたりします。 言葉には力があり、否定的な言葉や攻撃的な表現は、相手の拒絶や反発を引き出すだけです。結局、意思疎通を妨げて、人間関係を損なうこともあるのです。損にはなっても、得になることはありません。

逆に肯定的な言葉遣いは、他者を尊重し、相手の気持ちに寄り添う態度です。相手の気分やモチベーションを上げる力があります。相手が嬉しさや満足感を感じることで、協力的な関係を築くことができます。相手を傷つけないようにする、相手を理解しようとする姿勢は、他者との信頼関係を築く上でとても重要です。

ヴァンギーサは口が達者だったので、出家直後は、大人しい修行者をバカにすることもあったようです。しかしその都度、自分の心が乱れることに気づき、ブッダの教えを振り返って、それをこうした詩にして、自問自答することで乗り越えたそうです。

SN-3-3-454

"Piyavācameva bhāseyya, 
好まれる言葉・のみ 語るように
yā vācā paṭinanditā;
その 言葉は 喜ばれる
Yaṃ anādāya pāpāni, 
それが ない・取って 罪を
paresaṃ bhāsate piyaṃ.
他の人々に 語る 好まれるを

相手が喜ぶような
肯定的な言葉だけ話すように。
他者に好まれることを語って
それが罪になることはない。

解説

Piya(ピヤ)は「好む=受け入れる」という意味です。ダンマパダ16章にもあるように、Piya は「大切に思うあまり、好きなものに対する執着が生まれ、苦しみの原因となる」として、ブッダの教えでは肯定的に用いることはあまりありません。しかしここでは、Piyavāca好む言葉相手が喜ぶ言葉です。
 
相手が喜ぶ言葉」といっても、お世辞ではありません。お世辞は、心にもないことを愛想のために言う言葉で、口先だけの褒め言葉です。
 
相手が受け入れやすい言葉=肯定的な言葉です。相手を積極的に認める肯定的な言葉は、話す相手に好印象を与えます。「そんな企画じゃダメでしょ」と言われるよりも、「その企画、少し変更すると、いい方向にいくかもしれないですね」と相手を肯定する言葉をかければ、相手は、自分を認めてもらえたことに喜びを感じ、前向きに協力的になるものです。
 
また、直接ではなく間接的に自分に対する肯定的な言葉(褒めるなど)を聞いたなら、嬉しくなって気分が上がり、自分を認めてもらえたと自信がつき、心に深く感じ入るものです。嫌いな相手であっても、急に親近感が持てたりします。
 
肯定的な言葉は、相手に関心をもち、生命として認めている証拠です。長老ヴァンギーザの言う通り、他者から嫌がられることはありません。

SN-3-3-455

"Saccaṃ ve amatā vācā, 
真実を 実に 不死の 言葉
esa dhammo sanantano;
これは 真理は 永久に
Sacce atthe ca dhamme ca, 
真実で 道理で と 真理で と
āhu santo patiṭṭhitā.
言う 人は 確立された

真理は永久に変わらない
真実の言葉である。
真実・道理・真理を
見極めた善き人は言う。

解説

Sacca(サッチャ)真実嘘偽りのない本当のこと事実(fact)が、実際に起こったありのままの事象であるのに対して、真実には各自の解釈=主観が加わっているので、人によって変わります。しかし、アラハンであれば、真実=事実に一致するはずです。洞察瞑想は、自分に起こる事象をありのままに認識するように、心を制御する訓練だからです。
 
Attha(アッタ)道理人として正しい道・正義道理は時と場所によって、正しいとされることが変わります。人として道理を外れてはいけませんが、道理は変えることができます
 
Dhamma(ダンマ)真理宇宙・自然の法則。「地球は丸い、太陽は東から登って西に沈む」など、誰も否定できず、いつどんなときでも変わることのない、不変の原理です。真理を変えることも、真理から外れて生きることもできません。
 
真実(本当のこと)は人によって変わり、道理(正しいこと)は時間と場所によって変わり、真理(宇宙の法則)は常に不変です。このスッタでヴァンギーサは「不変の真実(変わらない本当のこと)」だとしています。なるほど!ですね。

日本語では「真理は、真実の道理(本当の正しいこと)」とも言いますが、何が正しいかは国や時代によって簡単に変わります。いま常識だと思っていることも、明日、ミサイルが撃ち込まれれば、どうなるかは誰にもわかりません。常にあらゆるものは変化しています。しかし真理だけは、誰が見てもいつの時代でも永久に変わりません。だからこそ拠り所にできるのです。

論理的・合理的な言葉を聞いた時、理屈では正しいと理解していても、心の中で、「あれ? なんか変だな、どこか違うな」と感じる時がありますよね。この感覚こそが、人間が真理に従って生きるために必要な感覚です。 この真理を頭で理解するのではなく、感覚として受け止めることが大切です。わざわざ理由を説明しなくても、理にかなったことを「いいな」と感じる感覚、間違っていることを「嫌だな」と感じる感覚です。この真理を感じ取る感覚が「」なのです。
 
論理は所詮、人が考えた偏見です。道理と同じく時代や社会によって正しいとされたり、正しくないとされたり、人の快・不快の感覚に依存して、簡単に変わるものです。常に真理がまずあり、道理は後からついてくるものなのです。

SN-3-3-456

"Yaṃ buddho bhāsati vācaṃ, 
その ブッダが 語る 言葉が
khemaṃ nibbānapattiyā;
安穏な 涅槃を・得るために
Dukkhassantakiriyāya, 
苦しみの・停止・為すために
sā ve vācānamuttamā"ti.
それ 実に 言葉・最上の と

涅槃を得るために
苦しみを止めるために
ブッダが語る穏やかな言葉が
まさにその最上の言葉である、と。

解説

ブッダが語る、涅槃を得るための教えの言葉、苦しみを止めるための教えの言葉が、まさに何よりも最高の言葉だ、ということです。その通りですね。

Subhāsitasuttaṃ tatiyaṃ niṭṭhitaṃ.
善・説かれた・スッタ集 3番目 終わり

3. 善い話し方 終わり

まとめ

相手の気持ちを考える作業は、相手を通して、自分の心を見つめる貴重な時間です。 言葉を発する際には、感情のままに発するのではなく、相手の感情や気持ちを想像してみる。 相手と意見が異なる場合も、いきなり否定するのではなく、相手が求めていることや、相手の気持ちを読み取って発言することで、誤解や対立を避け、建設的で前向きな対話が可能になります。

発言を急ぐ必要はありません。 大切なのは、相手を理解する意欲を持つことです。そのためには、一時的な感情に流されずに、冷静になることが必要です。 誰かに否定的な言葉を吐きたくなった時には、少し冷静になって、肯定的に言い換える言葉を考える。これも智慧が生じる=「Saññā が paññā に変わる」ということの1つではないかと思います。