第4章 8つのこと:4. 8つの純粋な心 794〜801

4. Suddhaṭṭhakasuttaṃ 8つの純粋な心のスッタ集

第4章「8つのこと」の4番目のスッタ集は、3番目とは逆に「suddha純粋な心・純真・清浄」がテーマです。

純粋な心とは、善い心ではありません。善いも悪いもないピュアな心です。

怒り・敵意・悪意・渇望・執着といった穢れや邪悪さがないのはもちろんですが、善も悪もないデフォルト状態の純粋な心は、愛と慈悲に満ちています。自分を傷つけることも、他人を傷つけることもありません。心の中の不純物を取り除くと、心には自然に愛と慈しみが生じます。それが本来の姿だからです。

このスッタ集では、心の清らかさや純粋さ、心の浄化について語っています。

SN-4-4-794

Passāmi suddhaṃ paramaṃ arogaṃ, 
見る・私は 純真を 最高の 無病者を
diṭṭhena saṃsuddhi narassa hoti;
見ることによって 自己の純粋は 人にとって ある
Evābhijānaṃ paramanti ñatvā, 
このように・認識し 最高と 知り
suddhānupassīti pacceti ñāṇaṃ.
純粋を・見る・と 了解する 知識だと

健全で純粋な
最上の人を見ることで
純粋な心がもたらされる。
このような認識により
純粋な人を見ることが
最高だと思っているなら
それは単なる知識と同じ。

解説

古代インドでは、ヴェーダの時代から、ある物や存在を見ると浄化されると信じられていました。現代でもヒンドゥー教では「ダルシャン(見ること)」と称して、聖人を見ること、そしてその足に触れることで徳を積む、という考え方があります。ブッダはこのスッタで、「見るだけでは、自分の心は浄化されない」と反論しています。

私たちは、純真で悪意の全くない人と一緒にいると、心が和むのも事実です。影響されて、人に優しくなったりします。これは、自分以外のものによって、自分が清らかになるということにもなる通じると思いますが、本質的な心の浄化ではありません。一時的に影響されたに過ぎません。悪人に会えば、同じように影響されて、「あの人もやってるのだから」と自分も悪いことをしてしまうものです。人間はこのように簡単に揺れ動く生き物なのです。

SN-4-4-795

Diṭṭhena ce suddhi narassa hoti, 
見ることで もし 純粋が 人に あるなら
ñāṇena vā so pajahāti dukkhaṃ;
知識によって あるいは 彼は 捨てるなら 苦しみを
Aññena so sujjhati sopadhīko, 
他により 彼は 浄化される 依存者は
diṭṭhī hi naṃ pāva tathā vadānaṃ.
持論を持つ人 実に 彼を 言う そのように 語る

もし見ることで
人が浄化されるなら
あるいは知識によって
苦しみを捨てられるなら
他者に依存することで
浄化されると語る人は
まさに偏見の持主。

SN-4-4-796

Na brāhmaṇo aññato suddhimāha, 
ない バラモンは 他には 純粋・言う
diṭṭhe sute sīlavate mute vā;
見ることで 聞いたことで 戒や儀式で 思考で あるいは
Puññe ca pāpe ca anūpalitto, 
功徳について と 悪について と 汚れのない者
attañjaho nayidha pakubbamāno.
自己・捨て ない・ここに 作る

見たものや聞いたもの
戒律やしきたり
あるいは思想によって
他から浄化がもたらされる
などとはバラモンは言わない。
善にも悪にも執着せず
穢れのない人はすべてを捨てて
因果をつくることもない。

解説

ここでのバラモンは、カーストにおけるバラモン階級のことではなく、ブッダが最高位のバラモンであると考える「アラハン」のことを指しています。sute:聞いたこと=ヴェーダなどの教義です。

SN-4-4-797

Purimaṃ pahāya aparaṃ sitāse, 
前を 捨てて その上に 依存する
ejānugā te na taranti saṅgaṃ;
動揺に従う 彼らは ない 超える 執着を
Te uggahāyanti nirassajanti, 
彼らは 取る 捨てる
kapīva sākhaṃ pamuñcaṃ gahāyaṃ.
猿のように 枝を 放す 捕える

以前の教義や師匠を捨て
もっといい教義や師匠を頼る。
自分の思いのままに揺れ動き
執着を超えることもなく
取っては捨てている
猿が枝を掴んでは放すように。

解説

Purimaṃ pahāya aparaṃ sitāseuñcati:「前のものを捨てて、その上のものに頼る」。前のもの、その上のものがなんであるかは明記されていませんが、他のスッタから「教義や師匠」と解釈しました。また、この様は「ある渇望を離れて、別の渇望に向かう」揺れ動く心の傾向と同じです。

SN-4-4-798

Sayaṃ samādāya vatāni jantu, 
自ら 受けて 誓戒を 人は
uccāvacaṃ gacchati saññasatto;
高低に 行く 思考に執着して
Vidvā ca vedehi samecca dhammaṃ, 
賢者は しかし 智慧により 習得する ダンマを
na uccāvacaṃ gacchati bhūripañño.
ない 高低に 行く 広い智慧の人は

自ら誓って戒を受ける人は
思い描く考えに縛られて
思い上がったり見下したりする。
しかしダンマを理解した賢者は
智慧によって上も下もない。

解説

「戒律を守る人は、自分を誇らしく思ったり、守れていない人を見下したり、自分が思い描く考えにこだわって、自分の心も他者の自由も縛っている」ということです。
 
uccāvaca:高低に。このスッタには2箇所で使われていますが、「思い上がったり見下したり」と「上下関係」としました。どちらも人間関係において自分と他者を比較する行為です。このとき、その真偽が問題なのではなく、自分と他者を比較することが問題なのです
 
Sañña(サンニャー・知覚=知る経験・思考)は、第4章「2. 8つの洞窟」にも出てきましたが、人が記憶を基に思い描く心象風景です。サンニャーは、生まれてから今日に至るまでの経験を基に、自分勝手に捏造する想像です。極々狭い範囲での、狭い見解でしかないのに、人はそれを価値のあるものだと思ってしまいます。常に他者と比較することで、その価値をさらに高めようとします。そうして、自分も他者も縛り付けているのです。
 
veda:「ヴェーダ」は、バラモン教やヒンドゥー教の聖典のことですが、ここでは「バラモン→アラハン」としたのと同様に、「ヴェーダ→智慧」と解釈しました。

SN-4-4-799

Sa sabbadhammesu visenibhūto, 
彼は すべての・物事について 対立しない
yaṃ kiñci diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā;
それが 何でも 見たり あるいは 聞いたり 考えたり あるいは
Tameva dassiṃ vivaṭaṃ carantaṃ, 
このように 見る者は 隠すことなく 行く
kenīdha lokasmi vikappayeyya.
何によって・この 世界に 分別するだろう

彼はすべてのものに
関して対立しない。
何を見ても、聞いても、考えても
ありのままに振る舞う人を
この世で何と捉えるだろうか

解説

純真で穢れのない人は、心がオープンです。このような人は、誰も捉えることができないのです。ちょっと悪い言い方をすれば「捉えどころのない人」です。「何を考えているのか分からない人」のことですが、「何も考えていない人=判断しない人」なのです。世間の常識では測ることのできない人です。

もし、心の中に怒り・敵意・悪意・渇望・執着といった不純な要素があれば、それは身体や言葉の否定的な行為につながります。不純な心は、何らかの不純な行為につながるのです。そうすると、自分だけでなく、他人にも害を与えることになります。

一方、心が純粋であれば、間違った行動をとることはできません。心を清めることで、言葉や身体を使って有害な行為をすることから脱することができるのです。

SN-4-4-800

Na kappayanti na purekkharonti, 
ない 認容・方法・目的 ない 尊敬する
accantasuddhīti na te vadanti;
絶対の清浄 ない 彼らは 語らない
Ādānaganthaṃ gathitaṃ visajja, 
執着・束縛を 結ぶ 捨てる
āsaṃ na kubbanti kuhiñci loke.
望み ない 行う どこにも 世界の

彼らはどんな偏見ももたず
何かを敬うこともなく
「究極の浄化だ」
と語ることもない
執着の結び目を切ったので
この世で何も願いがない。

解説

彼ら=純真な人、心を浄化した人、解脱した人だと思います。このような人は、この世が常に無常であることを完璧に理解しているので、何かに頼ったり期待することはありません。すべてが無常なのだから、あてにならないと気づいているからです。仮に究極の浄化を得たとしても、それさえ一瞬の後には変わってしまうのです。kappaya:明確な目的を持って意図的に作られたもの=偏見としました。

SN-4-4-801

Sīmātigo brāhmaṇo tassa natthi,
限界を超えた バラモンは 彼には 非存在
ñatvā va disvā va samuggahītaṃ;
知り あるいは 見て あるいは 取り上げた
Na rāgarāgī na virāgaratto, 
ない 貪り・貪る ない 離欲・染まる
tassīdha natthī paramuggahītanti.
彼には・ここに 非存在 最高・取り上げるものは

解脱したバラモンは
何も持たないし
何かを知ったり見たから
といって抱く感情もない。
いかなる欲にも
夢中にならず影響されず
この世のいかなるものも
最高として受け入れたりしない。

解説

ここでのバラモンも796と同様にアラハンのことです。Sīmātiga:限界を超えた=10の束縛悟りに必要な7つの要素を超えた=解脱と解釈しました。

知識によって浄化される者はなく、知識に傾倒する者は次から次へと師を渡り歩くが、賢者は情熱に導かれることなく、この世のいかなるものも最高として受け入れることはないのです。

Suddhaṭṭhakasuttaṃ catutthaṃ niṭṭhitaṃ.
純真・8つの・スッタ集 4番目 終わり

8つの純粋な心のスッタ集 終わり