第5章 彼方への道:15.モーガラージャの質問1122〜1125

15. Mogharājamāṇavapucchā モーガラージャ青年の質問

解説書によるとモーガラージャ尊者は、最初の質問者であるアジタの後と、ティッサ・メッテイヤ・スッタの後に、2度にわたってブッダに質問しました。しかしブッダは、彼がまだその段階にないことを知っていて、答えなかったそうです。

SN-5-15-1122

‘‘Dvāhaṃ sakkaṃ apucchissaṃ, 
2回 お釈迦様に 尋ねた  
(iccāyasmā mogharājā)
と尊者 モーガラージャは
Na me byākāsi cakkhumā;
ない 私に 為す 洞察力のあるお方は
Yāvatatiyañca devīsi, 
3回目には・しかし 神は
byākarotīti me sutaṃ.
為すと 私は 聞いた

モーガラージャ:
私はすでに2回
お釈迦様に質問しましたが
洞察力のあるお方は
お答えしませんでした。
しかし、天神様は3回目には答える
と私は聞いております。

解説

モーガラージャはブッダを「天神(デーヴァ)」と呼んでいますが、ブッダ(覚者・涅槃を得た人)は、神ではありません。涅槃は天国ではありません。

SN-5-15-1123

‘‘Ayaṃ loko paro loko, 
この 世は あの 世は
brahmaloko sadevako;
ブラフマー界 共に・天界
Diṭṭhiṃ te nābhijānāti, 
見解を あなたの ない・経験で知った
gotamassa yasassino.
ゴータマの 有名な

モーガラージャ:
この世でもあの世でも
ブラフマー界でも天界でも
有名なゴータマの
あなたが経験により知った見解を
人々は知りません。

SN-5-15-1124

‘‘Evaṃ abhikkantadassāviṃ, 
このような 優れた・見者に
atthi pañhena āgamaṃ; 
あり 質問 やって来た
Kathaṃ lokaṃ avekkhantaṃ, 
どのように この世を 観ずる
maccurājā na passati’’.
死神に ない 見られる

モーガラージャ:
このような卓越した見者に
私は質問があり
やって参りました。
この世をどのように見ている人が
死神に見つからないのでしょう?

解説

死神に見つからない=死なない=死んで生まれ変わらない=輪廻転生のサイクルから外れる=涅槃に至るためには、どうしたらいいのでしょう? という質問です。

SN-5-15-1125

‘‘Suññato lokaṃ avekkhassu, 
空だと 世間を 見なさい
mogharāja sadā sato;
モーガラージャよ 常に 気づき
Attānudiṭṭhiṃ ūhacca, 
得た・邪見を 除いて
evaṃ maccutaro siyā; 
このように 死を渡る あるだろう
Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ, 
このように この世を 観ずる者を
maccurājā na passatī’’ti.
死神は ない 見る と

ブッダ:
この世は空っぽだと見なさい。
モーガラージャよ、
常に気づきをもって
誤った考えを除くことで
死を克服するだろう。
このようにこの世を見る者は
死神には見つからない。

とブッダは言いました。

解説

suññatā)」とは、存在そのものがないわけではなく、あらゆる物事は変化していて、固定的な実体はないということです。

見る」という目の作用を例に考えてみます。

私たちは目に見えるものは「ある」と思っていますが、空気は目に見えません。空気は窒素や酸素の複数の気体の混合物ですが、目には認識されません。それは空気が無色透明で、色がないからです。

この世で私たちが「ある」と思っているものは、を通して感受することで認識できているものです。目を閉じれば、感受器である目が機能しないので見えなくなります。光源がなくなり真っ暗になれば、色刺激が機能しないので見えなくなります。また盲目であれば、視覚が機能していないので見えません。

つまり何かが「見える=ある」ためには、(感受器)・(刺激)・視覚(感覚)の3つの条件が必要です。

見えるもの=ある」「見えないもの=ない」の論理でいけば、この世のすべては目を閉じれば「ない」ということにもなります。だから、誰が見ても「ある」ものなど存在しないのです。人が見たものは、その人が感じたものであって1つの固定した真実ではない、ということです。

私たちが「見た・聞いた・嗅いだ・味わった・触れた・思った」ものは、あくまでも自分だけの感覚であって、普遍的な真実ではないのです。私たちは誰もが主観の世界に生きているのです。誰も「本当は何があるのか」知らないのです(ブッダは私たちよりは知っていると思いますが)。

あらゆるものごとは、各自の感覚を通して、心の中で仮に成立しているだけで、固定した実体はありません。これが「」だと私は理解しています(これも単なる主観です)。実際に何も存在しないのではなく、自分の世界観で「ある」と思っているものは「ない」という意味です。

しかし、この事実を知っただけでは、死を克服する(悟りを得る)ことはできません。

ピアノの弾き方(知識)を聞いただけでは、ピアノが弾けないのと同じです。実際に自分の指でピアノの鍵盤に触れてはじめて、ピアノを弾くことがはじまり、ピアノが弾けるようになるのです。これが智慧です。

同じような答えが、ダンマパダの13章「世界」170にもあります。170では「」の概念を、泡や蜃気楼としています。

SN-5-15-112

Mogharājamāṇavapucchā pannarasamā niṭṭhitā.
モーガラージャ・青年・質問 15番目 終わり

15. モーガラージャ青年の質問 終わり