第1章 蛇:2. 富裕層ダニヤ 18〜25

2.Dhaniyasuttaṃ ダニヤのスッタ集 ①

第1章「蛇」の2番目のスッタ集は「ダニヤのスッタ集」です。裕福な牛飼いダニヤの発言に対して、ブッダが答える対話形式のスッタ(法話)が17話あります。

この時代のインドでは牛は財産です。ダニヤは牛飼いといっても、3万頭の牛を所有する牧畜家であり資産家です。「牛」は貨幣の代わりでもある「富」の象徴であり、「雨」は神が降らせるもので人がコントロールできない「景気」を表しています。

ダニヤは世間の価値観で安泰を語りますが、対するブッダは覚者の生き方を語ります。一般人の生活の豊かさや安心感と、出家生活を極めた人の豊かさや安心感を対比させたスッタ集です。

SN1-2-18

‘‘Pakkodano duddhakhīrohamasmi,
調理した 搾る・乳を・私はある
(iti dhaniyo gopo)
と ダニヤ 牛飼いの
Anutīre mahiyā samānavāso;
岸辺に 大河の 共に住む
Channā kuṭi āhito gini,
覆われた 小屋 置かれた 火
atha ce patthayasī pavassa deva’’.
だから もし 望むならば 雨を降らせよ 天の神よ

食事をつくり、乳を搾った、
と牛飼いのダニヤは言う。
大河のほとりに家族と共に住み
小屋には屋根があり
火が焚かれている。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

ダニヤは、この時代としては裕福な人間です。食事に困らず、職があることが幸せの証だとダニヤは言っています。家族や使用人と住む住居もあり、その小屋はしっかりとした屋根で覆われ、火も焚かれています。ダニヤは成功していると満足し、たとえ神が大雨を降らせも、大きな川の岸辺に建てた小屋が流されることなどない、つまり経済危機がきても安泰なはずだとダニヤは豪語しています。

18〜29話は終わりの2行が全て同じで、「だから神よ、もし望むなら(いつでも)雨を降らせなさい」となっています。この時代、雨は自然現象ではなく、神が降らせるものとされていました。「私は準備万端だから、神様、いつでも雨を降らせてオッケーです」という意味です。

SN1-2-19

‘‘Akkodhano vigatakhilohamasmi, 
怒りのない心 欲を離れた・私は
(iti bhagavā)
と ブッダ
Anutīre mahiyekarattivāso;
岸辺に 一夜の住まい
Vivaṭā kuṭi nibbuto gini,
開眼した 小屋 煩悩がない 火
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

心に怒りがなく、欲を離れた、
とブッダは言う。
大河のほとりに一晩住み
小屋は開かれ
欲望の炎はない。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

対するブッダ は、食べることや仕事よりも、心の平穏、欲がないことが幸せの証としています。この世は変わり続けるのが常だから、ずっと変わらず安全な住まいなどない。今夜の住居も明日には洪水に流されるかもしれないのだから、一夜限りの住まいでしかない、ということです。

小屋は心であり、開いたとは、心が渇望、穢れ、無知によって覆われたり隠されたりしていないということです。欲望の炎は消されて何も欲しいものはない、つまり失うものを何も持たないから、何も心配することがない。だから神に、「雨を降らせたいならいつでもどうぞ」と言っているのです。

SN1-2-20

‘‘Andhakamakasā na vijjare, 
蠅・蚊 ない 見出す
(iti dhaniyo gopo)
Kacche rūḷhatiṇe caranti gāvo;
沼地で 成長した・草 移動 牛
Vuṭṭhimpi saheyyumāgataṃ,
雨にも 耐える・可能・行く 
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

ハエや蚊は見当たらない、
と牛飼いのダニヤは言う。
牛は草が茂った沼地に放牧したのだ
雨が降っても耐えていけるだろう。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

ダニヤが牛を放牧した沼地は、ハエや蚊のいない良い環境で、牛が食べる草も十分に茂っています。だから、たとえ神が大雨を降らせても、牛は耐えられるから大丈夫だと、ダニヤは自分の牧地を自慢しています。

SN1-2-21

‘‘Baddhāsi bhisī susaṅkhatā, 
しっかりした 筏 よく準備された
(iti bhagavā)
Tiṇṇo pāragato vineyya oghaṃ;
渡る 彼岸に至った 訓練して 激流を
Attho bhisiyā na vijjati,
望む 筏 ない 存在する 
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

しっかりした筏で
実によくできていた、
とブッダは言う。
訓練して激流を渡り
彼岸に至ったのだ
もはや筏は必要ない。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

向こう岸に渡るために役立った筏(いかだ)ですが、渡り終わった後には必要ありません。「この筏は実に役に立った。この筏のお陰で大河を渡ることができた。さあ、筏は岸辺に置いて、道を歩いていこう」と進んでいく正しいあり方です。

しかし、そこで新たな執着が生まれることがあります。「思い出の品だし、またいつか必要になるかもしれない」と、その筏を担いで陸路を歩いこうとするのです。筏は筏に過ぎず、筏は川を渡るための道具であって、とっておくものではないのです。

どんなものも必要な条件がなくなれば、捨て去るべきであるというのがブッダの教えです。ここでの彼岸は涅槃であり、筏はダンマです。ブッダの教えすらも、涅槃に到達すれば必要はなくなる、ということです。

SN1-2-22

‘‘Gopī mama assavā alolā, 
牛飼いの女 私の 夫に従う妻 欲のない
(iti dhaniyo gopo)
Dīgharattaṃ saṃvāsiyā manāpā;
長い間 一緒に住む 心を通じて
Tassā na suṇāmi kiñci pāpaṃ,
彼女について ない 聞く 何も 悪い 
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

私の妻は従順で欲がない、
と牛飼いのダニヤは言う。
長年一緒に仲良く暮らしてきて
彼女には悪いところはひとつもない。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

牧草地の次は、従順な良き妻がダニヤの幸せの拠り所です。

SN1-2-23

‘‘Cittaṃ mama assavaṃ vimuttaṃ, 
心 私の 従順 解脱した
(iti bhagavā)
Dīgharattaṃ paribhāvitaṃ sudantaṃ;
長い間 訓練され よく鍛えられた
Pāpaṃ pana me na vijjati,
悪い しかも 私に ない 存在 
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

私の心は解脱して従順だ、
とブッダは言う。
長年訓練され、よく鍛えられ
もはや私に悪意は存在しない。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

対するブッダは外に拠り所を求めず、自分の内に拠り所を見出しています。長年修行して心を鍛え、解脱に至った覚者は、心に一切の悪意を生みません。解脱した人は、外的な要因で心が動じることはないのです。

SN1-2-24

‘‘Attavetanabhatohamasmi, 
得る・賃金・養育・私はある
(iti dhaniyo gopo)
Puttā ca me samāniyā arogā;
息子たち また 私の 同じく 無病 
Tesaṃ na suṇāmi kiñci pāpaṃ,
彼らについて ない 聞く 何も 悪い
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

私は稼ぎ、家族を養っている、
と牛飼いのダニヤは言う。
息子たちはみな元気で
悪い噂を聞いたことがない。
だから神よ
いつもでも雨を降らせなさい

解説

ダニヤは自ら稼いで生計を立てています。立派に養って育てた息子たちは健康で善良です。ダニヤは自分が誰にも頼らず、自立していると思っています。

どんな人でも動物でも、全く1人で生きることは不可能です。食べ物や水を供給してくれる存在や、それを運んでくれる存在、果ては体内で生命を維持する微生物に至るまで、他の生命と健全な関わりをもって生きています。

SN1-2-25

‘‘Nāhaṃ bhatakosmi kassaci, 
ない・私自身 使用人 誰か
(iti bhagavā)
Nibbiṭṭhena carāmi sabbaloke;
得る 歩く・私は 全て・世界 
Attho bhatiyā na vijjati,
望み 賃金 ない 見出す(存在) 
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

私は誰かの使用人ではない、
とブッダは言う。
私は世界中を歩き施しを得る
賃金は必要ない。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

出家修行者は、托鉢で得た「施し」だけで生活します。施しを得る時には、ただ黙って器を持って戸口に立つだけです。決して求めることはしません。すると家人が食べ物を施してくれます。衣類やその他の必需品が施されることもあります。つまり家々の戸口を歩いて回るだけで自然に得るのです。この時、お礼は決してしません。会釈すらしません。お礼をすることは、施した人が積んだ福徳を、自分のものとして受け止めたことになってしまうからです。お礼を言わないのは、その人に徳を戻すためなのです。