第3章 大きな章:5. 学徒マーガ① 491〜497

5. Māghasuttaṃ:マーガのスッタ集 ①

このスッタ集は、マーガという名のバラモンが、ブッダに尋ねることから始まります。施したものから最大の恩恵を生み出すために必要な、受け取る側の資質について尋ねたものです。

前文

Evaṃ me sutaṃ – 
このように 私は 聞きました
eka samayaṃ bhagavā rājagahe viharati gijjhakūṭe pabbate. 
ある 集会で 世尊 ラージャガハ 滞在していた 鷲峰 山
Atha kho māgho māṇavo yena bhagavā tenupasaṅkami; 
そこで 時に マーガは 青年 そこから 世尊に それ故に・近づいた
upasaṅkamitvā bhagavatā saddhiṃ sammodi. 
近づいた 世尊に 共に 親しげに
Sammodanīyaṃ kathaṃ sāraṇīyaṃ vītisāretvā ekamantaṃ nisīdi. 
嬉しそうに いかに 挨拶を 交わし・また 一方に 座った
Ekamantaṃ nisinno kho māgho māṇavo bhagavantaṃ etadavoca –
一方に 座った 時に マッガは 青年 世尊に こう・言った

"Ahañhi, bho gotama, 
私は 尊い ゴータマ
dāyako dānapati vadaññū yācayogo; 
施す者は 施主が 寛大 乞いに応じる
dhammena bhoge pariyesāmi; 
正当に 財を 求め・私は
dhammena bhoge pariyesitvā 
正当に 財を 求めた
dhammaladdhehi bhogehi 
理に適った 財を・実に
dhammādhigatehi ekassapi 
理に適った 1人に・も
dadāmi dvinnampi tiṇṇampi catunnampi 
与え 2人に・も 3人に・も 4人に・も
pañcannampi channampi sattannampi 
5人に・も 6人に・も 7人に・も
aṭṭhannampi navannampi dasannampi dadāmi, 
8人に・も 9人に・も 10人に・も 与え
vīsāyapi tiṃsāyapi cattālīsāyapi paññāsāyapi dadāmi, 
20人に・も 30人に・も 40人に・も 50人に・も 与え
satassapi dadāmi, 
100人に・も 与え
bhiyyopi dadāmi. 
さらに多くに・も 与え
Kaccāhaṃ, bho gotama, 
かどうか 尊い ゴータマ
evaṃ dadanto evaṃ yajanto bahuṃ puññaṃ pasavāmī"ti ?
このように 施しは このように 施しは 多くの 功徳を 産出 と

"Taggha tvaṃ, māṇava, 
確かに 君は 青年よ
evaṃ dadanto evaṃ yajanto bahuṃ puññaṃ pasavasi. 
このように 施しは このように 施しは 多くの 産出
Yo kho, māṇava, dāyako dānapati vadaññū yācayogo; 
人は 実に 青年 施す者は 施主が 寛大 乞うに応ずる
dhammena bhoge pariyesati; 
正当に 財を 求め・あなたは
dhammena bhoge pariyesitvā 
正当に 財を 求めた
dhammaladdhehi bhogehi 
理に適った 財を・実に
dhammādhigatehi ekassapi dadāti…pe… satassapi dadāti, 
理に適った 1人に・も 与え…略…100人に・も 与え
bhiyyopi dadāti, 
さらに多くに・も 与え
bahuṃ so puññaṃ pasavatī"ti. 
多くの それは 功徳を 産出 と
Atha kho māgho māṇavo bhagavantaṃ gāthāya ajjhabhāsi –
そこで 時に マーガは 青年 世尊に 偈を 唱えた

私はこのように聞きました。

ある時、世尊はラージャガハ近郊の禿鷹の峰(Gigghakûta)に滞在していました。

そこへバラモン の修行者マーガが世尊に会いにやって来て、世尊に親しげに近づきました。嬉しそうに挨拶を交わし、マーガは一方に座りました。一方に坐ったマーガは世尊にこう言いました。

「尊いゴータマよ、私は惜しみなく与える布施者であり、豊かで、乞い求めるにふさわしい者です。正当に求めた財を、実に与えるにふさわしい財を、得るにふさわしい1人に与え、2人に、3人に、4人に、5人に、6人に、7人に、8人に、9人に、10人にも与え、20人に、30人に、40人に、50人にも与え、100人にも与え、さらに多くにも与えたならば、尊いゴータマよ、私はこのように施し、このように祭祀を行うことで、多くの功徳を生み出しているでしょうか?」

「バラモンの修行者よ、確かに、あなたは、そうして施すことによって、多くの功徳を生み出している。学徒よ、惜しみなく与える布施者であり、豊かで、乞い求めるにふさわしく、正当に求めた財を、実に与えるにふさわしい財を、得るにふさわしい1人に与え、…略… 100人にも与え、さらに多くにも与えたならば、それは多くの功徳を生み出す」

そこでマーガは世尊に次のように語りかけました。

解説

māṇava は、学生・青年・若いバラモンといった意味ですが、ここでは「バラモンの修行者」と訳しています。バラモンの修行者マーガは「たくさんの布施をすれば、より多くの功徳が得られるのか?」と、ブッダに尋ね、ブッダはそれを肯定しています。

SN-3-5-491

"Pucchāmahaṃ gotamaṃ vadaññuṃ, 
問う・私は ゴータマに 寛容な
(iti māgho māṇavo)
と マーガ 青年
Kāsāyavāsiṃ agahaṃ carantaṃ;
黄衣を・着た ない・家 行者に
Yo yācayogo dānapati gahaṭṭho, 
人は 乞いに応じる 施主が 在家の
puññatthiko yajati puññapekkho;
功徳を求め 施しで 功徳を期待して
Dadaṃ paresaṃ idha annapānaṃ, 
与えるなら 他の人々に ここに 食物・飲物を
kathaṃ hutaṃ yajamānassa sujjhe".
なぜ 献供物を 施すことにより 清まる

マーガ:
黄衣をまとった家のない行者に
心の広いゴータマにお尋ねします。
乞いに応じて在家の施主が
功徳を目的に布施を行い
功徳を期待してこの世で人々に
食べ物や飲み物を与える場合
献供物を施すことで
なぜ、心が浄化されるのですか?

解説

そうですよね。素朴な疑問ですが、「なぜお布施するのがいいのか」わかりませんよね。

SN-3-5-492

"Yo yācayogo dānapati gahaṭṭho, 
人は 乞いに応じる 施主が 在家の
(māghāti bhagavā)
マーガよ・と ブッダは
Puññatthiko yajati puññapekkho;
功徳を求め 施しで 功徳を期待して
Dadaṃ paresaṃ idha annapānaṃ, 
与えるなら 他の人々に ここに 食物・飲物を
ārādhaye dakkhiṇeyyebhi tādi".
成就するだろう 施すべき人々によって そんな

ブッダ:
マーガ よ
乞いに応じて在家の施主が
功徳を目的に布施を行い
功徳を期待してこの世で人々に
食べ物や飲み物を与える場合
施すにふさわしい人々によって
善行が達成されるからです。

解説

お布施するにふさわしい人に与えれば、その人が善行を為して人の役に立つことで、施主の功徳になるということです。修行者は何かを期待することは欲なのでNGですが、在家が功徳を期待することは、欲にはならないようです。

私たちにとって与えたくなる人は、どんな人でしょう? 好きな人やお世話になっている人、立派な人や尊敬できる人、頑張っている人でしょうか。いずれにせよ、他者が助けたいと思う人です。

SN-3-5-493

"Yo yācayogo dānapati gahaṭṭho, 
人は 乞いに応じる 施主が 在家の
(iti māgho māṇavo)
と マーガ 青年
Puññatthiko yajati puññapekkho;
功徳を求め 祭祀で 功徳を期待して
Dadaṃ paresaṃ idha annapānaṃ, 
与えるなら 他の人々に ここに 食物・飲物を
akkhāhi me bhagavā dakkhiṇeyye".
教えてください 私に 世尊よ 施すべき人々を

マーガ:
乞いに応じて在家の施主が
功徳を目的に布施を行い
功徳を期待してこの世で人々に
食べ物や飲み物を与える場合
施すにふさわしい人々について
世尊よ、
私に教えてください。

解説

ブッダにとって、お布施にふさわしい人とはどんな人なのでしょう?

SN-3-5-494

"Ye ve asattā vicaranti loke, 
彼らは 実に ない・執着 生きる 世界を
akiñcanā kevalino yatattā;
無所有の 完全な 自ら制御する
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

ブッダ:
何も所有せず
完全に自らを制御し
この世で実に執着なく
生きている人々に、
バラモンが功徳を期待して
布施をするのならそのような人に
適宜、施しを与えなさい。

解説

494から508までの15スッタは、前半2行で布施をするにふさわしい人物像が語られて、後半2行が全て同じです。この後半2行は、スンダリカのスッタ集と全く同じパーリ語ですが、スンダリカの場合は、祭祀を行った後のお下がりの供物を誰に施すべきか、という質問でしたが、マーガ は在家者として誰に食べ物や飲み物を与えるべきか、ということなので、同じパーリ語でも翻訳を「祀る→布施をする」変えています。

SN-3-5-495

"Ye sabbasaṃyojanabandhanacchidā, 
彼らは 一切・束縛・縛り・破る
dantā vimuttā anīghā nirāsā;
訓練された 解脱者 不動の 無欲の
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼らはすべての束縛の
縛り目をほどき
無欲で心が動揺することなく
訓練された解脱者である。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのならそのような人に
適宜、施しを与えなさい。

解説

Saṃyojana束縛)とは、自分で自分の心を縛ることです。〇〇しなくてはいけない、〇〇してはいけない。私たちは勝手に自分の心を制限しています。どうしてでしょう?

自分に都合のいいこと(成功)を願い(lobha)、都合の悪いこと(失敗)は嫌う(dosa)というのが心の本質だからです。自分の都合に振り回されて、自分の心を縛り、それが結局、自分を煩わせ、悩ませる原因となっているのです。

SN-3-5-496

"Ye sabbasaṃyojanavippamuttā, 
彼らは 一切・束縛・脱した
dantā vimuttā anīghā nirāsā;
訓練された 解脱者 不動の 無欲の
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼らはすべての束縛を脱して
無欲で心が動揺することなく
訓練された解脱者である。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのならそのような人に
適宜、施しを与えなさい。

解説

成功も失敗も、すべての事象は複雑に絡み合った無数の因縁によって起こります。因縁は、「定められた運命」のようなものではありません。あらゆる事象は、直接の原因である「因」と間接的原因である「縁」から生じます。

SN-3-5-497

"Rāgañca dosañca pahāya mohaṃ,
欲と 怒りと 捨てて 痴を
khīṇāsavā vūsitabrahmacariyā;
尽きた・煩悩 梵行をなした人
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

欲と怒りと愚かさを捨て
清く正しく生活して
心の汚れが尽きた人に、
バラモンが功徳を期待して
布施をするのならそのような人に
適宜、施しを与えなさい。

解説

欲・怒り・愚かさ」はいわゆる三毒です。は、他者よりも自分を優先させようとする行為です。怒りは、自分の考えは正しいが相手は間違っているという考えから生じます。愚かさは、自分が無知なことに気づいていない状態です。

この三毒を捨てるためには、他者を優先させることで、自分の欲を捨てる。相手にも一理あると考え、自分が正しいという怒りを捨てる。そもそも人間は無知であることを理解し、世間の常識も自分の考えも真理ではないことに気づくことで、愚かさを捨てる

三毒は結局、無知から始まっています。自分のを叶えたところで、欲は次々に現れて尽きることはありません。決して満足しないのが人間の性です。また、誰かの考えが絶対的に正しいということはあり得ません。正しさは条件や状況、各自の主観によって変化するので、誰もが認める正しさはあり得ないのが真理です。

自分も他者も不完全であることに気づいて、自分を引っ込めて、他者を優先させることで、この3つを捨てることは可能です。実に簡単なのですが、これを実践しても試練は続きます。優先させた相手は人間ですから当然、愚かです。特に近しい存在の場合、調子に乗って、もっともっとと要求してくるのです。自分が正しいと考えを押し付けてくるのです。譲り損のように感じて、結局また、三毒にやられてしまうのです。