第5章 彼方への道:6. ウパシーヴァの質問 1075〜1082

6. Upasīvamāṇavapucchā ウパシーヴァ青年の質問

ウパシーヴァ尊者の質問も8つです。

SN-5-6-1075

‘‘Eko ahaṃ sakka mahantamoghaṃ, 
1人では 私は 釈迦よ 大きな激流を
(iccāyasmā upasīvo)
と尊者 ウパシーヴァは
Anissito no visahāmi tārituṃ;
ない・拠り所 ない できる 超える
Ārammaṇaṃ brūhi samantacakkhu, 
対象 説いて 完全な・洞察力のある人
yaṃ nissito oghamimaṃ tareyyaṃ’’.
それを 拠り所は  激流を 超える

尊者ウパシーヴァ:
お釈迦様、
ひとりで助けもなく
私は大きな激流を
渡ることはできません。
完全な洞察力のあるお方よ、
激流を渡るために
頼りとなるとなる
支えを教えてください。

解説

ウパシーヴァは、冒頭から「ひとりでは無理」と宣言しています。自分をよくわかっている人のようです。

SN-5-6-1076

‘‘Ākiñcaññaṃ pekkhamāno satimā, 
無所有を 観察して 気づきをもって
(upasīvāti bhagavā)
ウパシーヴァよ とブッダ
Natthīti nissāya tarassu oghaṃ;
ない・存在 拠り所 渡りなさい 激流を
Kāme pahāya virato kathāhi, 
欲求を 捨てて 慎み 様々な言説を
taṇhakkhayaṃ nattamahābhipassa’’.
渇望の・滅尽 夜に・昼に・観察しなさい

ブッダ:
ウパシーヴァよ、
「私のもの」など何もないと
気づきをもって観察し、
「私」という存在がないことを
心の支えに激流を渡りなさい。
五感の欲求を捨てて
様々な言説を慎み
強く望む渇望を滅すように
昼も夜も観察しなさい。

解説

nattamahābhipassa:nattam-ahaṃ-abhi-passati 夜に・昼に・対して・観察する。kathāhi:様々な言説を。言説とは、意見を言ったり物事を説明したりすること、つまりは説法です。

私たちがとらわれる様々なものは全て、「私のもの」という「」がつくから、心を奪われるのです。「私の家」「私の子供」「私のお金」「私の仕事」「私の考え」が、「大切な私のもの」だから、こだわったり、様々な欲求が出てくるのです。

これが「他人のもの」であれば、どうでしょう? 他人事になった途端に、それ自体に執着することはないはずです。あるとしたら、私のもの比較してのことでしょう。そのこだわりはやはり「大切な私」にあるのです。「大切なあなた」も本当は「大切な私のあなた」なのです。

他人度が遠くなればなるほど、気にならなくなることからもそれは明白です。「私の子供」が死ねば、自分も死にたくなるほどの大きな悲しみです。「家族の子供」が死ねば、死にたくはならないけど大きな悲しみです。「友人の子供」が死ねば、辛いだろうと悲しみを共感するでしょう。「会社の同僚の子供」が死ねば、死因が気になりつつ、香典の相場を調べるでしょう。毎日「世界中の子供たち」が飢餓で死んでいますが、それを悲しいことだと受け止める日本人は、どれだけいるのでしょう。

自分を取り巻くすべての「私のもの」を、そういったことに気づきながら観察してみれば、そもそも所有者であるはずの「」が、単なる概念、心が経験という記憶を元に、自己矛盾がないようにアップデートし続けるイメージでしかないことに、気づくことができます。

そうすれば「」という存在が「私事」ではなく「他人事」のように感じられる。「」という囲いがなくなれば、急に何もかもが自由ですよね。なんだってやっていい気がしてくる。失敗したって、私じゃないんだから、気にせずどんどんやっちゃう。私も他人もないんだから、人の目を気にすることもない。これが「私が存在しないことを心の支えとする」ということだと思います。

SN-5-6-1077

‘‘Sabbesu kāmesu yo vītarāgo, 
一切の 快楽が その人は 解放された・欲望から
(iccāyasmā upasīvo)
と尊者 ウパシーヴァは
Ākiñcaññaṃ nissito hitvā maññaṃ;
無所有を 拠り所 捨てて 他のものを
Saññāvimokkhe parame vimutto, 
想念・解放 最高の 解脱した人は
tiṭṭhe nu so tattha anānuyāyī’’.
留まるだろう かどうか 彼は そこに なく・追い求める

尊者ウパシーヴァ:
あらゆる快楽への
欲望がなくなり
他と区別することをやめて
「私のもの」などない
ことを心の支えとし
思考から自由になって
最終段階の解脱した人は
それ以上探求することはなく
そこに留まるのでしょうか?

解説

「涅槃に至り、解脱した人は、その後、どうなるのか? これ以上、探究することがなくなり、ただそこに留まるのですか?」という質問です。

saññā(サンニャー):想念、概念、心に思い描くイメージのこと。ここでは思考としました。

SN-5-6-1078

‘‘Sabbesu kāmesu yo vītarāgo,
一切の 快楽が その人は 解放された・欲望から
(upasīvāti bhagavā)
ウパシーヴァよ とブッダは
Ākiñcaññaṃ nissito hitvā maññaṃ;
無所有を 拠り所 捨てて 他のものを
Saññāvimokkhe parame vimutto, 
想念・解放 最高の 解脱した人は
tiṭṭheyya so tattha anānuyāyī’’.
留まるだろう 彼は そこに なく・追い求める

ブッダ:
ウパシーヴァよ、
あらゆる快楽への
欲望がなくなり
他と区別することをやめて
「私のもの」などない
ことを心の支えとし
思考から自由になって
最終段階の解脱した人は
それ以上探求することはなく
そこに留まるだろう。

解説

前のスッタ1077とは、最後の行が違うだけで、ウパシーヴァの質問をそのまま肯定文にして答えています。「tiṭṭhe nu so(彼は留まるだろうか?)」→「tiṭṭheyya so(彼は留まるだろう)」

SN-5-6-1079

‘‘Tiṭṭhe ce so tattha anānuyāyī, 
留まるなら もし 彼が そこに なく・追い求める
pūgampi vassānaṃ samantacakkhu;
多くの・も 年月 完全な・洞察力のある人よ
Tattheva so sītisiyā vimutto, 
そこで・ただ 彼は 平静にある 解脱して
cavetha viññāṇaṃ tathāvidhassa’’.
死ぬのか 意識は そのような人の

尊者ウパシーヴァ:
完全な洞察力のあるお方よ、
もし、その人が
それ以上追い求めることがなくなり
何年もそこに留まり
解脱して、そこでただ
平静であるならば
そのような人の意識は
死ぬのでしょうか?

解説

cavati:死ぬ、消える、ある世界を去って別の世界に生まれ変わること。「そのような人の意識は、この世で死んで、別の世界に生まれ変わるのでしょうか?」という質問だと解釈しました。

SN-5-6-1080

‘‘Accī yathā vātavegena khittā, 
炎が ように 風の力で 投げ出された
(upasīvāti bhagavā)
ウパシーヴァよ とブッダは
Atthaṃ paleti na upeti saṅkhaṃ;
消える 去る ない できる 数える
Evaṃ munī nāmakāyā vimutto, 
このように 聖者は 名称の・身体から 解放された
atthaṃ paleti na upeti saṅkhaṃ’’.
消える 去る ない できる 数える

ブッダ:
ウパシーヴァよ、
風に吹かれて消えた炎のように
消え去ったものは数えられない。
名前が付けられた肉体から
解放された聖者は
個体が消え去ったのだから
数えることはできない。

解説

消え去ったもの=消滅した者は、生まれ変わることはない」ということだと思います。

nāmakāya:nāma(名称)kāya(身体)。nāma(名称)rūpa(形態)に似ていますが、nāmakāyaは「名付けられた肉体」、つまりある肉体に対して、Aさんという名前が付いた固有の身体=個人を示していると思います。

例えば、群衆の中で知り合いのAさんを見つけたら(目を通して意識が群衆からその人型「nāmakāya」を切り出した状態)、その人は自分にとっては「Aさん」かもしれませんが、他の知らない人から見れば、群衆の一部でしかありません。

同様に「」という概念は、「この身体=私」という思いから起こります。「この身体は、私という名前が付いた肉体に過ぎない。私=Bというのは、生まれた時から、そのように分別されて、この身体の周囲の環境だけで通用する概念に過ぎない。私を知らない世界中の人々から見れば、私は今も昔も存在していない」という事実に気づけば、私は消滅します。

SN-5-6-1081

‘‘Atthaṅgato so uda vā so natthi, 
消滅した人は 彼は あるいは また 彼は ない・存在
udāhu ve sassatiyā arogo;
あるいは 実に 永久に 無病
Taṃ me munī sādhu viyākarohi, 
それを 私に 聖者よ どうぞ 説いてください
tathā hi te vidito esa dhammo’’.
あるがままに まさに あなたに 見出された この ダンマは

尊者ウパシーヴァ:
消滅した人は
存在がなくなるのですか?
それとも永遠不滅の
存在になるのですか?
聖者よ、
あなたはこの真実を
実体験したのですから
どうぞ私にあるがままに
説明してください。

解説

解脱者が死期を迎えて消滅した後、輪廻転生しない存在は消えて無になるのか? それとも永遠不滅の存在としてずっとなくならないで有るのか? という質問だと思います。

SN-5-6-1082

‘‘Atthaṅgatassa na pamāṇamatthi, 
消え去る者には ない 測る基準が
(upasīvāti bhagavā)
ウパシーヴァよ とブッダは
Yena naṃ vajjuṃ taṃ tassa natthi;
それによって 彼を 説こうとしても それが 彼には ない・存在
Sabbesu dhammesu samohatesu, 
一切の 現象において 同時に・破壊された時
samūhatā vādapathāpi sabbe’’ti.
根絶される 論・道・もまた すべての と

ブッダ:
ウパシーヴァよ、
消え去る者にはすでに何の形もない。
人々が彼だと言うものは
もはや彼にとっては存在しない。
あらゆる現象が無であり
ないものについて論じる道も
存在しない。

このようにブッダは言いました。

解説

ここではダンマを「現象」と訳しました。「解脱者は無我に至り、他から分離して自覚するような形態がないのだから、その時点でそもそも存在がない。同様にあらゆる存在が現象であり、本来存在しない概念なのだから、ないものについて論じる道も存在しない」と解釈しました。有るものについては説明できても、ないものについては説明のしようがない、ということです。

ブッダはこのスッタ集の最初のスッタ1076で、「様々な言説を慎み」とわざわざ言っています。最後のスッタで「もう説明はおしまい」と論じる道を封じたので、ウパシーヴァには最初から警告していたのかもしれません。ウパシーヴァは、のちにブッダの元でアラハンになったそうです。

Upasīvamāṇavapucchā chaṭṭhī niṭṭhitā.
ウパシーヴァ・青年・質問 6番目 終わり

6.ウパシーヴァ青年の質問 終わり