7. Nandamāṇavapucchā ナンダ青年の質問
尊者ナンダのスッタ集は「解脱した聖人に関する」質問です。7つのスッタで構成されていますが、それぞれのスッタは長めです。また、珍しく質問者の発言で終わっています。
SN-5-7-1083
‘‘Santi loke munayo, いる この世には 種々の聖人が (iccāyasmā nando) と尊者 ナンダは Janā vadanti tayidaṃ kathaṃsu; 人々は 言う あなたは・これを いかに Ñāṇūpapannaṃ no muniṃ vadanti, 知性を備えた人を かどうか 聖者と 言う udāhu ve jīvitenūpapannaṃ’’. あるいは 実に 生き方を備えた人を
尊者ナンダ:
世の中にはさまざまな
聖人がいると人々は言いますが
このことについてあなたは
どのようにお考えでしょうか?
知性のある人を
聖人と呼ぶのでしょうか?
あるいは何らかの生き方を
している人なのでしょうか?
SN-5-7-1084
‘‘Na diṭṭhiyā na sutiyā na ñāṇena, ない 見たものから ない 聞いたものから ない 知性から (na sīlabbatena) ない 戒や掟から Munīdha nanda kusalā vadanti; 聖人と・ここに ナンダよ 善達人を 言う Visenikatvā anīghā nirāsā, 無敵・行う 無苦の 無欲の caranti ye te munayoti brūmi’’. 歩む 人々は 彼らは 聖者達と 言う
ブッダ:
ナンダよ、
見たものや聞いたものや
知性によってではなく
(戒律や儀式でもない)
この世で聖人とは
善の達人のことをいう。
対立することなく
苦悩もなく
無欲で生きる人々を
私は聖人と呼ぶ。
解説
このスッタと同じような内容が、第4章の4番目「8つの純粋な心」でも説かれています。学問や知識では聖人にはなれません。何事にもあがらうことなく、誰とも対立せず、悩み苦しみもなく、無欲であれば、つまり心が純粋であれば、聖者です。
Visenikatva=viseni(敵なし)+ karoti(の状態):対立しない、争わない。
SN-5-7-1085
‘‘Ye kecime samaṇabrāhmaṇāse, 彼らは 誰であれ 出家者・バラモンたち (iccāyasmā nando) と尊者 ナンダは Diṭṭhassutenāpi vadanti suddhiṃ; 見たもの・聞いたもの・も 言う 清浄 Sīlabbatenāpi vadanti suddhiṃ, 戒律・儀式・も 言う 清浄 anekarūpena vadanti suddhiṃ; 多数の形態 言う 清浄 Kaccissu te bhagavā tattha yatā carantā, かどうか それは ブッダよ そこに 自制する 行者が atāru jātiñca jarañca mārisa; 超えた 誕生・と 老い・と 先生 Pucchāmi taṃ bhagavā brūhi me taṃ’’. 尋ねます あなたに ブッダよ 説明してください 私に それを
尊者ナンダ:
出家者やバラモンたちは皆、
見たもの聞いたものによって
清らかになると言います。
戒律や儀式によって
清らかになると言います。
その他いろいろな方法で
清らかになると言います。
ブッダよ、
彼らはそのように自制して
修行していますが、
先生、
誕生と老いを越えたのでしょうか?
ブッダにお尋ねいたします
私に教えてください。
解説
「学問や知性、戒律や儀式によって、浄化されると言う出家者やバラモンたちは、誕生と老いを乗り越えたのですか?」という質問です。
誕生と老い、そして死は「dokkha(ドゥッカ)苦しみ」です。これはブッダが説く「4つの聖なる真理」の「1. 苦しみの真理」です。
誕生=転生することは、「もう誕生しませんように」と望むだけでは、避けられません。また、「よい生まれになりますように」と、得られないことを望むことは苦しみです。老いることも同様に避けられず、「老いませんないように」と得られないことを望むことは苦しみです。どちらも「思い通りにならないこと」であり、それが「苦しみの真理」です。
SN-5-7-1086
‘‘Ye kecime samaṇabrāhmaṇāse, 彼らは 誰であれ 出家者・バラモンたち (nandāti bhagavā) ナンダよ とブッダは Diṭṭhassutenāpi vadanti suddhiṃ; 見たもの・聞いたもの・も 言う 清浄 Sīlabbatenāpi vadanti suddhiṃ, 戒律・儀式・も 言う 清浄 anekarūpena vadanti suddhiṃ; 多数の形態 言う 清浄 Kiñcāpi te tattha yatā caranti, たとえ〜でも それは そこに 自制する 行者が nāriṃsu jātijaranti brūmi’’. ない・超えた 誕生・老い 説く
ブッダ:
ナンダよ、
出家者やバラモンたちは皆、
清らかさは見たものから
聞いたものから
戒律と儀式によって
その他いろいろな方法で
得られると言う。
たとえ彼らがそのように
自制して修行しても
誕生と老いは越えていない。
解説
ナンダの質問を、ほぼそのまま返して、答えとしています。
この世のあるゆるものは常に変化しています(無常)。変化していないように見える石でさえ、少しずつ崩れたり、必ず何らかの変化があります。
人が何かを求めた時点で、すでにその対象も変化しているのが真理です。だから追い求めても常に不満が残るのが当たり前で、満足を得られないものなのです。不満=思い通りにならないから、苦しくなるのです。
SN-5-7-1087
‘‘Ye kecime samaṇabrāhmaṇāse, 彼らは 誰であれ 出家者・バラモンたち (iccāyasmā nando) と尊者 ナンダは Diṭṭhassutenāpi vadanti suddhiṃ; 見たもの・聞いたもの・も 言う 清浄 Sīlabbatenāpi vadanti suddhiṃ, 戒律・儀式・も 言う 清浄 anekarūpena vadanti suddhiṃ; 多数の・形態 言う 清浄 Te ce muni brūsi anoghatiṇṇe, 彼らは もし〜なら 聖人よ 言う ない・激流を・超えたと atha ko carahi devamanussaloke; 一体 誰が それでは 神々と・人間の・世界において Atāri jātiñca jarañca mārisa, 超える 誕生・と 老い・と 先生 pucchāmi taṃ bhagavā brūhi me taṃ’’. 尋ねます あなたに ブッダよ 説明してください 私に それを
尊者ナンダ:
出家者やバラモンたちは皆、
浄化は見たものから
聞いたものから
戒律や儀式によって
その他いろいろな方法で
得られると言います。
聖人よ、
もし彼らが激流を
越えていないと言うのなら、
それではいったい誰が、
先生!
神々と人間の世界において
誕生と老いを越えたのですか?
ブッダにお尋ねします
私に教えてください。
SN-5-7-1088
‘‘Nāhaṃ sabbe samaṇabrāhmaṇāse, ない・私は 一切の 出家者・バラモンたちが (nandāti bhagavā) ナンダよ とブッダは Jātijarāya nivutāti brūmi; 誕生と老いを 覆われた 説く Ye sīdha diṭṭhaṃva sutaṃ mutaṃ vā, 彼らは 一体・ここで 見たものを・あるいは 聞いたものを 思考を あるいは sīlabbataṃ vāpi pahāya sabbaṃ; 戒律・儀式 あるいは・また 捨てて 一切の Anekarūpampi pahāya sabbaṃ, 種々の・形態を・も 捨てて 一切を taṇhaṃ pariññāya anāsavāse; 渇望を 正確に理解し 穢れのない人々 Te ve narā oghatiṇṇāti brūmi’’. 彼らは 実に 人々 激流を・渡ったと 私は説く
ブッダ:
ナンダよ、
すべての出家者とバラモンが
誕生と老いに覆われているとは
私は言わない。
この世で見たもの、聞いたこと
考えたこと、戒律や儀式
その他いろいろな方法も
一切を捨てて
渇望を正確に理解し
穢れのない人
そのような人を私は
本当に激流を超えた人と呼ぶ。
解説
anāsava=an(ない)+ āsava(シミ・汚れ):穢れのない人。
ブッダとナンダは同じ言葉を繰り返していますが、そもそもの観点が違っているのかもしれません。ブッダは、「この世に生まれ出た以上、生きていくこと、老いていくことは、避けられないのが自然の摂理で、それ自体を覆すことは誰にもできないが、そのような覆い(思い込み)から心を離すことができれば、それはこの世の激流(苦悩)を超えた人だ」と言っているのだと解釈しました。
SN-5-7-1089
‘‘Etābhinandāmi vaco mahesino, これらを・私は喜ぶ 言葉を 偉大な賢者の sukittitaṃ gotamanūpadhīkaṃ; よく教えられた ゴータマよ・ない・拠り所・ことを Ye sīdha diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā, 彼らは 一体・ここで 見たものを・あるいは 聞いたものを 思考を あるいは sīlabbataṃ vāpi pahāya sabbaṃ; 戒律・儀式 あるいは・また 捨てて 一切の Anekarūpampi pahāya sabbaṃ, 種々の・形態を・も 捨てて 一切を taṇhaṃ pariññāya anāsavāse; 渇望を 正確に理解し 穢れのない人々 Ahampi te oghatiṇṇāti brūmī’’ti. 私も・また 彼らは 激流を・渡ったと 私は説く と
ナンダ:
偉大な賢者のお言葉を
私は大変嬉しく思います。
ゴータマ様、
拠り所などないことを
よくぞ説明してくれました。
この世で見たもの、聞いたもの
考えたもの、戒律や儀式
その他いろいろな方法を
一切を捨てて
渇望を正確に理解し
穢れのない人々を
激流を超えた人と
私も呼びます!
このようにナンダは言いました。
解説
ナンダがブッダの言葉を復唱することで、このスッタ集は終了しています。大変暗唱しやすいスッタ集です。
Nandamāṇavapucchā sattamā niṭṭhitā. ナンダ・青年・質問 7番目 終わり
7.ナンダ青年の質問 終わり