aññasamāna cetasika
健全にも不健全にもなる精神作用
基本的な精神作用は13種類ありますが、これらは同時に働く他の精神作用の性質を受けて、健全にも不健全にもなる精神作用です。
このうち7つは、すべての人の心に必ずある共通の精神作用です。残りの6つは、必ずあるわけではない精神作用です。
sabba-citta-sādhārana cetasika
すべての心に共通の精神作用(7)
すべての人の心に必ずある共通の精神作用は次の7つです。
1. phassa(パッサ)接触
6つの感覚器官にそれぞれの対象が触れる作用です。目が色と接触する。耳が音と接触する。鼻が匂いと接触する。舌が味と接触する。身体が物質と接触する。心が現象(心に浮かぶ表象)と接触する。
生き物と物体の違いは、外の世界と接触して認識することが、できるかできないかです。接触することから、生き物の認識が始まります。Phassa を育てると鋭い人になります。
心というエネルギーは常に振動しています。そこに何かが接触すると違ったエネルギー(振動)が加わり、心の振動も変化します。心は銅鑼のようなもので、バチが接触した部分から振動音が銅鑼全体に広がり、そして消えていきます。
2. vedanā(ヴェーダナー)感受・情感
接触した情報を感受する作用と、識別された対象に対して生じる情感です。2つのアプローチがあります。
日常生活において私たちは、何かを認識する実感はあっても、接触と感受の実感はありません。しかし触れて感じることで認識が生まれます。接触できないもの、あるいは接触しても感受できないものは、認識しません。
接触できないものとは、人間には見えない赤外線や紫外線、聞こえない周波数の音などです。あるいは、後ろを向いていて見えていない、ヘッドフォンをしていて聞こえていない、などです。触れないものは感じないから「知らない」のです。
接触しても感受できないものとは、他のことに夢中で目に入らない、聞こえない、上の空で食べている、などです。触れても感じないから「知らない」のです。これは手術で麻酔をかけた状態と同じです。
麻酔で感覚を麻痺させて、触れても触れたものを感じないようにするから、手術を受ける本人は、メスで切られていることも、内臓を触られていることも、「知らない」状態です。接触しても感じないから認識しないので、怖さも痛みも感じないです。
いずれにせよ、感じないものはただそのまま振動(エネルギー)が流れていくだけです。物体が物体に接触しても、何も感じないのと同じです。
瞑想修行は、この接触と感受を常時意識することが基本です。
3. saññā(サンニャー)識別・印象づけ
情報を区別・識別する作用で、感じ取った外界の刺激(情報)に印象をつけることです。瞬間的に情報収集し、感受した対象に〇〇という印象を瞬間的につけて、違いを区別します。
Saññā は常に働いています。何か情報が触れて感受した瞬間に、saññā が「〇〇」と識別します。識別できなければ、〇〇だと認知しないので、ただ情報が流れるだけです。
例えば、英語を全く知らない(認知しない)人が、英語を聞いた場合(英語の音に接触して感受)、saññā は音の印象の違いを区別できません。耳から音が入るだけで、識別できないので認知に至りません。しかし英語を繰り返し学習する(saññā で印象づけを繰り返す)と、区別できるようになります。この記憶が増えると、英語を認知し理解できるようになるのです。
Saññā(印象)のうち、強い印象が蓄積して記憶となるので、Saññā を育てて強くすると、知識を得ることができるのです。
初めて会った人には、第一印象が生じます。その後、何度も会うたびに、saññā が印象を記憶から照会して、人物を同定して識別し、〇〇さんと認知します。この時、違った印象が生じれば、記憶はアップデートされます。
4. cetanā(チェータナー)意志
行動を起こすか起こさないかを決める作用です。何かをする時、何かを止める時、どんな場合にもチェータナーが作用します。瞬間瞬間に、何かしたくなる意志のエネルギーです。何かをしたら、次に何かをしたくなるような心を回転させるエネルギーです。
この意志が kamma(カンマ・行為)をつくります。cetanā を育てると行動的になります。
5. ekaggatā(エーカッガター)選択的注意
対象に瞬間的に心の選択的注意を向ける働きです。その瞬間に心が何に選択的注意を向けるによって、同じ場にいても人それぞれで違うものが見えたり、聞こえたりしています。
私たちは、五感から入る情報刺激の洪水の中で生活していますが、その全てを認知しているわけではありません。耳にはさまざまな音が常に入っていますが、全部を聞き分けているわけではなく、ただ音が耳からどんどん流れている状態です。その中から、自分で注意(ekaggatā)を向けて選んで、見たり聞いたり認知しているのです。
注意(ekaggatā)を向けていなくても、五感から伝達される全ての刺激は、感覚として全て感じています。
心理学には「カクテルパーティ効果」と呼ばれる作用があります。パーティ会場のような騒がしい場所でも、自分の名前や興味がある話題は自然と耳に入って気づくという心理効果です。これが ekaggatā(選択的注意)です。
サマタ瞑想(集中瞑想)は、この ekaggatā を育てるための訓練です。Ekaggatā を一カ所に留め続けると集中力になります。Samādhi(サマーディ・精神統一)は、この集中が深まりきった状態で、この状態まで至ると、五感から入る情報を認知しなくなります。
Ekaggatā を育てると saññā と cetanā が明確になります。
6. jīvitindriya(ジーヴィティンドリヤ)一瞬一瞬の生命力
絶え間なく生じる活力・生命機能です。
7. manasikāra(マナシカーラ)作動させるスイッチ
心を作動させるスイッチです。
2.vedanā(感受)、3.saññā(識別)、4.cetanā(意志)は、それぞれ自分の働きを持って待機しています。manasikāra(スイッチ)がゴーサインを出してはじめて、これらの精神作用が動き出します。
これら7つの精神作用で認識=心が生じる
以上の7つの精神作用が揃うと「認識=心(citta)」が生じます。意識がある、つまり生きている状態です。
目を開けて何かを見る時、心には「見る」スイッチが入り、その瞬間には「見よう」とする意志があり、対象の焦点を絞って、対象に接触を試みます。対象に接触すると、視覚刺激に基づく感覚情報を感受し、対象を識別し、同時に「好き・嫌い・無関心」の感覚も生まれます。その感覚を基に生命力が生じます。
心に生じるこれら7つの精神作用が「認識」の基本動作で、「見た」と思う以前の一瞬の精神作用になります。ここまでは誰でも必ず起こる精神作用です。
pakiṇṇaka cetasika
雑多な精神作用(6)
ある特定の意識化でのみ偶発的に生じる、健全にも不健全にもなる精神作用が次の6つです。すべての心に生じるわけではありません。
8. vitakka(ヴィタッカ)
自分でも気づかないうちに、認識したものから派生して心の議題に対象をのせる作用です。
何かの情報に接した時、「そういえばあれって……」と思考が今を離れて、考えを巡らせていく最初の議題を決定する作用がvitakkaです。vitakka・vicāraは、常にペアで働く精神作用で、vitakka が生じないと次の vicāra は起こりません。
9. vicāra(ヴィチャーラ)考えを廻らせる
vitakka が定めた対象について、考えを廻らせる作用です。
これが行動するための「cetanā(チェータナー)意志」に影響を与え、行動の意図や動機を決定します。受け取った情報が意味に変わります。
例えば、家族5人でテレビを見ていて「明日の降水確率は60%」という情報を得たとします。
長男:「明日の遠足、中止かも。がっかり」
次男:「明日の遠足、中止かも。ってことは、宿題やんなきゃ?」
長女:「雨の確率60%か」
お母さん:「雨ならお弁当いる? いらないんだっけ?」
お父さん:「いま降れば、週末のゴルフは大丈夫だな、よしよし」
このように同じ情報を得ても、各自の心は全く違う考えを廻らせています。
このとき vitakka・vicāra は、
長男:「vitakka=遠足 vicāra=中止 → 不快(不満)」
次男:「vitakka=遠足 vicāra=中止 → vitakka=宿題 → vicāra=不快(憂い)」
母:「vitakka=弁当 vicāra=いる → いらない → 未定・不快(心配)」
父:「vitakka=ゴルフ vicāra=決行 → 快(安心)」
長女は vitakka・vicāra が、心に生じていない「今ここ」にいる状態です。
その方向に意志が傾いたからといって、すぐに行動にうつるわけではありませんが、 vitakka・vicāra と一緒に働く精神作用が健全か不健全かによって、その人の生き方が徐々に方向づけられていきます。
10. adhimokkha(アディモッカ)対象を結びつける
心から離れないように結びつける作用です。例えば、検査結果が気になって頭から離れない、他のことで気を紛らしても、いつの間にか考えている。そんな時にはアディモッカが心で強く働いて、対象に引き戻している状態です。
11. viriya(ヴィリヤ)努力
努力しようとするエネルギーです。何かをやりたいからやるのではなくて、「~しよう」と決めて頑張る心のエネルギーです。健全にも不健全にもなる精神作用なので、全力投球で悪行を頑張ることも成り立ちます。
このヴィリヤが強いと仕事が楽にできますが、逆にヴィリヤが弱いと同じ仕事でも、「仕方がないからやる」という気持ちになって捗りません。その差はヴィリヤの強弱です。
12. pīti(ピーティ)喜び
ピーティは喜ぶエネルギーです。嬉しい、楽しいといった自然に生まれる感情です。喜びには理屈はありませんが、喜びの心もちゃんと育てることができます。
嫌いな食べ物でも興味をもって食べてみると、だんだん味がわかってきたりするものです。そうすると喜びが出てきます。何かが好ましいか好ましくないかは、決して絶対的な固定されたものではなく、心が決めることです。
ピーティは心の問題で、外界の問題ではないので、外を変える必要はないのです。喜びの心が生まれるように、自分の視点を変えてみればいいのです。
13. chanda(チャンダ)意欲・やる気
チャンダは意欲・やる気です。何かを「やろう」とする時には、チャンダが働きます。
チェータナー(意志)やヴィリヤ(努力)に似ていますが、チャンダはもっと単純で、ただ何かを「やろう」とするやる気のことです。
チェータナーは自分の意志そのもので、それによって起こした行動に付随する精神作用が、エネルギーとして蓄えられ、その人のカンマ(業)になります。ヴィリヤ(努力)はある一定の方向に、その意志を向け続けようと頑張る働きです。
「あれも、これもやりたい」のに、なかなか実行に移せない場合は、チャンダのやる気エネルギーが足りない状態です。チャンダを育てると、やりたいことがどんどんできるようになります。
まとめ
人は、自分の意思で見たり聞いたりしていると思っていますが、実際には、自分にとってインパクトのある対象を気ままに認識しているだけです。ただ興味を引いたものに反応しているだけで、自分の意志で生きているのではなく、流されているだけです。
生きるということは、認識するということです。流されるだけの生き方をやめて、「自分の意思で生きる」ということは、「きちんと心をコントロールして認識する」ということです。
認識を自分でコントロールできるようになれば、心は自由です。