akusala cetasika:不健全な精神作用
心を汚す不健全(akusala アクサラ)な波動の精神作用は、全部で14種類あります。愚かさ(4)・欲(3)・怒り(4)・その他(3)の4グループに分かれています。
愚かさの精神作用(4)
「愚かさ」のグループの精神作用は、無知・恥知らず・恐れ知らず・落ち着きないの4つです。人が悩み苦しむ時には、必ずこの4つが働いています。愚かな人は無知なので、感情のままに行動しようとします。人が罪を犯す時には、まずこの4つが必ずあります。
1. moha(モーハ)無知
Moha は、物事の真の側面に気づくことができない、善悪の判断や思慮分別ができない愚かさの精神作用です。無知から生じる思い違い・妄想も含みます。 モーハは、すべての悩み苦しみの土台になる精神作用です。私たちはみんな無知です。いつでも大雑把に認識して、気分次第で価値判断しています。そして執着したり嫌ったりして苦しみをつくり出します。
2. ahirika(アヒリカ)罪を恥じない
Ahirika は、「人として恥ずかしい」という心が生じずに、悪いことをしてしまうエネルギーです。羞恥心がない・恥知らずです。
3. anottappa(アノッタッパ)罪を怖れない
Anottappa は、罪を犯したら怖いという心がなく、怖がらずに悪いことをしてしまう精神作用です。これは勇気があるわけではありません。逆です。臆病だから、弱さを誤魔化すのです。
4. uddhacca(ウッダッチャ)落ち着きない心
uddhacca は、あがり症のあがった状態です。不安・落ち着きがない・焦り・混乱・緊張した状態の心です。心があがってしまうと、できることもできなくなります。汗びっしょり、声は震え、心臓はバクバクして口から飛び出そうになる。冷静さを失い興奮している状態です。
欲の精神作用(3)
「欲」のグループの精神作用は、対象を好んで受け入れるエネルギーです。欲・(私の)意見・慢心の3つですが、いずれも「私」があるところに生じる精神作用です。意見と慢心が同時に生じることはありません。欲だけ・欲+意見・欲+慢心の3パターンになります。
5. lobha(ローバ)欲
Lobha は、生理的欲求から大きな欲望まで、あらゆる欲の精神作用です。 何かを見たり聞いたりして「いいな」と好ましく思った瞬間に、すでにローバは生じています。「私はミニマリストで欲は捨てた」と言ったところで、食べたいから食べ、考えたいから考え、寝たいから寝るのが人間です。 これらすべての当たり前の行為にもローバが働いています。
生命は自動的に自分が好むことをしようと「欲」で行動します。「欲」とは、欲しがる気持ちや満たされたいと願う心です。 欲しがる気持ちは不足を満たすため、満たされたいのは満たされた時に「心地よい感覚」が感受できるからです。
ブッダが説く「欲」は7つに分けられます。食欲・睡眠欲・生存欲・性欲・承認欲・怠惰欲・感楽欲です。
お腹が減ったから食べたいと思う食欲、眠たいと思う睡眠欲、呼吸したい・暑さ寒さを避けたい・危険を避けたいという生存欲は、生命を維持するために臓器と直接関連した生理的欲求・肉体的な欲求です。
性欲は、子孫を残すための本能ですが、生命維持に必須ではありません。 異性からチヤホヤされたい、性的な喜びを感じたいという感楽欲の側面が強い欲求です。
怠惰欲は「楽をしたい」という気持ち、感楽欲は、好むものを見たり聞いたり触れたりして「快楽を感じたい」という気持ちで、感覚的欲求・精神的な欲求です。 承認欲は、認められて安心したい、心地よい状態を維持したい欲求なので、この感楽欲に含まれます。
いずれの欲も、自分の状態を一定に保ち続けようとする「ホメオスタシス(恒常性)=変化しない」というエネルギーが働いています。
6. diṭṭhi(ディッティ) (私の)意見
Diṭṭhi は「私」を基準にした、自分の考え方にしがみつく精神作用です。「私の意見」は、あくまで「私の主観的な考え」に過ぎず、事実ではなく、決定的なものではない判断・視点・陳述です。
そもそも論として宇宙には、善も悪も、正しいも間違っているも、ポジティブもネガティブもありません。 私たちが善とか悪とか決めるのも、宇宙的に見れば、ごく一部の主観に基づいた偏った考え(ディッティ)に過ぎないのです。 善も悪も、時代や社会通念によって大きく異なり、尚且つ常に変化しているので、絶対的な善や悪は宇宙にはないのです。
だから主体(私)と客体(他)という2つがあるという世界観は幻想であり、どんな素晴らしい意見も、偏った考え=偏見なのです。 人が自分の意見を持つこと自体は、それほど問題ではないのですが、人は特定の考え方を好み、こだわってしまうものです。 何でもないちょっとした意見でも、他から否定されると「えっ」と思ったり、傷ついたりするのは、「私」の意見という思いがあるからです。 「私」が否定されたように思って、不快に感じるのです。
ディッティが働くと、心の自由さがなくなり、心は狭く小さくなります。 人が何かを「正しい」と決めつける時には、同時にローバ(欲)が必ず作用して、「私」がいます。 ローバ(欲)は「私が気に入ったもの」を受け入れること。ディッティ(意見)は、その受け入れたことに、しがみつく精神作用です。
7. māna(マーナ)慢心
Māna は「私」を基準に、他と比較する精神作用です。
人は「私」という思いが生じると同時に、他者と比較をはじめます。自分と他者を比べることも、ローバ(欲)から生まれます。自分のことが好きだから比べるのです。好きな自分の立場を守りたいというローバの気持ちが同時に働きます。
マーナは、3種類あります。自分が他よりも優れる、劣る、同じと思う気持ちの3つです。 優越感や劣等感がダメなのはわかりやすいですが、同等と思うのもダメです。そこに比較する基となる「私」が存在するからです。比較する事自体が問題なのではなく、自分と他を分けて考えることが問題なのです。
マーナはイッサー(嫉妬)に似ていますが、嫉妬は怒りの心で、もっと破壊力の強い精神作用です。
怒りの精神作用(4)
「怒り」のグループの精神作用は、怒り・妬み・物惜しみ・後悔の4つです。対象を拒否するエネルギーです。4つが同時に生じることはなく、怒りだけ、怒り+妬み、怒り+物惜しみ、怒り+後悔の4パターンです。
8. dosa(ドーサ)怒り
Dosa は、外からの刺激に対して「嫌だ」と反発する怒り・嫌悪の精神作用です。怒りになる前のかすかな「やだな」も含みます。
一見、ローバ(欲)は明るい心で、ドーサ(怒り)は暗い心のように感じますが、欲も怒りも、好きか嫌いかという自己中心的な心なので、どちらも暗く狭い心です。自分が好きな対象にはローバが生じ、嫌いな対象にはドーサが生じる違いだけです。
怒ると嫌な気分になるから、心は怒りを好まないかというと、決してそうではありません。心は常に刺激を求めています。欲も怒りも、結局は刺激なのです。
9. issā(イッサー)妬み・嫉妬
Issā は、妬み・嫉妬の精神作用です。嫉妬は自分にないものによって生じる怒りです。 自分にないものが他者にあるという状態に対する怒り、自分より優れた人を見て、自分にないものに対して妬んで怒るのがイッサーです。 優れた人を見て「優れた人だ」と思うことはイッサーではありません。その人に対して怒りの心が生じるのがイッサーです。
「私が正しい。私が一番」という認識がまずあり、そこから嫉妬が生じます。 優れた人を見たら、それを素直に「いいね」と喜べばいいだけです。どんなに優れていても、それはその人の一面に過ぎません。
10. macchariya(マッチャリヤ)物惜しみ
Macchariya は、自分のものを与えるのは嫌だという怒りの精神作用です。イッサーと反対に、自分にあるものによって生じる怒りです。
自分の時間を人のために使いたくない。情報を教えたくない。人が自分の家に来るのを嫌がる。熱心に修行をしている人が、他者も修行をしようとしたらおもしろくない。これらはすべてマッチャリヤです。簡単に言えば「ケチ」ですが、自分のものだと思うものに対して、他者に触らせたくないという排他的な気持ちです。
さらに、自分でも使いたくないし、他者にも使わせたくない、できれば大事にしまっておきたいという気持ちがあれば、それは病的な心です。マッチャリヤは、自分の幸福をむしばみ、今世だけでなく輪廻の中でどんどん不幸になって堕落していく精神的な病です。
この世にも他の世にも「私のもの」はどこにもありません。すべてが「借りもの」です。使うために与えられたもので、自身の肉体もこの世限りの「借りもの」です。だから「私のものはあまり使いたくない。他者が使うのも嫌だ」と思う人は、与えられたものを使わない人生となるので、よくよく気をつけた方がいいのです。
11. kukkucca(クックッチャ)後悔
Kukkucca は、自分の失敗に対して、自分に怒る精神作用です。 これは大変危険で、強く暗いエネルギーです。 まず、「どうしてあんなことをしてしまったのか」と悩むことで、そこで心も身体も活動が止まり、成長して進んでいけなくなります。 さらに「失敗した」と思い出すたびに印象が強くなり、記憶がどんどん深く心に刻まれていきます。自分がしてしまった悪行を思い出すことは、悪行を重ねることと同じなのです。
人間は失敗から学びを得る生命体です。 失敗から学んでいい勉強になった、と次に生かせばいいのです。 後悔したところで現実は変わりません。 失敗したままです。 わざわざ反芻して暗い心を育てるよりも、正直に認める明るい心をつくる方がいいのです。 失敗してもそれを認めて前向きにがんばる人、自分の失敗を堂々と明るく言える人は、後悔しません。
その他の精神作用(3)
その他の不健全な精神作用として、無気力・眠気・疑いの3つがあります。
12. thīna(ティーナ)心が沈む(無気力)
Thīna は、心が沈んで無気力で弱くなる精神作用です。心に活発なエネルギーがなくなり、やる気がしぼんだ状態です。 瞑想修行をしていても、ティーナが出てくるとやる気がなくなります。本来、正しく瞑想を実践していれば、どんどん元気になってやる気が出てくるものです。やる気がなくなったり、眠くなったりするということは、心のどこかに欲・怒り・無知があるということになります。
怒りや欲で仕事をすると、疲れてどんどんエネルギーがなくなります。「嫌だな」と思った途端にティーナが出て、ストレスがたまります。だからといって無理矢理頑張ってもダメで、大切なのはその心に気づくことです。「私は疲れて嫌になって、やる気がなくなっている……ということは、欲や怒り、無知の心があるのか?」と自分の心をよく観察します。そうすると自然にいい方向に進めるようになります。
13. middha(ミッダ)心を鈍らせる(眠気)
Middha は、眠気です。睡眠が足りていても、心の機能が鈍くなると、外からの刺激を認識したくなくなり、眠くなります。 心が鈍くなると、サティ(気づき)も鈍くなり、瞑想ができなくなります。ちょっとでもこのミッダがあることに気づいたら、まだ弱いうちに切るようにします。
ティーナとミッダは一緒に出てくることが多く、どちらも行動力がなくなり、やる気がなくなっていく暗いエネルギーです。
14. vicikicchā(ヴィチキッチャー)疑念
Vicikicchā は、あることが、本当かどうかと疑う精神作用です。 疑念には2種類あります。1つは、「これは事実だろうか」と自分で納得いくように、確認しようとする明るい疑いです。もう1つは、自分が騙されないように、損しないようにする暗い疑いです。 Vicikicchā は後者の暗い疑いです。対象を理解しようとせず、信用せず、事実をありのままに見ようとしない態度です。心を閉ざした状態で、心の進歩を止めてしまいます。
心に vicikicchā があると、精神的に不安定になり、真理を理解するどころではありません。逆に、明るい疑いは、疑問をもってとことん調べてから、「これは信じない」「これはわからない」という結論を出すことで、これは心を育てる行為です。
不健全な精神作用の制御方法
以上の14種類が不健全な心の精神作用です。 私たちが抱くストレスや悩み苦しみは、この14の不健全な精神作用によって生じます。つまり、この精神作用を制御できたら、悩み苦しみを消すことができるのです。
どうすれば、不健全な精神作用をコントロールできるのでしょう?
気づくことです。自分の心に不健全な精神作用が生じた時に、心に不健全な要素があると気づくのです。心を常に観察し、心に自動的に湧き上がる精神作用が14のどれなのかを確認するのです。 例えば、何か気に入らないことがあって怒りが生じたら、「〇〇に接触し、受け入れたくないと感じて、心に怒りの精神作用が生じている」とただ気づくだけでいいのです。
この時、怒りを抑えようとしたり、反省したりする必要はありません。余計なことをすると新たな精神作用を生じることになり、難しくなるだけです。何も反応せず、ただ「怒りが生じている」とありのままに観察し続けるのです。「これは不健全な作用だ」と判断する必要もありません。浮かぼうとする考えや判断を脇に置いて、ただただそのまま怒りの感覚を観察するのです。するとその精神作用は自然に消滅していきます。これが自然の法則です。
瞑想者の注意点
瞑想者であれば、瞑想中に眠くなった経験があると思います。そんな時、眠気と戦っていると、自分でも気づかないうちに怒りが生じることがあるのです。これでは逆に不健全な精神作用を育てることになりかねません。
瞑想で大切なのは、心が反応を止めて、欲・怒り・無知の精神作用が少なくなっていくかどうかです。せっかく瞑想をしても、怒りや慢心が大きくなる場合もあるのです。52の精神作用を詳細に理解して、自分の心の状態をきちんと把握することが、とても大切です。