13. Sammāparibbājanīyasuttaṃ 正しい遍歴 ②
SN-2-13-370
‘‘Sāruppaṃ attano viditvā, 適切 自分は 知って no ca bhikkhu hiṃseyya kañci loke; ない また 比丘 傷つくならば 誰も 世に Yathā tathiyaṃ viditvā dhammaṃ, ように 真実を 知って ダンマを sammā so loke paribbajeyya. 正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう
比丘はこの世で誰も傷つけず
自分が適切かを理解している
真実の通りにダンマを理解して
正しく世間を渡り歩くだろう。
解説
「適切」の基準は何でしょう。「誰も傷つけない」とあるので、まずは五戒を守ることだと思います。「殺さない・盗まない・嘘をつかない・不適切な性行為をしない・酒や薬などで酩酊しない」の5つです。これらを守らないということは、誰かを傷つけることになり、不適切な行為です。「正しいか、間違っているか」よりも、わかりやすいですね。
SN-2-13-371
‘‘Yassānusayā na santi keci, 人に・潜在的気質 ない 寂静 誰でも mūlā ca akusalā samūhatāse; 根が と 不善の 除去した So nirāso anāsisāno, 彼は 欲なき ない・求める sammā so loke paribbajeyya. 正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう
悪意は根こそぎ絶たれ
心の奥底に穢れはなく
誰に対しても穏やかで
欲も願いもない人は
正しく世間を渡り歩くだろう。
解説
Anusaya(アヌサヤ)は、心の深層の気質、先天的に備わった感情の反応傾向、反応特性です。本人も気づいていない潜在的な性質のことです。この性質は普段は感じませんが、適当な縁に接触すればすぐに現れます。
例えば、リンゴの種には、リンゴの実はついていませんが、種を土に埋めて、水と空気が循環し、太陽が降り注げば、果実を実らせる反応特性があります。これが潜在的な性質です。そしてリンゴの種から、ブドウは実りません。リンゴには、リンゴの実をつける潜在的な性質があり、ブドウの房を実らせる性質は持っていないからです。
このように今は表面化していなくても、条件が揃えば表面化する可能性のある「潜在的な性質」は、人それぞれです。これは、それまでの長い輪廻の中で蓄積してきた反応特性なので、悪い気質が多い人もいれば、少ない人もいます。だからといって、ガッカリする必要はありません。それを理解して、自分にはそういう性質があることに気づいていれば、悪い反応が出てしまった時にも、すぐに抑えることができるようになります。
ブッダにはこの潜在的な性質を見抜く力がありました。だからその人が何に気づいて修行すればいいか、的確にアドバイスができたのです。ブッダ の時代には大勢の修行者がアラハンになったのも、そのためです。
SN-2-13-372
‘‘Āsavakhīṇo pahīnamāno, 穢れ・尽きた 捨てた・慢心 sabbaṃ rāgapathaṃ upātivatto; すべての 欲望の・道を 逃れた Danto parinibbuto ṭhitatto, 訓練された 完全・涅槃は 自制 sammā so loke paribbajeyya. 正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう
穢れが尽きた人
慢心を捨てた人
あらゆる欲の道を逃れた人
訓練された自制心をもって
完全なる涅槃に到達した人は
正しく世間を渡り歩くだろう。
解説
「Māna(マーナ)慢心」おごる気持ちは実は、欲や怒りよりも根強く心に残る性質です。悟りの第3段階に到達して、欲や怒りを完全に滅尽したアナーガーミーでも、この慢心と散漫(uddhacca)が最後まで残ります。
慢心は比較する心です。なにかを成し遂げた時に「やった!」という気持ちになりますが、その時、成し遂げた「私」がいると同時に、成し遂げていない他者が暗に存在し、そこには比べる自分があり、優越を感じているようです。
SN-2-13-373
‘‘Saddho sutavā niyāmadassī, 確信した 見聞した 決定・見た vaggagatesu na vaggasāri dhīro; 群れに・至って ない 群れに・本質 賢明な人は Lobhaṃ dosaṃ vineyya paṭighaṃ, 欲を 怒りを 制するなら 恨みを sammā so loke paribbajeyya. 正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう
学び、確信を得て
聖なる道に入った賢い人は
仲間がいても群れることなく
欲や怒り憎悪を制して
正しく世間を渡り歩くだろう。
解説
「niyāma 決定(けつじょう)」は、悟りの第一段階(ソータパンナ)に入り、いずれは必ず悟ることが決定したという意味です。まだアラハンにはなっていませんが、下界に生まれ変わることはない聖者です。
「paṭigha 恨み」は「dosa 怒り」の一種ですが、自分の意に背くことへの恨み・憎しみなど憎悪の感情です。
同じ怒りでも「kodha 憤怒」は、カッと怒ってすぐに収まる怒り、家族や友人などに向かう怒りですが、見くびる気持ちから発生する怒りです。一方、「paṭigha 恨み」は、自分の思い通りにならないことへの悔しさや憤り、周囲への憎しみ、相手に対しての妬みの心など、複数の気持ちが積み重なった怒りです。
SN-2-13-374
‘‘Saṃsuddhajino vivaṭṭacchado, 純粋な・勝者は 脱ぐ・覆いを dhammesu vasī pāragū anejo; ダンマにおいて 自在な 彼岸に渡った 不動の人は Saṅkhāranirodhañāṇakusalo, 反応の・滅尽・智慧・善の人は sammā so loke paribbajeyya. 正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう
ダンマにおいて意のままに
彼岸に渡った人、動じない人
逃げも隠れもせず堂々として
純粋なる勝者は
反応を止めて
智慧のある善なる人は
正しく世間を渡り歩くだろう。
解説
vivaṭṭacchado:ベールを脱ぐ人。chadaは「蓋・覆い・屋根」という意味です。人には逃げたがる、隠れたがる習性がありますが、心の浄化を終えた人は、何があっても堂々として逃げも隠れもしません。
SN-2-13-375
‘‘Atītesu anāgatesu cāpi, 過去において 未来において そして・また kappātīto aticcasuddhipañño; 時間を・超え 極めて・清浄・智慧 Sabbāyatanehi vippamutto, 全ての・入る処から 解放された人 sammā so loke paribbajeyya. 正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう
過去も未来も
時間を超えて
純粋な智慧を極めて
すべての感覚器官から
解放された人は
正しく世間を渡り歩くだろう。
解説
私たちの心は、常に「今ここ」にはありません。心は常に、過去の思い出や、未来の期待や不安に忙しく飛び回っています。このことは瞑想をするとよくわかります。私たちの心は、主人の言うことを聞かず、かたときもジッとしていられないのです。
Sabbāyatanehi:sabba(すべての)āyatana(入る処)とは、人が外部からの刺激を感受する6つの感覚器官(目耳鼻口身心)です。
SN-2-13-376
‘‘Aññāya padaṃ samecca dhammaṃ, 了知して 歩みを 身に付けた ダンマを vivaṭaṃ disvāna pahānamāsavānaṃ; 明らかに 見て 捨離を・煩悩の Sabbupadhīnaṃ parikkhayāno, すべての・所依を 消滅する人は sammā so loke paribbajeyya’’. 正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう
煩悩の放棄を明らかに見て
ダンマを身につけて
歩む道を悟り
一切の拠り所を滅するならば
正しく世間を渡り歩くだろう。
解説
「pada(パダ):足・ 足跡・歩・ 句・語法」をどう訳すかが難しいところですが、13章「正しい遍歴」の最後の言葉なので、「遍歴」と「歩み」をかけた掛詞(かけことば)なのでは、と解釈して「padaṃ(歩む道を)」としました。
この歩む道は、現実的に歩く道程であり、その道中に起こる様々な事象であり、真理を学ぶステップでもあり、悟りの段階でもあり、読み手の心の状態に応じて、解釈が変化するのではないかと考えました。ブッダの語る言葉は、一語対一語の訳語があるわけではなく、どのパーリ語も一語対十訳語くらいの幅があります。読み手が、これは自分のことだと思い当たる訳語が、まさに適切な言葉なのだと思います。
「一切の拠り所を滅する」は、最終的には、一切の心の拠り所を消し去り、涅槃に至るということだと思いますが、ここでは正しい遍歴のあり方として、「誰かに頼ったり、何かを当てにしたり、甘えたりすることは一切なく」ということではないでしょうか。
SN-2-13-377
‘‘Addhā hi bhagavā tatheva etaṃ, 真に 実に 世尊よ その通り これは yo so evaṃvihārī danto bhikkhu; 人は 彼は このように・生活 ならされた 比丘 Sabbasaṃyojanayogavītivatto, 全ての・束縛・ない軛・超えた人は sammā so loke paribbajeyyā’’ti. 正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう と
世尊よ、
まことに実にその通りです。
訓練された比丘として
このように生活し
すべての束縛を克服したならば
正しく世間を渡り歩くでしょう。
とブッダに言いました。
解説
ブッダに対しての発言ですが、発言者はブッダの化身です。
Sammāparibbājanīyasuttaṃ terasamaṃ niṭṭhitaṃ. 正しい・遍歴・スッタ集 13番目の 終わり
13. 正しい遍歴のスッタ集 終わり
まとめ
これが古代インドにおける、75歳を過ぎてからの理想的な生き方です。いかがでしたか? 老後資金をファイナンシャルプランナーに相談して、老後のライフプランを設計するよりも、この生き方の方が素晴らしい、と思える日本人がどれだけいるでしょうか。
決して多くはないかもしれませんが、私は「やってみようかな、インドで」と思っています。大してないお金を心配して、しみったれて生きるよりも、もうドーンと捨てて、笑顔で晴々と乞食行脚する。今はまだそこまで思い切れませんが、75歳過ぎてなら、もう何でもできそうな気がします。