第3章 大きな章:6. サビヤ① 515〜517

6. Sabhiyasuttaṃ サビヤのスッタ集 ①

ブッダが教えを説きはじめた初期の頃のスッタ集です。Sabhiya(サビヤ)という名の遍歴行者が、天神から授かった質問に答えてもらうために、当時のインドで有名だった6人の師六師外道)のもとを訪ねました。しかし誰もまともに答えてくれなかったので、最後に若いゴータマ・ブッダのもとを訪ねた際のやりとりです。

前文

Evaṃ me sutaṃ – 
このように 私は 聞きました
ekaṃ samayaṃ bhagavā rājagahe viharati veḷuvane kalandakanivāpe. 
ある 時 世尊は ラージャガハの 滞在した 竹林の 精舎に

Tena kho pana samayena sabhiyassa paribbājakassa 
それ故 時に しかも 集会 サビヤ 遍歴行者
purāṇasālohitāya devatāya pañhā uddiṭṭhā honti – 
昔の・血縁者 神々から 質問 指示された 存在
"yo te, sabhiya, samaṇo vā brāhmaṇo vā ime pañhe puṭṭho 
人は 君 サビヤ 沙門 或は バラモン 或は 全ての 質問 尋ねる
byākaroti tassa santike brahmacariyaṃ careyyāsī"ti.
答える その 元で 梵行 生活 と

Atha kho sabhiyo paribbājako tassā devatāya 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の その 神々から
santike te pañhe uggahetvā ye te samaṇabrāhmaṇā 
元で 彼に 質問 学んで 彼らを それを 沙門とバラモンに 
saṅghino gaṇino gaṇācariyā 
サンガを有する 衆主 群集の師
ñātā yasassino titthakarā sādhusammatā bahujanassa, 
有名で 権威がある 教祖 誉高い人 大衆から 
seyyathidaṃ – 
そのような人を
pūraṇo kassapo makkhaligosālo ajito kesakambalo 
プーラナ-カッサパ マッカリ・ゴーサーラ アジタ-ケーサカンバリン
pakudho kaccāno sañcayo belaṭṭhaputto nigaṇṭho nāṭaputto, 
パクダ-カッチャーヤナ サンジャヤ-ベーラッティプッタ ニガンタ-ナータプッタ
te upasaṅkamitvā te pañhe pucchati. 
彼は 赴いた 彼に 質問を 問う

Te sabhiyena paribbājakena pañhe puṭṭhā na sampāyanti; 
彼らは サビヤによる 遍歴行者の 質問 尋ねる ない 解答できる
asampāyantā kopañca dosañca appaccayañca pātukaronti. 
ない・解答 激怒・と 怒り・と 不機嫌・と 顕在
Api ca sabhiyaṃ yeva paribbājakaṃ paṭipucchanti.
さらに また サビヤに ちょうど 遍歴行者に 逆に・問うた

Atha kho sabhiyassa paribbājakassa etadahosi – 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の こう考えた 
"ye kho te bhonto samaṇabrāhmaṇā 
彼らを 時に それを 沙門とバラモンに
saṅghino gaṇino gaṇācariyā 
サンガを有する 衆主 群集の師といった
ñātā yasassino titthakarā sādhusammatā bahujanassa, 
有名で 権威がある 教祖 誉高い人 大衆から
seyyathidaṃ – 
そのような人を
pūraṇo kassapo…pe… nigaṇṭho nāṭaputto, 
プーラナ-カッサパ…略…ニガンタ-ナータプッタ
te mayā pañhe puṭṭhā na sampāyanti, 
その 私は 質問を 問う ない 解答できる
asampāyantā kopañca dosañca appaccayañca pātukaronti; 
ない・解答 激怒・と 怒り・と 不機嫌・と 顕在
api ca maññevettha paṭipucchanti. 
さらに また 私は思う 逆に・問うた
Yannūnnāhaṃ hīnāyāvattitvā kāme paribhuñjeyya"nti.
私は〜したらどうだろう 還俗して 快楽に 楽しむ と

Atha kho sabhiyassa paribbājakassa etadahosi – 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の こう考えた
"ayampi kho samaṇo gotamo 
では・もし 時に 沙門の ゴータマは 
saṅghī  ceva gaṇī ca gaṇācariyo ca 
サンガを有する そして・また 衆主 そして 群集の師 そして
ñāto yasassī titthakaro sādhusammato bahujanassa; 
有名で 権威がある 教祖 誉高い人 大衆から
yaṃnūnāhaṃ samaṇaṃ gotamaṃ 
私は〜したらどうだろう 沙門の ゴータマに
upasaṅkamitvā ime pañhe puccheyya"nti.
赴いて これらの 質問を 問う と

Atha kho sabhiyassa paribbājakassa etadahosi – 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の こう考えた
"yepi kho te bhonto samaṇabrāhmaṇā jiṇṇā vuḍḍhā 
彼に・もし 時 それ 尊い 沙門・バラモン 老いた 年長の 
mahallakā addhagatā vayoanuppattā therā rattaññū cirapabbajitā 
古参に 年寄りに 高齢の 長老に 長生き 長く勤め
saṅghino gaṇino gaṇācariyā 
サンガを有する 衆主 群集の師 
ñātā yasassino titthakarā sādhusammatā bahujanassa, 
有名で 権威がある 教祖 誉高い人 大衆から
seyyathidaṃ – 
そのような人を
pūraṇo kassapo…pe. … nigaṇṭho nāṭaputto, 
プーラナ-カッサパ…略…ニガンタ-ナータプッタ
tepi mayā pañhe puṭṭhā na sampāyanti, 
その・もし 私は 質問を 問う ない 解答できる
asampāyantā kopañca dosañca appaccayañca pātukaronti, 
ない・解答 激怒・と 怒り・と 不機嫌・と 顕在
api ca maññevettha paṭipucchanti; 
さらに また 私は思う 逆に・問うた
kiṃ pana me samaṇo gotamo 
なぜ であれば 私に 沙門の ゴータマは
ime pañhe puṭṭho byākarissati! 
これらの 質問に 尋ねる 答える
Samaṇo hi gotamo daharo ceva jātiyā, 
沙門は 実に ゴータマは 若い そして・また 生まれ
navo ca pabbajjāyā"ti.
新しい そして 出家者 と

Atha kho sabhiyassa paribbājakassa etadahosi – 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の こう考えた
"samaṇo kho daharoti na uññātabbo na paribhotabbo. 
沙門は 時に 若き ない 軽蔑する ない 見下す
Daharopi cesa samaṇo gotamo 
若いけれど たとえ・かれは 沙門の ゴータマは
mahiddhiko hoti mahānubhāvo, 
大神通力 あり 偉大な・威力
yaṃnūnāhaṃ samaṇaṃ gotamaṃ 
私は〜したらどうだろう 沙門の ゴータマに
upasaṅkamitvā ime pañhe puccheyya"nti.
赴いて これらの 質問を 問う と

Atha kho sabhiyo paribbājako yena 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の そこから
rājagahaṃ tena cārikaṃ pakkāmi. 
ラージャガハに それ故 旅する 出発した

Anupubbena cārikaṃ caramāno yena rājagahaṃ veḷuvanaṃ kalandakanivāpo, 
徐々に 旅行 歩き廻り そこから ラージャガハ  竹林 精舎
yena bhagavā tenupasaṅkami; 
そこから 世尊 それ故・近づいた
upasaṅkamitvā bhagavatā saddhiṃ sammodi. 
近づいた・また 世尊 共に 挨拶する
Sammodanīyaṃ kathaṃ sāraṇīyaṃ vītisāretvā ekamantaṃ nisīdi. 
挨拶したあと 会話を 友好的な 交わす 一方に 座った
Ekamantaṃ nisinno kho sabhiyo paribbājako bhagavantaṃ gāthāya ajjhabhāsi –
一方に 座った 実に サビヤは 遍歴行者の 世尊に 偈で 話しかけた

私はこのように聞きました。

世尊がラージャガハの近く、竹林精舎に滞在していた時のことです。
その頃、遍歴行者のサビヤは、過去世で親族だった天神から、ある質問を示されました。
「サビヤよ、沙門でもバラモンであっても、これら全ての質問に答える人がいたならば、その人について修行生活を送りなさい」。

遍歴行者のサビヤは、天神からこれらの質問を学んだ後、有名で権威があり、弟子がいて、サンガを持つ集団の師や、宗派の教祖、多くの人々から尊敬されている沙門やバラモン、すなわち、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ヴェラッタプッタ、ニガナッタ・ナータプッタ、といった人物のもとへと、質問を問うために赴きました。

しかし遍歴行者のサビヤに尋ねられた質問に、彼らはまともに答えることができず、答えられなかったことで不機嫌になり、サビヤは怒りや反感を買いました。その上さらにサビヤ に反論をぶつけました。

そこで遍歴行者のサビヤはこう考えました。
「有名で権威があり、弟子がいて、サンガを持つ集団の師や、宗派の教祖、多くの人々から尊敬されている沙門やバラモン、すなわち、プーラナ・カッサパやニガナータ・ナータプッタたちは、私にこのような質問をされても、まともに答えることができない。答えられなかった彼らは不機嫌になり、怒りや反感をあらわにして、反論さえしてきた。私はもはや世俗に戻って、人生を楽しんだ方がいいのだろうか?」と。

そして遍歴行者のサビヤはこう考えました。
「そうだ! 沙門のゴータマはどうだ? 有名で権威があり、弟子がいて、サンガを持つ集団の師であり、宗派の教祖で、多くの人々から尊敬されている。彼のところへ行って、この質問をしてみたらどうだろう?

遍歴行者のサビヤはこう考えました。
「プーラナ・カッサパやニガナータ・ナータプッタといった尊い沙門やバラモンは、有名で権威があり、弟子がいて、サンガを持つ集団の師であり、宗派の教祖だが、私にこのような質問をされても答えることができなかった。答えられなかった彼らは不機嫌になり、怒りや反感をあらわにし、反論さえしてきた。彼らは老いた年長の古参の年寄りで、経験豊富で長生きした高齢の長老だ。
であれば、沙門のゴータマにこれらの質問をしてみよう!
沙門のゴータマはまだ歳も若いし、世に出たばかりの新しい出家者だ。

さらに遍歴行者のサビヤはこう考えました。
「沙門のゴータマなら若いから、軽蔑したり、見下すこともない。たとえ若くても、彼はすごい神通力と偉大な力を持っている。沙門のゴータマ のところへ行って、質問してみよう」

こうして遍歴行者のサビヤは、ラージャガハに向かって旅立ちました。少しずつ旅程を歩き、ラージャガハの世尊のいる竹林精舎へと到着しました。それから世尊に近づいて挨拶を交わしました。友好的な挨拶と礼儀を交わした後、彼は一方に座りました。一方に座った遍歴行者のサビヤは、世尊に詩句で話しかけました。

解説

サビヤが最初に訪ねた6人は、当時のインドで「六師外道」と呼ばれた高名な指導者・自由思想家たちです。

六師外道(ろくしげどう)

プーラナ・カッサパ:「人には永遠の魂があり、たとえ人が死んでも魂がなくなることはない」として、「だからどんな行為をしても魂に影響を与えず、善にも悪にもならない」と因縁や業を否定する道徳否定論を説きました。

マッカリ・ゴーサーラ:アージーヴァカ教の教祖。「運命がすべてを決定している」という徹底的な宿命論を説き、意志に基づく行為や、修行による解脱も否定した人です。その主張は「人間の努力はすべてが無駄」というもので、ブッダは彼を最も危険で下等な教えと厳しく批判したそうです。アージーヴァカ教は現在しませんが、一時期はバラモン教やジャイナ教、仏教と並ぶ一大宗教だったそうです。

アジタ・ケーサカンバリン快楽・享楽主義者。バラモン的な宗教行為は無意味で、現世における生を最大限に利用して、それを楽しみ、幸福をそこから得るべきとした人です。ただし、楽しみには悲しみがつきものであり、それはある程度覚悟しなければならないし、悲しみを恐れて喜びから退いてはならず、たまに訪れる悲しみもまた、現世での幸福のためには喜んで受け入れることも必要だと説いています。

パクダ・カッチャーヤナ:人間は「地・水・火・風」の四元素+苦・楽・霊魂の3つの精神、合わせて7つの要素の集合体であり、それらは不変不動で相互の影響はない、という要素集合説を説きました。「たとえ頭を断ち落としたとしても、それは単に7つの要素の間隙に剣先が落ちるにすぎない。誰かが誰かの命を奪うということにはならない」という絶対的な実体論を主張し、行為に善悪の区別はないという考えでした。これは同時に「人間には何の力もなく、精進による解脱を望んでも無駄」という考えで、これもブッダによって批判されています。

サンジャヤ・ベーラッティプッタ:真理をあるがままに認識し、説明することは不可能であるとする不可知論者。何事も判断を中断し、「私はそうであると考えないし、そうではないとも考えない」と明確な答えを避ける人でした。ブッダの二大弟子であったサーリプッタとモッガラーナは、元々このサンジャヤの弟子でした。詳細はこちら

ニガンタ・ナータプッタ:ブッダと似た境遇で、マガタ国内の小国の王子でありながら、30歳で出家したニガンタ派の沙門で、ジャイナ教の最後(24番目)の祖師です。すべての所有物を放棄し、裸体に空気をまとって12年間激しい苦行と瞑想を行ない最終的に、ジュリンビカの沙羅双樹の下で解脱した人です。その後、30年間、裸体で教えを説き広め、マハーヴィーラ(偉大な勇者)と呼ばれ、72歳で断食したまま入滅しました。

精神の自由」を説き、バラモンによる祭祀を認めず、多数の動物を殺して神々への生贄とする供儀を厳しく批判しました。ヴェーダの権威主義やカースト制を批判し、合理的で実践的な教えを具体的に示したり、宇宙創造神や絶対の原理を否定する点でも、ブッダの教えと共通点が多い人です。

また、バラモンが説明できなかった(カルマ)についても、「業とは、身・口・意によって為した行為であり、それによって微細な物質が精神に流れ込んで、輪廻の生存が繰り返される。したがって、前世からの古い業を苦行によって滅し、新しい業が流れ込まないようにすれば、輪廻は終わり解脱に至る」と明らかにしました。

ニガンタの教えの中で興味深いものは、「物質は原子からなり下降性があるのに対し、精神には上昇性がある」として、「悪業には物理的な重さがあり、悪業を多く含んだ精神は、束縛されて精神が本来もつ上昇性が妨げられ、地獄・畜生・人間・天界の4つの世界をさまよう。解脱した精神には束縛がなく、上昇性は妨げられない」とする考えです。そして「善行や戒律(ブッダと同じ五戒)を守った生活を送ることによって、この上昇性を解放すると、精神は世界の頂上にたどり着いて平穏の境地に達することができる」としています。

ブッダの教えとの違いは、ブッダが中道を説くのに対し、マハーヴィーラは禁欲・苦行主義だったことです。「生きものが生きものによって傷つけられる」苦悩の生き方について深く思慮し、厳格な不殺生・無性有を実施して、自ら厳しい苦行を実践しました。これは現在のジャイナ教に受け継がれ、水にいる微生物のために水濃し布を用いたり、根菜や蜂蜜も忌避することからも、その厳格さが伺えます。

***

以上の6人が、ゴータマ・ブッダと同時代のインドで、マガタ地方を中心に活躍した古代インド思想家です。仏教から見て「異端正統から外れている」ということで「六師外道」と呼ばれています。

SN-3-6-515

"Kaṅkhī vecikicchī āgamaṃ, 
疑い 不安 到来
(iti sabhiyo)
と サビヤ
Pañhe pucchituṃ abhikaṅkhamāno;
質問に 尋ねる 望んで
Tesantakaro bhavāhi pañhe me puṭṭho,
その・終止符 して 質問に 私に 問われた
Anupubbaṃ anudhammaṃ byākarohi me".
従い・順序に 従い・ダンマに 答えなさい 私に

サビヤ:
疑念と不安の心持ちで
やって来ました。
お尋ねしたい質問があります。
私が尋ねる質問に順番に
ダンマに従って答えて
どうか解決してください。

SN-3-6-516

"Dūrato āgatosi sabhiya, 
遠くから 到来した サビヤよ
(iti bhagavā)
と 世尊は
Pañhe pucchituṃ abhikaṅkhamāno;
質問に 尋ねる 望んで 
Tesantakaro bhavāmi pañhe te puṭṭho,
その・終止符 する・私は 質問に あなたに 問われた
Anupubbaṃ anudhammaṃ byākaromi te.
従い・順序に 従い・ダンマに 答える・私は あなたに

ブッダ:
尋ねたい質問があり
遠くからやって来たサビヤよ、
あなたに質問されたら
ダンマに従って順番に
私が答えて解決しますよ。

SN-3-6-517

"Puccha maṃ sabhiya pañhaṃ, 
尋ねよ 私に サビヤ よ 質問を
yaṃ kiñci manasicchasi;
その 何でも 心に・望む
Tassa tasseva pañhassa, 
それ それ・或は 質問に対して
ahaṃ antaṃ karomi te"ti.
私は 終りを つくる あなたの・と

サビヤよ、
何でも心の中で思うことを
私に質問しなさい。
それぞれの質問に
私が答えて解決します。

散文

Atha kho sabhiyassa paribbājakassa etadahosi – 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の こう考えた
"acchariyaṃ vata, bho, abbhutaṃ vata, bho! 
希有の 実に 君よ 未曾有の 実に 君よ
Yaṃ vatāhaṃ aññesu samaṇabrāhmaṇesu
人 実に・私は 他の 沙門・バラモンによって
okāsakammamattampi nālatthaṃ taṃ me idaṃ 
許可・少し・さえも 意思・自己の あなた 私の ここで 
samaṇena gotamena okāsakammaṃ kata"nti. 
沙門の ゴータマ 許可 なされた と
Attamano pamudito udaggo pītisomanassajāto 
敵う・心に 嬉しい 気持ちが上がり 喜悦
bhagavantaṃ pañhaṃ apucchi –
世尊に 質問を 尋ねた

遍歴行者のサビヤはこう思いました。

「なんとも驚くべきこと、すごいことになったぞ! 他の沙門やバラモンのところでは、訊くことさえ許されなかったのに、沙門のゴータマは自らの意思で、私を受け入れてくれた」

満足して感動し、心が躍り、感激して、ブッダ に質問しました。

解説

これまで六師外道を訪ねた際には、こんな優しい言葉どころか、罵声を浴びせられたり、馬鹿にされたり散々だったのでしょう。ついに、答えてくれそうな本物が見つかりました。

続く「6. サビヤ②」で、サビヤの質問とそれに対するブッダの答えがはじまります。