第3章 大きな章:6. サビヤ② 518〜532

6. Sabhiyasuttaṃ サビヤのスッタ集 ②

サビヤ の質問が始まります。サビヤ は4つずつブッダ に質問し、ブッダが順番に答えていきます。

SN-3-6-518

"Kiṃ pattinamāhu bhikkhunaṃ, 
何を 得た・言う 比丘と
(iti sabhiyo)
と サビヤは
Sorataṃ kena kathañca dantamāhu;
温和な 何か どうして・また 訓練された・という
Buddhoti kathaṃ pavuccati,
覚者・と どうして 呼ばれるのか
Puṭṭho me bhagavā byākarohi".
尋ねます 私に  世尊よ 答えてください

サビヤ:
比丘とは何を得た人ですか?
温和な人とは?
訓練された人とは?
どうすれば覚者と
呼ばれるのですか?
世尊よ、お尋ねします。
私に答えてください。

解説

サビヤ は4つの質問をしました。いままで、当たり前のようにブッダが何度も説いた人物像ですが、改めて考えてみると、確かに「比丘」とか「温和な人」ってなんでしょう?

SN-3-6-519

"Pajjena katena attanā, 
道によって 成した 自分で
(sabhiyāti bhagavā)
サビヤよ と・ブッダ
Parinibbānagato vitiṇṇakaṅkho;
完全な涅槃に至り 越えた・疑いを
Vibhavañca bhavañca vippahāya,
非存在を・と 存在を・と 捨てて
Vusitavā khīṇapunabbhavo sa bhikkhu.
住む 尽きた・再び生存 彼は 比丘

ブッダ:
比丘とは、
自ら成し遂げた道によって
疑念を越えて
完全な涅槃に至った人
有るも無いも放棄して
再生のエネルギーが尽きた人です。

解説

完全な涅槃に至り、再生のエネルギーが尽きた人はアラハンです。比丘とは、出家修行者のことだと思っていましたが、ブッダ的には比丘=アラハンのようです。

SN-3-6-520

"Sabbattha upekkhako satimā, 
一切の処で 平静 気づきある
na so hiṃsati kañci sabbaloke;
ない 彼は 害する 誰か 全ての世界で
Tiṇṇo samaṇo anāvilo, 
渡った 沙門 ない・汚れ
ussadā yassa na santi sorato so.
興奮 人 ない 寂静 温和 彼は

温和な人とは、
どこでも平静で気づきがあり
世界中の誰も害さない人
冷静で穏やかで純粋な心で
(激流を)渡った人です。

SN-3-6-521

"Yassindriyāni bhāvitāni, 
人の・能力が 修習される
ajjhattaṃ bahiddhā ca sabbaloke;
内に 外に そして 全世界に 
Nibbijjha imaṃ parañca lokaṃ, 
嫌気がさす これを 他・と 世界を
kālaṃ kaṅkhati bhāvito sa danto.
死を 待つ 修習した 彼は 訓練された

訓練された人とは、
あらゆる領域で
内的にも外的にも
人の能力を開発して
その能力を習得した人
現世にも来世にも幻滅して
死を待つ人です。

解説

内的には自分の好きとか嫌いといった感覚、外的には見たり聞いたり五感を通して接触する対象=移り変わる現象ですが、それらが人間の認識を超越するということだと思います。

SN-3-6-522

"Kappāni viceyya kevalāni, 
劫を 探索して 全部
saṃsāraṃ dubhayaṃ cutūpapātaṃ;
輪廻を 両方を 死・再生を
Vigatarajamanaṅgaṇaṃ visuddhaṃ, 
塵を離れて・穢れのない 純粋な
pattaṃ jātikhayaṃ tamāhu buddha"nti.
得た人を 生の滅尽を それを・言う 覚者 と

覚者とは、
死と誕生を繰り返す
果てしなく長い時を探索して
塵や汚れのない純粋な心で
生きる力が尽きた人です。

解説

Kappa(カッパ):時・劫(非常に長い時間)・世界周期(イオン)・適当・許し、といった意味があります。死と誕生は、人にとっての最大の怖れです。

散文

Atha kho sabhiyo paribbājako bhagavato 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の 世尊の
bhāsitaṃ abhinanditvā anumoditvā 
語った 対して・喜び・また 従い・喜び・また
attamano pamudito udaggo pītisomanassajāto  
敵う・心に 嬉しい 舞い上がり 喜悦
bhagavantaṃ uttariṃ pañhaṃ apucchi –
世尊に さらに 質問を 尋ねた

遍歴行者のサビヤは
世尊が語った言葉に喜び
また感謝しました。
満足して感動し
心が躍り感激して
世尊 に続けて質問しました。

解説

サビヤは4つの質問をし、ブッダはそれに沿って、順番に答えてくれました。続けて、2回目の質問をはじめます。

SN-3-6-523

"Kiṃ pattinamāhu brāhmaṇaṃ, 
何を 得た・言う バラモンと
(iti sabhiyo)
と サビヤは
Samaṇaṃ kena kathañca nhātakoti;
沙門 何 どうして・また 浄行者・と
Nāgoti kathaṃ pavuccati,
ナーガ・と どうして 呼ばれるのか
Puṭṭho me bhagavā byākarohi".
尋ねます 私に  世尊よ 答えてください

バラモンとは何を得た人ですか?
沙門とは?
浄化された人とは?
どうすればナーガと
呼ばれるのですか?
世尊よ、お尋ねします。
私に答えてください。

解説

2回目の質問は、バラモン、沙門、浄化された人、ナーガについての4つです。

SN-3-6-524

"Bāhitvā sabbapāpakāni, 
追放し すべての・罪を
(sabhiyāti bhagavā)
サビヤよ と・ブッダ
Vimalo sādhusamāhito ṭhitatto;
離垢の よく尊敬された 自制
Saṃsāramaticca kevalī so,
輪廻を・超えて 完全な 彼は
Asito tādi pavuccate sa brahmā.
とらわれない そのような人 言われる 彼は バラモン

ブッダ:
サビヤよ
バラモンとは、
すべての悪行為を追放し
自制心があり心に汚れがなく
よく尊敬される人
輪廻を超えて完成した
とらわれない人です。

解説

バラモンは、当時も今も世俗的には、カーストによって決まる身分です。しかしブッダ にとっては、生まれで決まるものではなく修行を完成したアラハンです。

SN-3-6-525

"Samitāvi pahāya puññapāpaṃ, 
静まった人 捨て 徳と罪を
virajo ñatvā imaṃ parañca lokaṃ;
離塵 知って これ 他の・と 世界を
Jātimaraṇaṃ upātivatto, 
生・死を 越えた人
samaṇo tādi pavuccate tathattā.
沙門と そのような 言われる そういう状態

沙門とは、
心が鎮まり善と悪を捨て
塵ひとつなく
この世と他の世界を知り
生と死を超えた人です。

解説

Samaṇa(サマナ)沙門とは、高尚・宗教的な目的のために、質素・禁欲な生活をしながら苦労・奮闘する人ですが、古代インドでは、バラモン教以外でこうした活動をする人を、バラモンと区別するために沙門としたようです。

SN-3-6-526

"Ninhāya sabbapāpakāni, 
洗った すべて・罪を
ajjhattaṃ bahiddhā ca sabbaloke;
内に 外に そして 全世界に
Devamanussesu kappiyesu, 
神・人において 許されるに
kappaṃ neti tamāhu nhātako"ti.
許しを 導く 彼は・言う 洗われた人・と

浄化された人とは、
あらゆる領域で
内的にも外的にも
すべての罪を洗い流した人
天界や人間界においても
許すことができる人です。

解説

人は生きていく中で、他者から意地悪されたり、裏切られたりして、次第に他者をありのままに受け入れることができなくなり、純粋な心が穢れていきます。「あの人が、ああ言った」「あの時、こうだった」と過去の不愉快な経験に心が引っ掛かり、それに対する自分の見解が生まれ、その判断を加えて他者を見るようになります。自分を傷つけられないようにするためです。

このスッタでの「すべての罪を洗い流し」は、自分の罪(内的)も他者の罪(外的)もすべてを水に流して、ということだと思います。自分の過ちも他者の過ちも、それを過ちだ、間違っていると認定しているのは自分です。他者の過ちを許すのではなく、他者の過ちに引っかかっている自分を許すということです。

心が洗われる」という言葉があります。穢れた部分が洗われたようにすっきりと落とされて、心が澄み切ったように清浄になることを意味しています。悪いことを考えることがなくなり、明るく、清らかな心になるということです。

人が親切にしている場面を見たり、真心に接したときには、気持ちが明るくなり、前向きになって、「心が洗われた」と思いませんか? 赤ちゃんの純粋無垢な笑顔を見た時や、壮大な自然が目の前に現れた時、あるいはお墓参りを済ませた時など、「心が洗われた」と人は思うものです。穢れた心が、純真に触れることで、よい波動の強い影響を感受するのだと思います。

純真な心は、「今ここ」で、自分にできることをしているだけです。特別なことをしているわけではないのです。私たちは、心が汚れると心に余裕がなくなり、心は過去や未来に逃避して、過去後悔したり嫉妬したり、未来を心配して物惜しみしたりすることで、「今ここ」を見ないようにしているのです。

SN-3-6-527

"Āguṃ na karoti kiñci loke, 
罪行を ない 為す 何でも 世界で
sabbasaṃyoge visajja bandhanāni;
一切の・束縛 投げ出して 結び目を
Sabbattha na sajjatī vimutto, 
一切処に ない 執着する 解脱者
nāgo tādi pavuccate tathattā"ti.
ナーガ そのような 言われる そういう状態 と

ナーガとは
この世でいかなる悪行も行わず
一切の束縛、結びを投げ出して
すべての束縛から逃れ
あらゆる場で執着しない
解放された人です。

解説

Nāga(ナーガ)は、象・蛇を表す言葉で、非アーリア語だそうです。ナーガは、奇跡的な力と大きな力を持ち、英雄的な強さと忍耐の象徴でもあったようです。

散文

Atha kho sabhiyo paribbājako…pe… 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の …略… 
bhagavantaṃ uttariṃ pañhaṃ apucchi –
世尊に さらに 質問を 尋ねた

遍歴行者のサビヤは、…中略…
世尊 にさらに質問しました。

解説

文章が同じなので、中略になりました。4つの質問を2回して、サビヤ はブッダから8つの答えを得ました。次は3回目の質問です。

SN-3-6-528

"Kaṃ khettajinaṃ vadanti buddhā, 
何を 土地・勝者を 呼ぶ 覚者と
(iti sabhiyo)
と サビヤは
Kusalaṃ kena kathañca paṇḍitoti;
善人は 何 どうして・また 賢者・と
Muni nāma kathaṃ pavuccati,
者 名前 どうして 言われる・と
Puṭṭho me bhagavā byākarohi".
尋ねます 私に  世尊よ 答えてください

サビヤ:
覚者は誰を土地の勝者
と呼ぶのですか?
賢者とは? 善人とは?
聖者とはどうしたら
その名で呼ばれるのですか?
世尊よ、お尋ねします。
私に答えてください。

解説

サビヤの3回目の質問は、土地の勝者、善人、賢者、聖者とは?です。

SN-3-6-529

"Khettāni viceyya kevalāni, 
土地を 探索して 全部
(sabhiyāti bhagavā)
サビヤ よ とブッダ
Dibbaṃ mānusakañca brahmakhettaṃ;
天の 人間の・そして ブラフマーの・土地を
Sabbakhettamūlabandhanā pamutto,
一切・土地の・根・束縛より 脱した人
Khettajino tādi pavuccate tathattā.
土地・勝者は そのような人 言われる そういう状態

ブッダ:
サビヤよ
土地の勝者とは、
天界、人間界、そして
ブラフマー界の土地
すべてを探索した人
すべての土地の束縛を
根本から脱した人です。

解説

Khettā(土地)は、自分を取り巻く世界を指していると思います。

SN-3-6-530

"Kosāni viceyya kevalāni, 
蔵を 探索して 全部
dibbaṃ mānusakañca brahmakosaṃ;
天の 人間の・そして ブラフマーの・蔵を
Sabbakosamūlabandhanā pamutto,
一切・蔵の・根・束縛より 脱した人
kusalo tādi pavuccate tathattā.
善人は そのような人 言われる そういう状態

善人とは、
天界、人間界、そして
ブラフマー界の蔵を
すべて探索した人
すべての蔵の束縛を
根本から脱した人です。

解説

前のスッタの Khettā(土地)が kosa に変わっただけです。Kosa は、蔵庫、宝庫、箱、繭(まゆ)と訳しますが、物をしまっておく建物、すべてを包みこんでいるものという意味です。ここでは、心の中身を包む「」を指していると思います。

私たちが「」だと感じているのは、実は「citta(チッタ)」ではなく、「心に生じる精神作用心の中身:cetasika(チェータシカ)」です。

本来、人間の心は純粋で、善でも悪でもない状態です。外からの刺激に対して、心に kusala善・健全」な振動が多く生じると健全な心になり、akusala不善・不健全)な振動が生じると、その瞬間に不健全な心に傾きます。心は常に刻一刻と変化しています。

善い人悪い人という印象は、この cetasika がどれだけ生じているかです。Dosa(ドーサ・怒り)の振動がたびたび生じる人であれば、怒りっぽい人という印象になり、karunā(カルナー・思いやり)が生じている人は、優しい印象を受けます。その積み重ねで、善い人・悪い人というイメージができあがるのです。

健全な心所は25あるのに対して、不健全な心所は14です。自分の心にどんな心所が発生しているか、瞬間瞬間に気づき、不健全な心所が発生したら滅し、健全な心所を育てるようにすることが修行です。詳細は「心の正体:心所」をお読みください。

SN-3-6-531

"Dubhayāni viceyya paṇḍarāni, 
両者の 探索して 白い
ajjhattaṃ bahiddhā ca suddhipañño;
内に 外に そして 純粋な・智慧は
Kaṇhaṃ sukkaṃ upātivatto, 
黒を 白を そして 脱した
paṇḍito tādi pavuccate tathattā.
賢者は そのような人 言われる そういう状態

賢者とは、
善なるものを
内にも外にも探索した
純粋な智慧があり
善も悪も超えた人です。

解説

このスッタでは、kaṇha(黒)=邪悪・間違い、sukka(白)=善・正しいを象徴しています。「白黒つける」という二者択一の考え方はしないという意味です。

は、体験・記憶のイメージと結びついています。例えば、「」は雲や雪など「軽い」という記憶と結びつき、「白は軽い」という先入観が生じて、脳に錯覚を起こさせます。白い箱と黒い箱を持った時、重さが同じの箱でも、白が100gなら黒は187gの重さに感じるという実験結果があります。色によって、見た目の印象だけでなく、体感する重さも大きく違うそうです。事実は同じ重さなので、これは明らかに誤った認識ですよね。私たちが正しいと思い込んでいる認識は、所詮その程度です。そういった意味でも、賢者は白も黒もありのままに認識できるのでしょう。

paṇḍara(白)と paṇḍita(賢者)は掛け言葉だと思います。

SN-3-6-532

"Asatañca satañca ñatvā dhammaṃ, 
不善の 善の・と 知り 義を
ajjhattaṃ bahiddhā ca sabbaloke;
内に 外に そして 全世界に
Devamanussehi pūjanīyo, 
神・人間によって 敬われる
saṅgaṃ jālamaticca so munī"ti.
執着を 網を・超えて 彼は 聖者 と

聖者とは、
あらゆる世界で
内部にも外部にも
正義と不義とを知り
神にも人間にも敬われる
執着の網を脱した人です。

解説

ここでは dhamma(ダンマ)を「」と訳して、善の義=正義として解釈しました。530健全な心所・不健全な心所について説明しましたが、実際には善・不善というのは相対的な価値観でしかなく、時代や場所が変われば全く違ったものになり、本質的には存在しません。しかし人間が社会的関係を営む上では、その共同体で善とする実現されるべき価値正義があります。

が主として、人間の個人的態度に関わる道徳的な価値を指すのに対して、正義は人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値です。次の行で「神にも人間にも尊敬される」とあることからも、そういった社会的な価値観を、正義・不義と訳しました。

内部にも外部にも」は、「自分の身内的な価値観においても、他の社会の価値観においても」と考えました。本物の聖者であれば、国を超えて言葉や習慣を超えて、誰からも尊敬されて、理解されるはずだからです。

散文

Atha kho sabhiyo paribbājako…pe… 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の …略…
bhagavantaṃ uttariṃ pañhaṃ apucchi –
世尊に さらに 質問を 尋ねた

遍歴行者のサビヤは、…中略…
世尊 にさらに質問しました。

解説

サビヤの3回目の質問にもすべてブッダは答えてくれたので、サビヤが満足して歓喜します。ここまでで、合計12の答えを得ることができました。サビヤの質問は、あと2回(計5回)続きます。