第3章 大きな章:8.矢 579〜598

8. Sallasuttaṃ 矢のスッタ集

Salla(矢)がテーマのスッタ集です。人間は例外なく必ず死にます。早く死ぬ者もあれば、長く生きる者もあります。

このスッタ集は、息子を亡くした在家者が、悲しみに暮れて一週間食事をとらずにいるのを聞いたブッダが、彼の家に行き、悲しみを取り除くために説いたスッタです。

このスッタ集には前文やあとがきがありません。シンプルにブッダの慰めの言葉のみです。

SN-3-8-579

Animittamanaññātaṃ, 
ない・前兆・ない・了知され
maccānaṃ idha jīvitaṃ;
死ぬべきものの ここで 命
Kasirañca parittañca,
苦難の・また 少ない・また
tañca dukkhena saṃyutaṃ.
それは・また 苦しみに 結合する

死は知らされることも
予告もない
この世で人の命は儚く
また人生は苦難であり
苦しみがつきまとう。

SN-3-8-580

Na hi so upakkamo atthi, 
ない 実に その 手段は 存在
yena jātā na miyyare;
それをもって 生まれた ない 死を避ける
Jarampi patvā maraṇaṃ, 
老いて・も 達して 死に
evaṃdhammā hi pāṇino.
このような・法則 実に 生命は 

生まれたからには
死を避ける手段はない。
老いても死に至る
これが生命の法則なのだ。

解説

「老いて死に至る」とあることから、おそらくブッダが慰めている在家者の子供は、若くして死んだのでしょう。生まれた者は、老いても老いなくても、必ず死ぬのが自然の法則(dhamma)です。

SN-3-8-581

Phalānamiva pakkānaṃ, 
果実・のように 熟した
pāto patanato bhayaṃ;
早朝に 落ちることを 怖れ
Evaṃ jātāna maccānaṃ, 
このように 生まれた 死ぬべきものを
niccaṃ maraṇato bhayaṃ.
常に 死の 怖れ

熟した果実が
早朝に落ちるのを
怖れるように
生まれたときから
人間には常に
死ぬ怖れがある。

解説

熟した果実はいつ落ちてもおかしくありません。死は、それと同じくらい当たり前のことです。

SN-3-8-582

Yathāpi kumbhakārassa, 
そのように 陶工によって
katā mattikabhājanā;
作られた 土の・器
Sabbe bhedanapariyantā, 
すべて 破壊・終わる
evaṃ maccāna jīvitaṃ.
このように 死ぬべきもの 生命は

陶工によって作られた
陶器がいつか壊れるように
人間の生命も
すべてが壊れて終わる。

解説

人間の身体が死を迎えて崩壊することを陶器に喩えたスッタです。物質は必ずいつか崩壊するのです。石も鉄もすべてがそうです。形あるものはいつか必ず崩壊し、永遠に形を留めることはできません。

SN-3-8-583

Daharā ca mahantā ca, 
幼少 また 大人 また
ye bālā ye ca paṇḍitā;
人たち 未熟な 人たち また 賢い
Sabbe maccuvasaṃ yanti, 
すべて 死の力に 彼らは行く
sabbe maccuparāyaṇā.
すべて 死が・最終

子供でも大人でも
未熟な者でも賢い者でも
みんな死に支配されていて
最終的にはみんな死ぬ。

SN-3-8-584

Tesaṃ maccuparetānaṃ, 
彼を 死に・負けて
gacchataṃ paralokato;
行こうとする 他界に
Na pitā tāyate puttaṃ, 
ない 父は 救う 息子を
ñātī vā pana ñātake.
親族は 或は また 親族を

死の力に負けて
他界に行こうとする息子を
父親が救うことはできない
あるいはまた
親族であっても救えない。

SN-3-8-585

Pekkhataṃ yeva ñātīnaṃ, 
看る だけ 親族たちを
passa lālapataṃ puthu;
見よ 嘆き悲しむ 大いに
Ekamekova maccānaṃ, 
各々・実に 死ぬべきもの
govajjho viya nīyati.
牛・屠殺される のように 導かれる

見なさい。
見守るしかなく
嘆き悲しむ親族たちを。
一人また一人と
死ぬべき者は
屠殺される牛のように
連れられていく。

SN-3-8-586

Evamabbhāhato loko, 
このように・悩まされる 世界は
maccunā ca jarāya ca;
死により また 老いにより また
Tasmā dhīrā na socanti, 
それ故 賢者は ない 悲しむ
viditvā lokapariyāyaṃ.
知って 世界の・システムを

この世はこうして
死と老いに悩まされている。
賢者はこの世のシステムを
知っているので悲しまない。

SN-3-8-587

Yassa maggaṃ na jānāsi, 
彼の 道を ない 知る
āgatassa gatassa vā;
来た 行く 或は
Ubho ante asampassaṃ, 
両方の 目的を ない・正観
niratthaṃ paridevasi.
無益の 悲しみ

彼が来た道も行く道も
あなたは知らない
両方の目的を
正しく見ようともせずに
意味なく悲しんでいる。

解説

身内が死んで悲しいのは、なぜでしょう? 自分が寂しいからです。死んだ誰かが自分にとって大切だったから、心の支えであり、拠り所だったから、いなくなるのが嫌なのです。ただそれだけです。

両方の目的」とは何でしょう? 来た道(過去世)と行く道(来世)かもしれないし、早死にする息子の人生と息子に先立たれる父親の人生の意味、かもしれません。ここは読み手が自分の人生に重ね合わせて、自由にインスピレーションを感じる部分だと思います。

SN-3-8-588

Paridevayamāno ce, 
嘆き悲しむ・心が もし
kiñcidatthaṃ udabbahe;
何でも・利益を 引き出す
Sammūḷho hiṃsamattānaṃ, 
混乱した 傷つける・自分を
kayirā ce naṃ vicakkhaṇo.
なすだろう もし それを 聡明な人は

もし嘆き悲しむことで
何か得るものがあるとしたら
それは自分を傷つけて
混乱することだ。
もしそれが利益になるなら
聡明な人もそうするだろう。

解説

嘆き悲しんでも、死んだ人は絶対に生き返りません。どうにもならないことに対して嘆き悲しむと、心が混乱して自分が傷つくだけです。もし嘆き悲しむことで、何か少しでも利益があるなら、聡明な人もきっと嘆き悲しむはずです。でも何の役にも立たないから、嘆き悲しんだりしません。無駄なことなのです。

SN-3-8-589

Na hi ruṇṇena sokena, 
ない 実に 泣いて 悲しみ
santiṃ pappoti cetaso;
寂静を 得る 心の
Bhiyyassuppajjate dukkhaṃ, 
ますます・生じる 苦しみに
sarīraṃ cupahaññati.
身体が また・害される

泣いても悲しんでも
心の安らぎは決して
得られない。
ますます生じる苦しみで
健康を害する。

解説

泣いても嘆いても心が静まることは決してないのに、どうして泣くのでしょう? 事実を受け入れたくないからです。子供が母親に駄々をこねるのと全く同じです。ただ「やだー」と拒絶しているだけです。違う点は、泣き叫んでも絶対に受け入れてもらえないことです。

SN-3-8-590

Kiso vivaṇṇo bhavati, 
痩せて 顔色が悪い 状態
hiṃsamattānamattanā;
傷つける・自分を・自分で
Na tena petā pālenti, 
ない それにより 亡者を 保護すること
niratthā paridevanā.
無利益 悲しむこと

痩せ衰えて顔色も悪くなり
自分で自分を傷つけても
死者を救うことはない
悲しんでも役にも立たない。

解説

痩せ衰えてボロボロの廃人になったところで、死者は蘇りません。悲しんだところで、何の役にも立ちません。周りの雰囲気がどんより悪くなるだけです。

SN-3-8-591

Sokamappajahaṃ jantu, 
悲しみを・ない・捨てる 人は
bhiyyo dukkhaṃ nigacchati;
より多く 苦しみを 受ける
Anutthunanto kālaṅkataṃ, 
嘆く者は 死んだ人を
sokassa vasamanvagū.
悲しみの 力に・従う

悲しみを捨てない人は
より多くの苦しみを受ける。
死んだ人を嘆く者は
悲しみに囚われる。

解説

これは嘆き悲しみに限ったことではありません。人が悩み苦しむことは全て同じです。怒りも憎しみも、愛情や承認を欲しがる気持ちも、自分が捨てなければ、さらに多くの苦しみを受けることになります。「やーめた! 諦めようっと」と吹っ切ることができれば、その瞬間に苦しみは消えてしまいます。

SN-3-8-592

Aññepi passa gamine, 
他の・も 見よ 死に去く
yathākammūpage nare;
業に従っていく 人々を
Maccuno vasamāgamma,
死の 力に・よって
phandantevidha pāṇino.
動揺する・だけ・ここで 生き物は

業に従って人々は死んでいく
他の人々を見てみなさい。
この世で生き物は
死を前にして
ただ動揺するだけだ。

解説

業に従って」とは、「自分がした身体・言葉・心の行為に従って」ということです。

SN-3-8-593

Yena yena hi maññanti, 
何か 何か 実に 考える
tato taṃ hoti aññathā;
その後 それは ある 異なる
Etādiso vinābhāvo, 
このような 変異・状態
passa lokassa pariyāyaṃ.
見よ この世の システムを

あれこれと考えたところで
それはどんどん変化していく。
見なさい!
このように変わり続けるのが
この世のシステムだ。

解説

この世には決して「変わらないもの」はありません。あるとしたら、それは「真理(dhamma)」だけです。この世のすべてが無常(変わり続ける)なのです。

SN-3-8-594

Api vassasataṃ jīve, 
たとえ 百年 生きる
bhiyyo vā pana māṇavo;
より多く 或は また 若者は
Ñātisaṅghā vinā hoti, 
親族・仲間から 去って 存在
jahāti idha jīvitaṃ.
捨てて ここに 生命を

たとえ百年
あるいはそれ以上
生きたとしても
また、若者であっても
この世での生を捨てて
親族や仲間から去る。

SN-3-8-595

Tasmā arahato sutvā, 
それ故 アラハンの 聞いて
vineyya paridevitaṃ;
除去 泣き悲しむのを
Petaṃ kālaṅkataṃ disvā, 
亡者の 死を 見て
neso labbhā mayā iti.
ない・彼は 可能 私には と

だからアラハンの言葉を聞いて
嘆き悲しむのをやめなさい。
死んだ亡骸を見て
「私には何もできない」
ことに(気づきなさい)。

SN-3-8-596

Yathā saraṇamādittaṃ, 
ように 依りどころ・燃えた
vārinā parinibbaye;
水により 完全に・鎮めて
Evampi dhīro sapañño, 
まさに・も 賢者は 有慧者
paṇḍito kusalo naro;
それ故 分別ある 人は
Khippamuppatitaṃ sokaṃ, 
急に・生じた 悲しみを
vāto tūlaṃva dhaṃsaye.
風が 綿毛を・ように 払う

火がついた家を
水で鎮火するように、
まさに智慧のある
分別ある人である賢者は、
風が綿毛を吹くように
悲しみが生じたなら
ただちに振り払う。

解説

Saraṇaṃ(依りどころ・避難所)は、「帰依」と訳す場合が多いですが、ここでは「」としました。「初期消化が大事」の通り、火がついたらすぐに水をかければ消すことができます。悲しみも同じです。延焼を防ぐためには、心に生じたらすぐに消してしまえばいいのです。延々と焼き野原にする必要はありません。たんぽぽの綿毛を吹くように、フッと消してしまうのが賢明です。

SN-3-8-597

Paridevaṃ pajappañca, 
悲しみを 強い・願い・と
domanassañca attano;
精神的な痛みを・と 自分の
Attano sukhamesāno, 
自分の 幸せ・探す人は
abbahe sallamattano.
引き抜く 矢を・自分の

悲しみと不満と
自分の心の痛みを。
自分の幸せを求めるなら
心の矢を引き抜きなさい。

解説

このスッタ集のテーマである「salla(矢)」は、自分で自分の心に刺す矢のことでした。

SN-3-8-598

Abbuḷhasallo asito, 
引き抜く・矢を 不依存の人は
santiṃ pappuyya cetaso;
寂静を 得て 心の
Sabbasokaṃ atikkanto,
すべての・悲しみを 超えて
asoko hoti nibbutoti.
ない・悲しみ 存在 涅槃に至る・と

矢を引き抜いて
依存がなくなった人は
心の静寂を得る。
すべての悲しみを乗り越えて
悲しみの存在しない
涅槃に至る。

Sallasuttaṃ aṭṭhamaṃ niṭṭhitaṃ.
矢の・スッタ集 8番目 終わり

8. 矢のスッタ集 終わり