sobhana cetasika:健全な精神作用
sobhana は「浄い」という意味です。
心を明るく大きく強くする健全(kusala クサラ)な波動の精神作用は25種類あり、心を清らかにして向上させます。誰にとっても役立つ精神作用です。
一般的な精神作用(19)
健全な精神作用25種類のうち、19種類は一般的な精神作用です。
1. saddhā(サッダー)確信・信念
自分で確認して納得できた上で、信頼すること信じること。
2. sati(サティ) 気づき・自覚
気づき、今の自分の状態や自分が置かれている状況に目覚めていること。
3. hiri(ヒリ)悪い行為を恥じる
こんな悪い行為をするなんて、自分に対して恥ずかしいと恥じる気持ちです。
4. ottappa(オッタッパ)悪い行為を怖れる
こんな悪いことをして、人に知れたら大変だと怖れる気持ちです。
5. alobha(アローバ)無欲
欲から離れるエネルギーです。
人は何かを得るたびに「もっと」という不満が心に残ります。「欲しい」という心は限りなく生じ続けるので、不満も無限に生じて人を苦しめます。手放せば手放すほど自由で楽になるのですが、人の心は「あげるよりもらいたい」と思うのが普通です。だから物・時間・体力・知識・技術など、自分の持っているものを、他に与えて施すエネルギーを育てることが大切です。
6. adosa(アドーサ)拒否しない
自分が認識した対象を否定したり、嫌ったりしない精神作用です。これは慈しみ(mettā メッター)の心でもあります。
「善い人を敬い、悪い人はこらしめる」というのが世間の常識ですが、悪い人は無知だから悪いことをするのであって、嫌ったり否定するのではなく、助けてあげた方がいいのです。人は自分にとって都合の悪い人を嫌ったり、否定したりしますが、誰かを嫌いになると、その人のことを考えるたびに心が暗くなり、自分の心が汚れるだけです。
7. tatramajjhattatā(タトラマッジャッタター)
自分が認識した対象に対して、客観的で冷静な態度を取る精神作用です。これは平静さ(upekkhā ウペッカー)の心でもあります。
偏りのないバランスのとれた心で、自分の好き嫌いなど主観的な感情を抜きにして、冷静で落ち着きのある客観的な態度をとる精神作用です。
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8〜19 は「kāya(カーヤ)身体」と「citta(チッタ)心」でペアになる精神作用です。
8. kāyappassaddhi(カーヤッパッサッディ)身体の安らぎ
9. cittappassaddhi(チッタッパッサッディ)心の安らぎ
ホッとしてリラックスしている状態です。
10. kāyalahutā(カーヤラフター)身体の身軽さ
11. cittalahutā(チッタラフター) 心の軽さ
心や身体が重いと行動できませんが、心が軽いと身体も身軽になります。
12. kāyamudutā(カーヤムドゥター)身体の柔軟性
13. cittamudutā(チッタムドゥター)心の柔軟性
身体が固いと心も固くなります。柔軟な身体には、柔軟な精神が宿ります。
14. kāyakammaññatā(カーヤカンマンニャター)身体の適性
15. cittakammaññatā(チッタカンマンニャター)心の適性
行動に適している状態。自分の目的のために心が動いてくれることです。
16. kāyapāguññatā(カーヤパーグンニャター)身体の巧みさ
17. cittapāguññatā(チッタパーグンニャター)心の巧みさ
上手であること。単に仕事をするだけではなくて、上手にこなす働きです。
18. kāyujukatā(カーユジュカター)身体がまっすぐ
19. cittujukatā(チットゥジュカター)心がまっすぐ
きちんと決めた行動をすること。心がフラつかない状態です。
離れて正すべき精神作用(3)
次の3つの精神作用は、悪しきことから離れて、正すべきことです。
言葉・身体・心、このの3つの行為に関して、日常生活の中で培うことができる健全な精神作用です。身体の行為を正すのは一番やさしく、次に言葉の行為、心の行為を正すのが一番難しくなります。
20. sammā-vācā(サンマーヴァーチャー)正しい言葉
嘘、悪口、他者を傷つける言葉、無駄話の4つの悪語から離れることです。
言葉の行為は、身体の行為よりも簡単に人を傷つけ、時には人を殺してしまうことさえあります。悪気がなくても、悪い言葉を使うといい結果にはなりません。言葉には、その言葉自体が持つ意味があるので、その意味が自分の心に返って、自分の心を汚します。
常に相手を思いやって、話さなくてはならないことだけを時と場合に応じて話すのが正しい言葉です。
21. sammā-kammanta(サンマーカンマンタ)正しい行為
みだりに生き物を殺す、他者のものを盗る、みだらな行為をする、といった3つの悪い身体的行為から離れることです。これらは他者を傷つける動作や行為です。どのような状況でも非暴力で、社会や生命の役に立つ、助けとなるような行為を心掛けます。
22. sammā-ājīva(サンマーアージーヴァ)正しい生き方
心の行為は、思っただけなら悪行にはならないと思うかもしれませんが、思っただけで悪行になります。だからこそ、人は悩み苦しむのです。
他者を傷つける心から離れ、人の役に立つ仕事を選び、自然や社会、生命の破壊につながらないように、思慮分別のある心で、仕事や生き方をすることです。
人がした身体・言葉・心の行為の経験は、どんなものでもそのまま消滅することはなく、必ずその余波を残して、それが知能・性格などの素質として心に保存・蓄積されます。これが「kamma(カンマ)業」です。
慈悲の精神作用(2)
他の存在の幸せに直結する精神作用です。
慈悲の精神作用は「慈しみ・平静さ・思いやり・共感する喜び」の4つですが、このうち、慈しみ( 6. adosa)と平静さ( 7. tatramajjhattatā)は、必ずしも他者の幸せに直結する作用ではないので、一般的な精神作用に含まれます。
あとの2つ、思いやり(カルナー)と共感する喜び(ムディター)は、他の存在の幸せに直結する心です。一般的な精神作用とは別に意識的に育てなくてはならない心で、限りなく広げられ、力強くすることができる精神作用です。
23. karunā(カルナー)思いやり
他者の苦しみを取り除いてあげたい助けたいという、思いやりの心です。
人は、好きな人が苦しんでいれば助けようと思っても、嫌いな人が苦しんでいたら、内心「ざまあみろ」と思うものです。
苦しんでいる人がいればいつでも「何とかしてあげたい」と思える心は自然には生じません。努力して育てる必要があるのです。「本当はイヤだけど、頑張って優しくしよう」というのではなく、自然に心からわいてくるエネルギーでなければ、助ける意味がありません。
そのためには、他の生命の苦しみを理解して感じられるようになり、「何かしてあげたい」と自然に正直に思える心を育てることが必要です。
24. muditā(ムディター)共感する喜び
他者の成功・幸福を、自分のことのように喜ぶ精神作用です。
誰かが成功すると、何となくおもしろくないと感じて嫉妬するものです。ムディターは嫉妬の逆で、他者の成功や幸せを見て共に喜ぶ精神作用です。母親が子供の幸せを自分のこと以上に喜ぶような気持ちです。
私たちは生きている限り、他の存在とつながって存在しています。だから思いやりと共感する喜びを育てることは、とても大切なことです。そうすると汚れて縮んだ心が、広く大きな心になっていきます。このエネルギーは無限に育てることができます。
智慧の精神作用(1)
心に生じる健全な精神作用の25番目は「智慧」です。
智慧も、慈悲の精神作用と同様に、一般的な精神作用とは別に育てなくてはいけないもので、健全な心を育てただけでは、智慧は生じません。
心にとって最も大切なのは、最終的に「paññā(パンニャー)智慧」が現れることです。
25. paññindriya(パンニンドゥリヤ)智慧の能力
paññindriya(智慧の能力)は、頭で理解するのではなく、ヴィパッサナー瞑想による体験で理解することによって、saññā(サンニャー)が paññā(パンニャー)に変わります。
智慧とは、真理を正しく観ることができる働きです。真理とは、あらゆるものが常に変化し続けていること(無常)・私はという実体は存在しないこと(無我)・因果の法則(原因があって結果が起こる)・苦しみの法則、といった自然の法則です。
ものごとが永久に続くと思うのは、無知だからです。ものごとは瞬間的にしか成り立たないという無常の真理を理解し、その体験へ進む方法は、智慧を発達させる道です。
たとえば人に親切にすることはよいことですが、自分がした善行為の喜びを味わい続けたくて、心の中で思い出してはほくそ笑んだりするものです。「もっと褒められたい」のが人の常ですが、これは無知な人の考え方です。せっかく善行で原因をつくっても、これでは力強い結果は得られません。人に親切にしたからといって、永遠に助けるわけではありません。喜ぶよりも智慧を育てるのです。「この喜びもこの瞬間だけのことで、すべてはすぐに消えていく」という無常の側面を考えるのです。すると智慧が生まれてきます。
智慧は力強いエネルギーです。無知も大きなエネルギーですが、智慧よりも弱いので、智慧がある程度大きく育つと、無知は負けてしまいます。智慧で無知を追い払うということができるのです。無知をなくそうと努力するのではなく、智慧を育てようとすればいいのです。
人体は常に変化している
宇宙のあらゆるものは、猛スピードで変化しています。
止まっているように見える地球も、時速約1700kmの速さで自転しながら、太陽の周りを時速11万kmで回っているそうです。私たちの身体も同様に、素粒子がものすごい速さで自転しながらも、衝突せずに複雑に絡み合って形を成し、細胞は生成と消滅を繰り返して入れ替わっています。
子供の頃は、死ぬ細胞よりも生まれる細胞の方が圧倒的に多く、見た目にも「成長している」状態です。大人になって、死ぬ細胞と生まれる細胞の数が同じになると、見た目に変化がなくなり「成長が止まった」状態になります。しかし細胞はどんどん死んで、どんどん生まれているのは変わらないのです。死ぬ数と生まれる数が同じだから、止まって見えるだけです。
そして歳を取ると、生まれる細胞の方が少なくなります。古い死んだ細胞は動かないので、ついに生まれる細胞がなくなると、身体は動かなくなり、人体は死にます。いずれにせよ、あまりに変化が速いので、止まって見えるだけです。
これを頭で理解しても、心は「物体がここにある」と思ってしまうのです。変化していないように見える石も、よく見れば、どんどん崩れたり変化し続けています。人の心も、すべての現象も物質も、実際には瞬間瞬間、変化し続けているので絶対的な実体はないのです。
智慧の能力
paññindriya(智慧の能力)は、それを頭で理解するのではなく、ヴィパッサナー瞑想による体験でしっかりと理解することによって生じます。人の意識は、徹底的な集中によって、自分の身体内で生じるすべてを把握できます。これは魔法でも超能力でもなく事実です。文明社会の魅惑的な概念にかき消されて、埋もれている、人間なら誰でもできる能力です。世界最高水準の技術でも捉えることのできない超高速の世界を、人の意識は捉えることができるのです。
人間が開発する先端技術や科学よりも遥かに高度な能力が、すべての人間に最初から備わっています。必要なのは、感覚を感受するための肉体と、それに気づき認識するための思考です。思考できない動物にはない能力です。使わないのは、実にもったいないことです。自分の外側をあれこれ探索するよりも、自分の内側を探索すれば、外側のすべて、宇宙がわかる仕組みなのです。すごいね ♪