縁起
Paṭicca-samuppāda(パティッチャ・サムッパーダ):paṭicca(縁となり・理由で)+saṃ(共に・同時に)+uppāda(生じる)。「縁となり共に生じる」という意味です。
「あらゆる存在は、何かに依ってこそ生じ起こるもの」であり、それが生命が輪廻し生まれ続ける原因であり、また、人の苦しみの原因である、という真理です。
これはブッダが35歳で悟りを完成させた際に、悟った真理です。
何かが生じる時には、それが単独で生じることはなく、必ず他との関係が縁となって生じます。私たち人間が存在することも、何かの事象が起こることも、すべてが原因や条件が相互に関係しあって発生します。
逆に、その条件や原因がなくなれば、結果である存在も同時になくなります。それはその存在が持続することなく、消え去ることを意味します。
ブッダ は次のように述べています。
Taṇhādutiyo puriso, 渇望・同伴者 人は dīghamaddhāna saṃsaraṃ; 長い間 流転(輪廻)に itthabhāvaññathābhāvaṃ, ここに・存在・また・非存在 saṃsāraṃ nātivattati. 流転に ない・超越する
渇望を伴侶とする人間は、
太古の昔から
繰り返される存在の
流れの中を流れている。
人はここに存在しては死に
何度も何度も生と死を繰り返し、
この途切れることのない過程を
超えることはない。
解説
これはものすごい重要なことをサラッと言ってますよね。「人間は渇望をエネルギー源として、太古の昔から生死を繰り返して、存在し続けている」。肉体の死はあっても、生命体としての存在は途切れることなく続いている、ということです。
では、その存在とは何なのか? 「魂」でしょうか? ブッダは「真我(アートマン)」的なものを明確に否定しています。すべてが変化して流れ続けているので、特定のものがそのままの状態を、維持し続けることはないからです。
私たちの身体も、母体から産まれ出て大きくなりますが、生まれ出た瞬間の細胞は、とっくに死滅し、入れ替わっているそうです。常に更新し続けて、似ているようであっても非なるものなのです。となると進化し続ける「意識」の流れなのでしょうか? 永遠のテーマですね。
Etaṃ ādīnavaṃ ñatvā, この 危険を 知って taṇhaṃ dukkhassa sambhavaṃ; 渇望が 苦しみに 発生 Vītataṇho anādāno, 無欲 無執着 sato bhikkhu paribbaje. 気づき 比丘 悟りを得る
渇望が原因となり
苦悩が発生する。
このプロセスの危険性を理解し
渇望と執着をなくして
自覚していれば
比丘は悟りを得る。
解説
この言葉は、苦しみの状態である輪廻の本質と、最終的な解脱の状態である涅槃の本質を述べています。しかし、どうすれば無執着になり、渇望をなくすことができるのでしょう。
Nandī-saṃyojano loko, 歓喜・束縛 世界 vitakkassa vicāraṇaṃ; 思考(判断)に 考察を Taṇhāya vippahānena, 渇望を 強く・断つ nibbānaṃ iti vuccati. 涅槃を 実に 言われる
考えたり思いを馳せることで
この世で快楽が束縛になる。
渇望を完全に断つと
涅槃と呼ばれる状態になる。
解説
これがブッダの答えです。続いて縁起のシステム詳細です。
Paticca-samuppada 縁となり・共に生じる Anuloma 正順 Avijjāpaccayā saṅkhārā, 無明・縁となり サンカーラに saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ, サンカーラ・縁となり 意識に viññāṇapaccayā nāmarūpaṃ, 意識・縁となり 名色に nāmarūpapaccayā saḷāyatanaṃ, 名色・縁となり 6つの感覚器官に saḷāyatanapaccayā phasso, 6つの感覚器官・縁となり 接触に phassapaccayā vedanā, 接触・縁となり 感覚に vedanāpaccayā taṇhā, 感覚・縁となり 渇望に taṇhāpaccayā upādānaṃ, 渇望・縁となり 執着に upādānapaccayā bhavo, 執着・縁となり 生成に bhavapaccayā jāti, 生成・縁となり 誕生に jātipaccayā jarā maraṇaṃ soka parideva dukkha domanassa upāyāsā sambhavanti. 誕生・縁となり 老い 死 憂い 悲しみ 肉体的な不快 精神的な不快 不安 形成される Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hoti. こうして 独一の 苦しみ・集合に 生起する 存在
縁起
正順
無智によって、反応が生じる。
反応によって、意識が生じる。
意識によって、心身が生じる。
心身によって、6つの感覚器官が生じる。
6つの感覚器官によって、接触が生じる。
接触によって、感覚が生じる。
感覚によって、渇望が生じる。
渇望によって、執着が生じる。
執着によって、生成のプロセスが生じる。
生成のプロセスによって、誕生が生じる。
誕生によって、老いと死が生じ、
悩み、悲しみ、肉体的・精神的な苦しみ、不安が生じる。
こうして、すべての苦しみの元が生まれる。
解説
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想では、おなじみのフレーズですね。
「アヴィッジャー、パッチャヤー、サンカーラー。
サンカーラ、パッチャヤー、ヴィンニャーナム。
ヴィンニャーナ、パッチャヤー、ナーマルーパム。
ナーマルーパ、パッチャヤー、サラーヤタナム。……」
Avijjā:無智・無明。大雑把な意味では、無知(moha)と同義と捉えていいのですが、実際には少し違います。a(否)+vijjā/vid(智慧道・見つける):智慧を発見していないという意味です。頭で理解する知識としての無知ではなく、体験を通して獲得した智慧が現れていない、もっと言えば「智慧が欲・怒り・無知によって妨げられている」状態が、無智です。
説明すればするほど難しくなりますが、智慧が現れるというのは、「ひらめく」ということだと思います。ひらめきとは、一瞬にして光ること。 優れた考えなどが瞬間的に思い浮かぶこと。 直感的な鋭さです。知恵は思いつきで、智慧はひらめきだと今のところ捉えています。
nāmarūpa:名前+色形。心理的物質的な生体、つまり人間の心身です。
Patiloma 逆順 Avijjāyatveva asesavirāganirodhā saṅkhāranirodho, 無明・したら・こそ ない・残余・離れ・滅 反応・滅 saṅkhāranirodhā viññāṇanirodho, 反応・滅 意識・滅 viññāṇanirodhā nāmarūpanirodho, 意識・滅 名色・滅 nāmarūpanirodhā saḷāyatananirodho, 名色・滅 6つの感覚器官・滅 saḷāyatananirodhā phassanirodho, 6つの感覚器官・滅 接触・滅 phassanirodhā vedanānirodho, 接触・滅 感覚・滅 vedanānirodhā taṇhānirodho, 感覚・滅 渇望・滅 taṇhānirodhā upādānanirodho, 渇望・滅 執着・滅 upādānanirodhā bhavanirodho, 執着・滅 生成・滅 bhavanirodhā jātinirodho, 生成・滅 誕生・滅 jātinirodhā jarā maraṇaṃ soka parideva dukkha domanassa upāyāsā nirujjhanti. 誕生・滅 老い 死 憂い 悲しみ 肉体的な不快 精神的な不快 不安 滅していく Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa nirodho hoti. こうして 独一の 苦しみ・集合に 滅する 存在
逆順
無智の完全な根絶と停止によって、反応はなくなる。
反応がなければ、意識はなくなる。
意識がなければ、心身はなくなる。
心身がなければ、6つの感覚器官はなくなる。
6つの感覚器官がなければ、接触はなくなる。
接触がなければ、感覚はなくなる。
感覚がなければ、渇望はなくなる。
渇望がなければ、執着はなくなる。
執着がなければ、生成のプロセスはなくなる。
生成のプロセスがなければ、老いも死も止まり、
悩み、悲しみ、肉体的・精神的な苦しみ、不安はなくなる。
こうして、すべての苦しみの元は消える。
解説
それぞれのつながりの起源は、前のつながりに依存しています。この12の因果関係の連鎖が働く限り、「生成の輪=輪廻」は回り続け、苦しみがもたらされます。
Paṭicca-samuppādは、輪廻が繰り返される原因となるプロセスそのもので、生命はこの原因と結果の連鎖によって流れるように永続しています。人間も動物もあらゆる生命は、何千年も前からこの輪廻の中にいます。
このことを理解して、無智を完全に滅尽すれば、この連鎖は断ち切られ、生成のプロセスに終止符を打つことができるということです。
さらに解決方法として、具体的なことが知りたい場合には、スッタニパータの第5章「13.ウダヤの質問」をお読みください。ブッダが大変わかりやすく答えています。