1.Uragasuttaṃ 蛇のスッタ集
スッタニパータの第1章は「蛇」というタイトルがつけられています。第1章には12のスッタ(法話)集が収められ、その1番目がこの「蛇のスッタ集」です。
インドにおける蛇崇拝は古代よりありました。ブッダが悟りを開いた際には、蛇の神ナーガがコブラのような頭を傘のように広げて、雨風からブッダの身を7日間守ったといわれています。
この「蛇のスッタ集」には、心の汚濁を全て脱ぎ捨てる bhikkhu(ビク・比丘=修行者)を、脱皮する蛇に例えたスッタが17話収められています。
SN1-1-1
Yo uppatitaṃ vineti kodhaṃ, 人は 湧き上がる 訓練して制御 憤怒 visaṭaṃ sappavisaṃva osadhehi ; 広がる 蛇・毒 薬草 So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
蛇の毒が広がるのを
薬草で抑えるように
憤怒が起きた時に
コントロールできる修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
最後の2行は17話すべて同じフレーズです。直訳すると「そんな比丘(修行者)は、蛇が朽ちた古い皮を捨てるように、此岸も彼岸も捨てる」となります。当サイトでは、「此岸=現世、彼岸=来世」と解釈し、「現世も来世も捨てる=輪廻のサイクルから解脱する=苦しみの世界から抜け出す」としました。
「怒り dosa(ドーサ)」にもいろいろありますが、ここでは「kodha(コーダ)憤怒」となっています。kodhaは「カッ!と怒ってすぐ収まる怒り」です。この kodha は敵ではない人、つまり自分の子供や家族、親しい友達などに対して強く怒ることです。敵や嫌いな人に対する怒りや憎しみよりも、最後の最後まで抑えられないのが、肉親に対する怒りなのかもしれません。
SN1-1-2
Yo rāgamudacchidā asesaṃ, 人は 貪欲・汚れ・破壊 完全に bhisapupphaṃva saroruhaṃ vigayha; ハスの花 池・発生する 潜る So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
ハスの花が咲く池に
飛び込んで潜るかのように
根深い欲望を完全に
断ち切った修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
ハスの花は泥の中から出て美しい花を咲かせるところから、汚れのない清浄な花とされています。ハスの花の根は、地下茎で泥の中に深く根付いています。その根を断つには、池に飛び込み潜らなくてはなりません。同様に心の中の欲望の根を断ち切るには、心の奥深くまで入って観察しなければなりません。
「rāga 欲望」は、「欲深く望む、飽くことなく欲しがること」で、「欲したものを、次から次へと貪り求める欲望」です。その対象は、家や財産のような物欲から、愛する人、名誉や権力などです。この欲望の対象に固執して、駆り立てられるように追い求める深い執着心こそ、迷いの根源であるということです。
SN1-1-3
Yo taṇhamudacchidā asesaṃ, 人は 渇望・汚れ・破壊 完全に saritaṃ sīghasaraṃ visosayitvā; 河 急流 干上がる So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
激流のような
渇望の思いの流れを
完全に涸らした修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
「Taṇhā(タンハー)渇望」は、「もっと〜したい」と求めるエネルギーです。人が生きている間、川の流れのようにずっと流れ続ける意識であり、反応し続ける心のエネルギーです。すべての「dukkha(ドゥッカ)苦しみ=思うがままにならないこと」の原因であり、この求める心が欲求を生み出します。
SN1-1-4
Yo mānamudabbadhī asesaṃ, 人は 慢心・汚れ・執着 完全に naḷasetuṃva sudubbalaṃ mahogho; 葦でできた橋(堤) とても弱い 洪水 So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
洪水が葦の橋を押し流すように
驕った心を根絶した修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
葦は風が吹いて地面に倒されても、茎が柔軟なため折れることがなく、やがて起き上がって生長します。葦は群生して大きな群落となることから、葦の橋と例えたのかもしれません。葦はその弱さを人間性の一面と見る向きもあります。
「māna(マーナ)慢心」は、「自分を評価すること、計ること」です。そこには自我の意識が存在し、他と比べて自らを過剰に評価、あるいは卑下して、自我に捉われ固執する執着です。これは悟りの最終段階まで残る執着でもあります。
慢心は「自分を正しい基準」として判断します。私は優れている(seyya māna)という優越感はもちろん慢心ですが、私と同じ(sadisa māna)と安心すること、私は劣っている(hina māna)と卑下するのも慢心です。
SN1-1-5
Yo nājjhagamā bhavesu sāraṃ, 人は 否・達成(理解)した 存在 本質 vicinaṃ pupphamiva udumbaresu; 探す 花 多くの イチジク So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
イチジクの花が探してもないように
存在には実体がないことを
知った修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
イチジクは、漢字で「無花果」と書く通り、花がありません。実の中にある粒々がイチジクの花で、実の中に隠れて白い小花を咲かせます。
人間は5つの要素(肉体という物質・感覚・意識・思考・反応)が集合してできたものであり、それ自体の本質は存在しないとするのがブッダの教えです。 この世に存在するすべてのものは生じては滅して変化し続けるものであり、不変的な実体はありません。