1. Ajitamāṇavapucchā:アジタ青年の質問
ajita(アジタ=人名)+māṇava(青年・若いバラモン・学童)+pucchā(質問)。バラモン司祭バーヴァリ弟子である16人の青年バラモンが、ブッダに質問することを許されました。青年といっても、それぞれが千人の弟子を抱える尊者です。
最初はアジタ尊者の質問です。全部で8つのスッタがあり、アジタ尊者の質問とブッダの答えが、交互になっています。
SN-5-1-1038
‘‘Kenassu nivuto loko, 何によって 妨げられて この世の人々は (iccāyasmā ajito) と・尊者 アジタは Kenassu nappakāsati; 何によって ない・輝く Kissābhilepanaṃ brūsi, なぜ・それを汚れ と説くのか kiṃsu tassa mahabbhayaṃ’’. 何が その 大きな・怖れ
尊者アジタ:
この世の人々は何かに
覆われているのでしょうか?
なぜ、輝けないのですか?
その汚れとは何なのか
説明してください。
大きな怖れとは何ですか?
解説
loka:宇宙、世界、ある世界または地域の住民、人類、存在、生物。ここではこの世の人々としました。アジタは太陽や満月のように光り輝くブッダに出会い、その輝きが自分にはないことに気づいたのでしょう。
SN-5-1-1039
‘Avijjāya nivuto loko, 無智によって 覆われている この世は (ajitāti bhagavā) アジタよ・と ブッダ Vevicchā pamādā nappakāsati; 諸々の欲によって 怠慢によって ない・輝く Jappābhilepanaṃ brūmi, 欲望が・汚すことを 説く・私は dukkhamassa mahabbhayaṃ’’. 苦しみ・である 大きな・怖れ
ブッダ:
この世の人々は
無智に覆われている。
アジタよ、
欲と怠惰によって
輝けないのだ。
欲望がその汚れで
大きな怖れが苦しみとなる。
解説
Avijjā:無智。智慧がないこと。
SN-5-1-1040
‘‘Savanti sabbadhi sotā, 流れる あらゆる方向に 流れは (iccāyasmā ajito) と・尊者 アジタは Sotānaṃ kiṃ nivāraṇaṃ; 流れを 何が 防ぐ Sotānaṃ saṃvaraṃ brūhi, 流れを 制御するものを 説いて下さい kena sotā pidhiyyare’’. 何によって 流れは 遮断されるか
尊者アジタ:
欲望の流れは
あらゆる方向に流れています。
何が流れを防ぎ
何が流れを制御するのか
説明してください。
何によって流れを断ち切る
ことができるのですか?
解説
パーリ語の原文では単に「流れ」となっていますが、訳文では欲望を補いました。
SN-5-1-1041
‘‘Yāni sotāni lokasmiṃ, それらの 流れが この世における (ajitāti bhagavā) アジタよ とブッダ Sati tesaṃ nivāraṇaṃ; 気づきが それらを 防ぐ Sotānaṃ saṃvaraṃ brūmi, 流れを 制御するものを 私は説く paññāyete pidhiyyare’’. 智慧によって 遮断されるだろう
ブッダ:
この世のどんな流れも、
アジタよ、
「気づき」が防ぎ
流れを制御する。
智慧によって断ち切る
ことができるだろう。
解説
「気づき=サティ=マインドフルネス」です。
SN-5-1-1042
‘Paññā ceva sati yañca , 智慧が そして・まさに 気づきが そして・そうなら (iccāyasmā ajito) と・尊者 アジタは Nāmarūpañca mārisa; 名称と形態 先生に Etaṃ me puṭṭho pabrūhi, これを 私に 尋ねますので 説いて下さい katthetaṃ uparujjhati’’. どこで・これは 消滅するのか
尊者アジタ:
智慧がそして気づきが
流れを制御するならば、
名称と形態について
先生にお尋ねします。
一体どこでそれは
消滅するのでしょうか?
説明してください。
解説
一気に深い確信に触れる質問となりますが、第5章は「涅槃へ至る道」がテーマですので、青年たちの質問も、解脱を前提としたもののようです。mārisa:敬愛する人という意味ですが、ここでは先生としました。
SN-5-1-1043
‘‘Yametaṃ pañhaṃ apucchi, それを・この 質問に 尋ねた ajita taṃ vadāmi te; アジタ それを 答える あなたに Yattha nāmañca rūpañca, ところで 名称と 形態と asesaṃ uparujjhati; まるごと 消滅する Viññāṇassa nirodhena, 意識の 停止によって etthetaṃ uparujjhati’’. ここに・それは 消滅する
ブッダ:
君が尋ねたこの質問について
アジタよ、説明しよう。
名称と形態は何によって
完全に消滅するのか。
意識の停止によって
それはその場で消滅する。
解説
Viññāṇa(ヴィンニャーナ)は、情報を捉える機能のことで、私たちの「意識」です。意識は本来、「生じては消える」単なる現象ですが、人は外からの情報をありのままに理解せず、自分の感情を加えて理解します。
私たちが当たり前のように、犬だとか猫だとか、椅子だとか道路だと思っているものは、意識がその形態を抜き出して、そこに名称をつけて理解しているに過ぎません。これは他者もみんな同じように捉えているものと誤解しがちですが、100人いれば100人全員が違った捉え方をしています。これが自我の元です。
ここでは、自己と他を識別する働き(意識)を停止すれば、自我の意識がなくなり、他を区別するのに必要な名称と形態も意味をなさなくなって消滅する、ということだと解釈しました。
SN-5-1-1044
‘‘Ye ca saṅkhātadhammāse, 彼ら と 極めた・ダンマを・人々 ye ca sekhā puthū idha; 彼ら と 有学者たち 多数 ここに Tesaṃ me nipako iriyaṃ, 彼らの 私に 賢明な方は 生き方を puṭṭho pabrūhi mārisa’’. お尋ねします 説いて下さい 先生に
尊者アジタ:
ここには真理を極めた聖人や
悟り半ばの者
その他大勢の者がおります。
賢明なあなたに
彼らの生き方について
先生にお尋ねします。
私に説明してください。
解説
アジタは、自分の仲間である3つのレベルの修行者の生き方について、ブッダに尋ねました。
saṅkhātadhamma:ダンマ(教え)を極めた人=悟りの最終段階に至り、もう学ぶべきことがない人=アラハンです。sekha:悟りの道に入ってはいるが、まだ学ぶことがある人=ソータパンナ、サカダーガーミ、アナーガーミ。puthu:多数の人々。悟りの道に入っていない、その他大勢の人々です。悟りの段階について詳細はこちら。
SN-5-1-1045
‘Kāmesu nābhigijjheyya, 欲望において ない・渇望する・ように manasānāvilo siyā; 心を・純粋に あるように Kusalo sabbadhammānaṃ, 熟練して 一切の・ダンマに sato bhikkhu paribbaje’’ti. 気づきをもって 修行者は 托鉢生活をするように と
ブッダ:
欲を渇望しないように
心を純粋にするように
すべてのダンマに熟練し
気づきをもって
托鉢生活を送りなさい。
このようにブッダは言いました。
解説
paribbaje:托鉢生活を送ること。アジタはのちにブッダの元でアラハンになったそうです。
Ajitamāṇavapucchā paṭhamā niṭṭhitā. アジタ・青年・質問 最初の 終わり
1. アジタ青年の質問 終わり