第5章 彼方への道:3. プンナカの質問 1049〜1054

3. Puṇṇakamāṇavapucchā:プンナカ青年の質問

3番目の質問者は、青年バラモンのプンナカ尊者です。3つの質問にブッダがそれぞれ答える、計6つのスッタです。

SN-5-3-1049

‘‘Anejaṃ mūladassāviṃ,
不動の 根を・見た方
(iccāyasmā puṇṇako)
と尊者 プンナカは
Atthi pañhena āgamaṃ;
あり 質問が 伝えに来た
Kiṃ nissitā isayo manujā, 
何に 依存して 君主は 人々が
khattiyā brāhmaṇā devatānaṃ; 
王族が バラモンが 神々に
Yaññamakappayiṃsu puthūdha loke, 
供儀を捧げた 多くの この世で
pucchāmi taṃ bhagavā brūhi me taṃ’’.
尋ねます それを ブッダよ 説明してください 私に それを

尊者プンナカ:
心を動かすことなく
根源を理解したお方に、
私は質問を持って参りました。
君主や民衆、王族やバラモンが
この世で神々に多くの供儀を捧げたのは
何のためなのですか?
ブッダにお尋ねします
私に説明してください。

解説

Yañña:供儀。宗教的な儀礼において目的達成のために、信仰対象に捧げられる供物のこと。例えば、バラモン教では自然現象を神々として畏敬し、供犠によって神を祭ることで災厄を免れ、幸福がもたらされると信じていました。

SN-5-3-1050

‘‘Ye kecime isayo manujā,
彼らは 誰でも 君主は 人々が
(puṇṇakāti bhagavā)
プンナカよ とブッダは
Khattiyā brāhmaṇā devatānaṃ;
王族が バラモンが 神々に
Yaññamakappayiṃsu puthūdha loke, 
供儀を捧げた 多くの この世で
āsīsamānā puṇṇaka itthattaṃ; 
期待しつつ プンナカよ 現在の・状況を
Jaraṃ sitā yaññamakappayiṃsu’’.
老いたる 依存して 供儀を捧げた

ブッダ:
プンナカよ、
彼らは誰でも君主も民衆も
王族もバラモンも
この世で多くの供儀を
神々に捧げた。
プンナカよ、
年老いた時に自分が
いつまでも変わらないことを
期待して供儀を捧げたのだ。

解説

人は誰でも、老いによって身体が弱ったり、病気になったり、死の恐怖を感じるものです。そのために、人々は神々に、安泰な生活をできるだけ長く続けられるように期待して、供儀を捧げたのです。私たちが、神社などでお賽銭で願い事をするのと同じことです。

SN-5-3-1051

‘‘Ye kecime isayo manujā, 
彼らは 誰でも 君主は 民衆が
(iccāyasmā puṇṇako)
と尊者 プンナカは
Khattiyā brāhmaṇā devatānaṃ;
王族が バラモンが 神々に
Yaññamakappayiṃsu puthūdha loke, 
供儀を捧げた 多くの この世で
kaccissu te bhagavā yaññapathe appamattā; 
果たして 彼らは ブッダよ 供養の道において ない・怠惰
Atāruṃ jātiñca jarañca mārisa, 
渡ったのか 生と 老いを・と 先生
pucchāmi taṃ bhagavā brūhi me taṃ’’.
私は尋ねます それを ブッダよ 説明してください 私に それを

尊者プンナカ:
君主も民衆も王族もバラモンも
この世で神々に多くの供儀を
捧げた者たちは誰でも
供養を怠りませんでした。
ブッダよ、
彼らは果たして
生と老いを越えたのですか?
ブッダよ、
先生にお尋ねします
私にそれを説明してください。

解説

質問の前半同じフレーズの繰り返しになります。「生も老いも超える」=輪廻から解放解脱、ということだと思います。プンナカは、この宗教的な祭式至上主義・形式主義に満足していなかったのかもしれません。

なお、プンナカは「ブッダよ」と連呼していますが、呼び捨てにしている訳ではなく、ブッダという敬称で呼びかけているのです。「世尊よ」と同じニュアンスです。

SN-5-3-1052

‘‘Āsīsanti thomayanti, 
期待し 褒め称え
abhijappanti juhanti; 
要求し 供養し
(Puṇṇakāti bhagavā)
プンナカよ とブッダは
Kāmābhijappanti paṭicca lābhaṃ, 
欲望を欲求し のために 利益
te yājayogā bhavarāgarattā; 
彼らは 供養に・束縛されて 生存欲・染まり
Nātariṃsu jātijaranti brūmi’’.
ない・渡って 生と老いを・と 私は説く

ブッダ:
彼らは期待して褒め称え
要求して供養している。
プンナカよ、
彼らは自分が有利になる
望みが叶うように要求し
生存を求めて
供養にすがっている。
生と老いを越えてはいない。

解説

五穀豊穣、大漁追福、商売繁盛、家内安全、無病息災、安寧長寿、夫婦円満、子孫繁栄、招福祈願、厄除祈念と願うことは、いずれも良いことがあるようにと望むことで、欲望にほかなりません。

「いつまでも若々しくいられますように」と願う心には、「老いは惨め」という偏った価値判断があります。老いることは自然の流れです。死も同様です。すべての人は「老いて死ぬ」のが「自然の摂理=真理=ダンマ」です。

この当たり前を、少しでも自分の有利な方向に持っていきたいというのが、願いごとであり、強い欲なのです。もっと言えば、自分が置かれている現状に対する不満の現れであり、現在の否定です。たとえ病気になっても、トラブルが起きても、供物を捧げて祈るのではなく、怖れずありのままを受け止めて、誠実に対処すればいいのです。

SN-5-3-1053

‘‘Te ce nātariṃsu yājayogā, 
彼らが もし ない・渡る 供犠に・束縛
(iccāyasmā puṇṇako)
と尊者 プンナカは
Yaññehi jātiñca jarañca mārisa;
供儀によって 生と 老いと 先生
Atha ko carahi devamanussaloke, 
また 誰が それでは 神と・人間の・世界において
atāri jātiñca jarañca mārisa; 
渡ったのか 生と 老いと 先生
Pucchāmi taṃ bhagavā brūhi me taṃ’’.
お尋ねします それを ブッダに 説いて下さい 私に それを

尊者プンナカ:
もし、供養に捉われた彼らが
供養によって生と老いを
越えられなかったのなら
先生、神と人間の世界で
誰が生と老いを越えたのですか?
ブッダにお尋ねします
それを私に教えてください。

解説

バラモンの教えでもブッダの教えでも、人は輪廻によって誕生と死を繰り返します

インドの身分制度「カースト」は、バラモン(バラモン教やヒンドゥー教の司祭)を最上位に、クシャトリヤ(王族・貴族・武族)、ヴァイシャ(庶民。商人・農業・牧畜などに従事する)、スードラ(隷属民。労働者や奴隷)の4階級が続きますが、さらにその下に絶対に輪廻できない(生まれ変わっても、4つの身分には入れない)とされる人々が「アウト・カースト(カースト外)」として存在します。

この身分制度の元に生まれ出た人にとって、「次は最高位のバラモンに生まれ変わりたい」とか、「また王族に生まれて優雅に暮らしたい」とか、「もう奴隷は嫌だ!」とか、この世でより有利な身分に生まれ変わりたいと思うことは、欲でしかないとは言いつつも、やはり自然な心だと思います。

そもそも身分に価値を置き、それによって人間を差別する社会が存在するということです。有利な身分として生まれたいという思いを超えることは、私たち日本人が考えることよりも、ずっと複雑で強い思いなのだと思います。

SN-5-3-1054

‘‘Saṅkhāya lokasmi paroparāni,
分け隔てなく この世において あちら・こちらと
 (puṇṇakāti bhagavā)
プンナカよ とブッダは
Yassiñjitaṃ natthi kuhiñci loke;
者・動揺する ない・存在 どこにも この世に
Santo vidhūmo anīgho nirāso, 
穏やかで 怒らない 苦悩なく 欲望のない
atāri so jātijaranti brūmī’’ti.
渡った 彼は 生と老いを 私は説く と

ブッダ:
この世において
あちらとかこちらとか
分け隔てすることなく。
プンナカよ、
世界のどこにあっても
心が動揺しない人
穏やかで、怒らない人
苦悩がなく、欲望がない人
そんな人物が
生と老いを越えた人なのだ。

このようにブッダは言いました。

解説

Saṅkhāya(saṅkhāyati)は、考慮する、計算するという意味ですが、差別なく、注意深く、心を開いてという意味を含みます。anīgho:苦しみがない、傷つかない、平静である、へこたれない、無傷という意味です。

paroparāni:あちらこちら。あちらとは、「彼岸(涅槃)、あなた・他の存在」です。こちらとは「此岸(この世)、私・自分のもの」です。ブッダは「あちら側とかこちら側とか、あいつとか私とか、他のとか私のとか、アラハンにはそもそも自他を区別する概念はない、ということです。

涅槃を目指す者にとっては、矛盾に感じられるかもしれませんが、涅槃はそこに行きたいと思って到達できる境地ではないのです。思考を利用して智慧を得ることができる生命体(人間など)の最終到達地点ではありますが、目標とするものではないのです。

Puṇṇakamāṇavapucchā tatiyā niṭṭhitā.
プンナカ・青年・質問 3番目 終わり
まとめ

古代インドでは、こうした祭祀にとらわれない自由思想家たちが現れ、ブッダもその中の1人として、ダンマの教えを説いたようです。

このスッタ集では、「君主、民衆、バラモン、王族、人々、神々」というフレーズが何度も繰り返されています。生命をグループ化して区分することで、成立しているカースト制に対する戒めのようにも見受けられます。