11. Jatukaṇṇimāṇavapucchā ジャトゥカンニ青年の質問
ジャトゥカンニ尊者の質問に対するブッダの答えは、智慧(無我・無常・この世に実体はない)を言葉にしたものです。
SN-5-11-1102
‘‘Sutvānahaṃ vīramakāmakāmiṃ, 聞いた・私は 勇者・無欲の・と (iccāyasmā jatukaṇṇi) と・尊者 ジャトゥカンニは Oghātigaṃ puṭṭhumakāmamāgamaṃ; 激流を越えた 尋ねるため・無欲を・来た Santipadaṃ brūhi sahajanetta, 寂静の境地を 説いて下さい 洞察者よ yathātacchaṃ bhagavā brūhi me taṃ. ありのままに・真実を ブッダよ 説明して下さい 私に それを
ジャトゥカンニ:
欲のない勇者がいると聞き
激流を超えて
無欲となったその人に
質問するために
私はやって参りました。
洞察力のあるお方よ、
寂静の境地を教えてください
真実をありのままに
私に説明してください。
SN-5-11-1103
‘‘Bhagavā hi kāme abhibhuyya iriyati, ブッダは 実に 欲望を 支配している 動く ādiccova pathaviṃ tejī tejasā; 太陽が・ように 大地を 光 光によって Parittapaññassa me bhūripañña, 小さな・智慧の 私を 広大な・智慧が ācikkha dhammaṃ yamahaṃ vijaññaṃ; 報告 ダンマを それを・私は 知りたい Jātijarāya idha vippahānaṃ’’. 生と・老いと ここで 捨てること
ジャトゥカンニ:
ブッダはまさに
太陽がその光で
大地を照らすかのごとく
欲を制しておられる。
広大な智慧者よ、
わずかな智慧しかない私に
真理を説いてください。
私は知りたいのです
この世での生と老いの克服について
解説
abhibhuyya:影響力がある。支配し抑制している。tejo:炎、熱、火、光、輝き。
ジャトゥカンニはブッダを太陽にたとえていますが、これはブッダの先祖であるsākiya(釈迦族)が日種族(太陽族)であることと、太陽の光が万物を差別することなく照らすのと同じように、あらゆる存在に分け隔てなく接することができる人、という意味だと解釈しました。
SN-5-11-1104
‘‘Kāmesu vinaya gedhaṃ, 欲求に対する 律しなさい 貪求を (jatukaṇṇīti bhagavā) ジャトゥカンニよ とブッダは nekkhammaṃ daṭṭhu khemato; 離欲を 見なさい 安穏と Uggahītaṃ nirattaṃ vā, 得たもの 捨てたもの あるいは mā te vijjittha kiñcanaṃ. ならない あなたに 存在しては 何も
ブッダ:
ジャトゥカンニよ、
欲求に対する
むさぼりを抑えなさい。
欲から離れることを
安穏と考えて
得たものも、捨てたものも
何もないようにしなさい。
解説
ブッダはここで、gedha(貪欲)つまり「満足することなく、次々に飽きることなく求める心」を抑えなさい、と言っています。欲求そのものをなくしなさい、とは言っていないようです。
nekkhamma:放棄・欲を離れること。自己の所有欲と利己心を放棄し、無私無欲であることです。他者のために自分の欲(楽しみ・やりがい・自分のやり方など)をすべて捨てて、他者を優先させて奉仕すること、などの行為がネッカンマです。これは人間だからこそできる理性の行為です。実際にやってみると、心が安穏になるのが実感できます。
「得たものも、捨てたものも」とは、執着の対象となる「(私が好んで)得たもの」や、怒りの対象である「(私が嫌で)捨てたもの」が、何もないようにしなさい、ということです。
そのためには「私」という所有者の概念を放棄、すればいいのです。
「私」という思いがなくなれば、私の思い入れがある得たものは、単なるものになり、私が嫌で捨てたものも、単なるものになり、そこから特別な感情が発生しません。第三者のものに冷静に接する感覚です。
私のものでなくなれば、手放したくないという執着も、頼むからなくなってくれという怒りも、私と一緒に消えるはずです。実際にはそう簡単ではありませんが、これが自然の法則であり、無我です。
SN-5-11-1105
‘‘Yaṃ pubbe taṃ visosehi, それが 前にある それを 枯しなさい pacchā te māhu kiñcanaṃ; 後に あなたに ないように 何も Majjhe ce no gahessasi, 中間に もし ない 取るなら upasanto carissasi. 寂静に 進むだろう
ブッダ:
過去にあったものは忘れて
未来に何もないようにして
もし現在にあるものを
掴まなければ
寂静に進むだろう
解説
過去に起こったことは、良いことも悪いことも、現在ではありません。すべて記憶です。
未来に対する良いこと(期待や希望)や悪いこと(心配や不安)も、現在ではありません。すべて想像です。実際に起きることもあれば、起きないこともあり、確実に起きることは「生き物はいつか必ず死ぬ」ということだけです。
心を過去にも未来にも置かずに、今のこの瞬間の現在に意識を置いたとしても、たった今、現在に起きていることすら、瞬間瞬間に過去となっていきます。
目の前を流れる川の水は、ずっと同じに見えても、その水滴は決して同じではありません。常に変わっています。鉄は、ゆっくり酸化して錆びていきます。石は、長い年月をかけて風化して土になります。この世のあらゆるものが速かったり遅かったり、それぞれのスピードで絶え間なく変化しています。これが真実です。無常です。
すべてのことが必ず変化するのだから、この自然の法則(無常)をよく理解して、変わらないままであってほしいなどと、現在に執着しないように、というのがここでのブッダの教えです。
SN-5-11-1106
‘Sabbaso nāmarūpasmiṃ, 一切は 名称と・形態による vītagedhassa brāhmaṇa; 貪りを離れた人には バラモンよ Āsavāssa na vijjanti, 漏は ない 存在 yehi maccuvasaṃ vaje’’ti. それによって 死の力に 陥る と
ブッダ:
名前と色形への
貪りを離れた人には
バラモンよ、
死に支配されるような
抜かりはない。
このようにブッダは言いました。
解説
nāmarūpa:nāma(ナーマ)名前+rūpa(ルーパ)色形。私たちを取り巻く様々な人や物は、名前と色形に紐づけられた現象に過ぎず、実は確かな実体はありません。
例えば「私はバラが大好き」と思う時には、バラという名前が紐づけられた任意の色形を、心に思い描いています。この時、心に浮かぶイメージは人それぞれで、必ず違ったイメージを思い描いています。絵を描くのと一緒です。
そもそも何をバラだとするかは、人それぞれが勝手に選び取った概念です。
複数人で特定のバラの木を見る時、バラの花びらだけを見ている人もいれば、何本もの枝からバラが咲く様子を見ている人もいます。バラの根っこだけ見せられて、それをバラだと認識できる人は少ないでしょうが、専門家であれば、根も含めてバラの木だと見ているかもしれません。何をもって「バラ」とするかは、実はとても曖昧です。
各自が「バラ」として捉える(この世から抜き出す)色形は人それぞれなので、他者と同じ色形をバラだとすることはあり得ないのです。
バラを見たことがない人や日本語が通じない他国の人に、「あなたはバラが好き?」と日本語で尋ねた時、彼らの頭の中に、バラが思い浮かぶでしょうか? 浮かびませんよね。私たちは自分が所属する社会の共通認識に名前をつけることで、情報共有を可能にしています。
同じバラを見ていると思うのは錯覚で、便宜上名前を利用しているだけで、全く同じ色形を見たり、心に思い描くことはなのです。だからあらゆるものに1つの固定した実体はないのです。これが真実です。
私たちが宇宙の一部、地球の一部、大地の一部、である任意の部分を、意図的に色形として切り取って、バラと名付けているに過ぎないのです。犬にもアリにも魚にも、ほとんどの生物に通用しないごく限られた常識です。
だから一部でしか通用しない名前のついた色形に過ぎないものを、欲しがったり、嫌ったりすることは無意味なのです。
Jatukaṇṇimāṇavapucchā ekādasamā niṭṭhitā. ジャトゥカンニ・青年・質問 11番目 終わり
11. ジャトカンニ青年の質問 終わり