第5章 彼方への道:14. ポーサーラの質問 1118〜1121

14. Posālamāṇavapucchā ポーサーラ青年の質問

ポーサーラ尊者の質問は、深遠で解釈が難しいスッタです。

SN-5-14-1118

‘‘Yo atītaṃ ādisati, 
人は 過去を 示す
(iccāyasmā posālo) 
と尊者 ポーサーラは
anejo chinnasaṃsayo;
動揺なく 切断・疑い
Pāraguṃ sabbadhammānaṃ, 
彼岸を渡った方に すべてのダンマを
atthi pañhena āgamaṃ.
ある 質問することが やって来た

ポーサーラ:
過去について教示する人は
心に動揺がなく
疑う余地がなく
すべての真理を極めて
彼岸を渡った方に
私は質問があってやって来ました。

解説

過去について教示する人」とは?
ブッダは他者の過去生(前世)を、何百年にも遡って見通せる人だと言われています。時間と空間の領域を超越できる人(意識)であれば、容易なことかもしれません。

chinnasaṃsayo(疑う余地がない)とは、何事にも曖昧な部分がないということです。すべてがクリアであって、本当かどうか、妥当かどうか、実際は正しくないのでは、などと疑念を差し挟む隙もないのが、ブッダの教え=真理です。

SN-5-14-1119

‘‘Vibhūtarūpasaññissa, 
異・真実・色形・想念
sabbakāyappahāyino;
全ての・身体・捨て
Ajjhattañca bahiddhā ca, 
内に・も 外に も
natthi kiñcīti passato; 
ない どんなもの・と 見る人の
Ñāṇaṃ sakkānupucchāmi, 
智慧  釈迦よ・尋ねます
kathaṃ neyyo tathāvidho’’.
どのように 導かれるべきか そのような人は

ポーサーラ:
実体はなく色形の想念でしかない
一切の肉体的な形態を捨て
内面的にも外面的にも
何も存在しないことを
見抜く人の智慧について
お釈迦様にお尋ねします。
そのような人はどうやって
導かれるのでしょうか?

解説

Vi-bhūta-rūpa-saññissa:あらゆるものが、色形の想念による現象であって実体はないと気づいた人、物質的なものから意識が離れて、意識が宇宙と一体化した人、という意味だと解釈しました。色形の想念は、過去の記憶自分に都合よく脚色したものであり、それによって過去から続く「」が実体としてあるという意識が生まれます。

無我・無常の境地に至ったのに、まだ智慧が現れない人を、どうやって導くのか? という質問だと解釈しました。

ジャーナの最終段階(第8ジャーナ)に入り、物質的な要素がない(超越した)アルーパの領域に到達できているのに、智慧が現れず、そこで行き詰まってる人は、この先どうすればいいんでしょう? という質問だと、ブッダの答えから推測しましたが、この翻訳は現時点での暫定的なものになります。

SN-5-14-1120

‘‘Viññāṇaṭṭhitiyo sabbā, 
意識の・継続する すべて
(posālāti bhagavā) 
ポーサーラよ とブッダは
abhijānaṃ tathāgato;
認識している 先駆者は
Tiṭṭhantamenaṃ jānāti, 
留まる・それ 知る
vimuttaṃ tapparāyaṇaṃ.
解脱 その・最終

ブッダ:
ポーサーラーよ、
生涯続く意識の
すべてのありさまを
先駆者は認識している。
解脱の最終段階に至った者は
そこで心の成長が
止まることに気づく。

解説

ṭhiti:持続、維持、継続、存在、一生。Tiṭṭhanta:留まる。

ジャーナで得られる強い喜悦感に満足し、「これが涅槃だ」と思ってしまったら、そこでその人の心の成長は止まります。そこから抜けられなくなって、真理の世界にはいけなくなってしまいます。

SN-5-14-1121

‘‘Ākiñcaññasambhavaṃ ñatvā, 
無の状態・生起を 知って
nandī saṃyojanaṃ iti;
喜びは 束縛 と
Evametaṃ abhiññāya, 
このように・これを よく知り
tato tattha vipassati;
それゆえ そこで よく観察する
Etaṃ ñāṇaṃ tathaṃ tassa, 
この 智慧が 真実の その
brāhmaṇassa vusīmato’’ti.
バラモンは 完成した と

ブッダ:
無我・無常を知って
喜びが束縛になるということを
しっかり理解した上で
ありのままに観察するならば
真理の智慧が現れて
バラモンは解脱を完成する。

とブッダは言いました。

解説

サマタ瞑想がうまくいくと、心の荒波が消え、心は落ち着くと、自然に喜びの精神作用・喜悦感が生まれます。

外界の物質によって、見たり聞いたり、嗅いだり味わったり、触れたりすることで喜びを得ようとしても、すぐに慣れてしまって喜びは続かず、一時的な喜びしか得られませんが、このサマタ瞑想によって得られる喜びは、物質から得られる喜びとは比べものにならないくらい大きいそうです。

しかしサマタ瞑想であまりの喜悦感に浸ってしまうと、その強い喜びに満足して、ヴィパッサナー瞑想ができなくなります。ただの喜悦感を「これこそ涅槃だ」と勘違いしたら、喜びが束縛となっている状態で、そこでその人の心の成長は止まります。

この喜びは所詮、サマタ瞑想でジャーナの状態に入っている間だけです。瞑想を終えて、日常に戻れば、喜悦感も消えます。

このことを理解して、ありのままに観察(ヴィパッサナー瞑想)を続ければ、やがて智慧が現れて解脱する、というブッダの答えです。

Posālamāṇavapucchā cuddasamā niṭṭhitā.
ポーサーラ・青年・質問 14番目の 終わり

14. ポーサーラ青年の質問 終わり