第5章 彼方への道:謝辞 1130〜1136

Pārāyanatthutigāthā 謝辞

Pārāyana(あちら側に至る道)+thuti(感謝)+gāthā(句)。第5章彼方への道」には「謝辞」として、1130〜1136のスッタがあります。その内容をまとめたものが、前文としてついています。

前文

Idamavoca bhagavā magadhesu viharanto pāsāṇake cetiye,  paricārakasoḷasānaṃ brāhmaṇānaṃ ajjhiṭṭho puṭṭho puṭṭho pañhaṃ byākāsi.
Ekamekassa cepi pañhassa atthamaññāya dhammamaññāya dhammānudhammaṃ paṭipajjeyya, gaccheyyeva jarāmaraṇassa pāraṃ.  
Pāraṅgamanīyā ime dhammāti, tasmā imassa dhammapariyāyassa pārāyananteva adhivacanaṃ.

これはブッダが、マガダ国のパーサーナカ(岩窟寺院)に滞在していた時の言葉です。(バーヴァリの)従者である16人のバラモンに求められ、それぞれから順番に質問を受け、ブッダがその質問に答えたものです。

もし彼らが、それぞれの質問の意味と趣旨を理解した上で、ダンマの教えに従って生きるなら、彼らは老いと死を超えてあちら側へ行くことができるでしょう。

これらのダンマ教えはあちら側に通じていることから、この章は「彼方への道」と名付けられました。

解説

pāra(あちら側)とは、悟りの境地涅槃です。日本語訳では「彼岸」とする場合が多いようですが、お彼岸のイメージとは違うので、ここでは「あちら側」としました。

SN-5-17-1130

Ajito tissametteyyo, 
アジタ ティッサ・メッテイヤ
puṇṇako atha mettagū;
プンナカ そして メッタグー
Dhotako upasīvo ca, 
ドータカ ウパシーヴァ と
nando ca atha hemako.
ナンダ と そして ヘーマカ

アジタ、ティッサ・メッテイヤ
プンナカ、そしてメッタグー
ドータカとウパシーヴァ
ナンダと、そしてヘーマカ

解説

16人の質問者の名前が順番にあげられます。

SN-5-17-1131

Todeyya-kappā dubhayo, 
トーデイヤーカッパの 両者
jatukaṇṇī ca paṇḍito;
ジャトゥカンニ と 賢者である
Bhadrāvudho udayo ca, 
バドラーヴダ ウダヤ と
posālo cāpi brāhmaṇo; 
ポーサーラ そして・さらに バラモン
Mogharājā ca medhāvī, 
モーガラージャ と 賢明な
piṅgiyo ca mahāisi.
ピンギヤ と 長老

トーデイヤとカッパのご両人
賢者であるジャトゥカンニ
バドラーヴダとウダヤ
それからバラモンのポーサーラ
賢明なモーガラージャ
そして長老ピンギヤ

SN-5-17-1132

Ete buddhaṃ upāgacchuṃ, 
彼らは ブッダに 近づく・行った
sampannacaraṇaṃ isiṃ;
成就・行い 尊者たち
Pucchantā nipuṇe pañhe, 
尋ねる 巧妙な 質問を
buddhaseṭṭhaṃ upāgamuṃ.
ブッダに・最上の 近づいた

彼らは模範的な行いをする尊者たちで
ブッダの元へと訪ねて行きました。
難解な質問の答えを求めて
最上の覚者を訪ねたのです。

SN-5-17-1133

Tesaṃ buddho pabyākāsi, 
彼らに ブッダは 答えた
pañhe puṭṭho yathātathaṃ;
質問に 尋ねられた ありのままに
Pañhānaṃ veyyākaraṇena, 
質問を 解答することで
tosesi brāhmaṇe muni.
満足させた バラモンを 聖者は

ブッダは質問されたことに
ありのままに事実を答えました。
聖者はそれぞれの疑問を解き
バラモンたちを満足させたのです。

解説

ブッダはどんな質問をされても、何も考えたり迷うことはなかったのでしょう。あらゆる事象を全知していたのですから、ただ見て知った真実を伝えるだけです。

SN-5-17-1134

Te tositā cakkhumatā, 
彼らは 満足した 洞察力ある人に
buddhenādiccabandhunā; 
ブッダに・太陽の末裔である
Brahmacariyamacariṃsu, 
修行・生活
varapaññassa santike.
優れた智慧者の 元で

日種族の末裔であり
洞察力のあるブッダ に
彼らは満足して
優れた智慧者の元で
修行に専念しました。

解説

日種族とは、ブッダの生まれである釈迦族のことです。古代インドの王族はほとんどが、太陽神の子孫である日種族か、月神の子孫である月種族のいずれかに分かれていました。

このスッタから、ブッダの元を訪れた16人の質問者たちは、ブッダの答えを聞いた後、すぐに師匠のバーヴァリの元へ帰ったのではなく、そのままブッダの元に残って、ブッダに教えられたことを実践したようです。

SN-5-17-1135

Ekamekassa pañhassa, 
1つ1つの 質問に対して
yathā buddhena desitaṃ;
ように ブッダによって 説かれた
Tathā yo paṭipajjeyya,
そのように 人は 実行する
 gacche pāraṃ apārato.
行くだろう あちら側に こちら側から

1つ1つの質問に対して
ブッダ が教えた通りに
実践する者は
現世からあちら側に
到達するでしょう。

解説

pāra(あちら側=彼岸)と apārā(あちら側ではない=こちら側=此岸・現世) は、一般的には「彼岸と此岸(しがん)」と訳されます。これは現世において、渇望の絶え間ない流れ激流=川)を渡って(克服して)、到達するあちら側なので、と表現されます。

この世とあの世が、川という境界線で分けられている」という概念は、世界的に広く存在しています。ここから「三途の川」という概念も生まれたのだと思いますが、日本人には「死んだらこの世から、三途の川を渡って、あの世へ行く」というイメージがあり、ブッダが説いた「」の意味と「あちら側」の意味とは、ちょっとずれているように思います。

まず、「」がこの世とあちら側を分けているのは確かですが、この川は生存中に渡らなければなりません。経験を通して学ぶためには、感覚刺激を感受する肉体と意識がないとできないからです。

そして「あちら側」に行けるのは、現世での生存中にあらゆる渇望を克服できた人だけです。通常は、川を渡れないまま死にますので、また来世に生まれ変わるだけで、あちら側には行けません

この世からあちら側に渡るということは、=渇望の激流=意識の絶え間ない流れ=生命エネルギーの流れ=輪廻のサイクルを超越して、あちら側=涅槃に至るということです。

SN-5-17-1136

Apārā pāraṃ gaccheyya, 
こちら側から あちら側に 行くだろう
bhāvento maggamuttamaṃ;
修習した人たちは 道を・最上の
Maggo so pāraṃ gamanāya, 
道は それは あちら側に 行くため
tasmā pārāyanaṃ iti.
それは あちら側への道 と

最上の道を修めた者たちは
現世からあちら側に行くでしょう。
これはあちら側に行くための道なので
「彼方への道」とします。

解説

このサイトでは当初、第5章のタイトルを「涅槃への道」としていました。

一般的には「彼岸への道」と訳されますが、上述の通り日本人には、彼岸あの世死後の世界というイメージがあるので、「すべてを悟った涅槃の領域」であることがわかるように、「涅槃への道」としていたのです。

しかし、ここに来て、これだけ pāraあちら側彼岸)」を連発されると、意味的には合っていても nibbāna涅槃)と訳すのは、ダメな気がしてきました。

ということで、第5章の翻訳が完了したところで、章タイトルを「涅槃への道」から「彼方への道」に変更しました。意味的には変わりません。「彼岸への道」としてもよかったのですが、もっと普遍的な言葉をと考えて「彼方への道とした次第です。

まとめ

pāra(あちら側)+ āyana(至る道)は、ミャンマー語のパーリ語辞典では、Pāra(超越)+ā(まで・から)+ya(=i 去る)+yu(合わさる・混合)と解釈しているものもありました。

「(精神が)超越して(この世から)去り、(精神が)融合する」感じです。このイメージのままタイトルにすると「精神の超越と融合」みたいな感じですかね。一気に宗教的な雰囲気はなくなり、神秘主義的な感じが漂いはじめますが、内容的にはしっくりきました。

いずれにせよ、このサイトの翻訳は、私の意見diṭṭhi)に過ぎず、偏った考えです。あくまで世界人口分の1の偏見として、私を超える踏み台として、お楽しみいただければ幸いです。

第5章彼方への道終わり