9. Hemavatasuttaṃ ヒマラヤに住むヤッカ ①
Hemavata は、ヒマラヤに住む「yakkha(ヤッカ)」の首長で、ブッダの弟子たちが困ったときに呼び出す存在でもあったようです。
hima-vant=雪・山 =Himālaya(ヒマラヤ)のことです。yakkha(ヤッカ)は、amanussāと呼ばれる非人間的な存在の一種で、俗にいう妖怪や鬼のようなものです。yakkha は他にも守護霊や人間を指すこともあります。一般的には「夜叉(やしゃ)」と訳すことが多いようですが、このサイトでは原文のまま「ヤッカ」としました。
このスッタ集の登場人物は、ヤッカの首長ヘーマヴァタとサーターギラの2人です。
ヘーマヴァタとサーターギラは、前世は僧侶でしたが、誤った判断をしたため戒律を破り、ヒマラヤ山にヤッカとして生まれ変わりました。ヤッカの集会でお互いを認識し、生涯で何か興味深いものに出会ったら、お互いに知らせることを約束しました。
サーターギラが「ブッダに会いに行こう」とヘーマヴァタを誘い、ヘーマヴァタはブッダの資質について、サーターギラに尋ねます。
SN1-9-153
"Ajja pannaraso uposatho, 今日 15 ウポーサタ (iti sātāgiro yakkho) と サーターギラ・ヤッカは Dibbā ratti upaṭṭhitā; 神の 夜に やってくる Anomanāmaṃ satthāraṃ, 高貴な名前 師 handa passāma gotamaṃ". さあ 見者 ゴータマに
サーターギラ:
今日は15日、ウポーサタの日だ、
神聖な夜がやってくる
さあ、高名なゴータマ師に
会いに行こう。
解説
Uposatha(ウポーサタ)は、月4回(国によっては2回)、新月と満月、半月(上弦と下弦の2回)の日(週1ペース)に、戒律が実践されているかを確認する日です。ブッダの時代以前からあり、現在も仏教徒が行う行事です。
ブッダはウポーサタの日を「汚れた心を浄化し、内なる静けさと喜びをもたらすための日」として、この日は出家修行者も在家修行者も僧院に集まるように決めました。当時の出家者は、森の中に1人で野宿して修行する者も多かったのですが、この決まりによって定期的に僧院に集まるようになりました。集合した出家者は、戒律を読み上げ、お互いにきちんと守っているかを確認し合います。
普段は家庭を持ち世俗の仕事もしている在家者ですが、その日だけは一日出家者と同じ生活になり、八戒を守るよう努力し、ブッダの教えを実践して僧院で瞑想する日です。八戒は、五戒に加えて、3つの戒律(昼以降に食事をしない。装身具・化粧で飾ったり、歌や踊りなど娯楽を楽しまない。贅沢な椅子や寝具に寝ない)を守ることです。
SN1-9-154
"Kacci mano supaṇihito, どうか 心は よく向けた (iti hemavato yakkho) と ヘーマヴァタ・ヤッカは Sabbabhūtesu tādino; 全ての生き物に対し そのような人 Kacci iṭṭhe aniṭṭhe ca, どうか 好ましい ない・好ましい と saṅkappassa vasīkatā". 思考は 抑制されて
ヘーマヴァタ:
その人の心はすべての生き物に
ちゃんと向けられているのか?
好む、好まないに関わらず
思考は自制されているのか?
解説
その人とはブッダのことです。ハーマヴァタはブッダの資質について、サーターギラに尋ねています。これがまさに、ウポーサタで行う確認作業です。
SN1-9-155
"Mano cassa supaṇihito, 心は と・いる 良く向けた (iti sātāgiro yakkho) Sabbabhūtesu tādino; 全ての生き物に対し そのような人 Atho iṭṭhe aniṭṭhe ca, また 好ましい ない・好ましい と saṅkappassa vasīkatā". 思考は 抑制されて
サーターギラ:
彼の心はよく訓練されています。
すべての生き物に対して
好む、好まないに関わらず
思考は自制されています。
解説
好き嫌いに関わらず、評価したり差別したりせず、思考がコントロールされ、あらゆる生き物に対して、平等に向けられています。
SN1-9-156
"Kacci adinnaṃ nādiyati, どうか 否・与えられる 否・取る (iti hemavato yakkho) Kacci pāṇesu saññato; どうか 生物に対して 自制 Kacci ārā pamādamhā, どうか 離れ 怠慢 kacci jhānaṃ na riñcati". どうか ジャーナを ない 捨てる
ヘーマヴァタ:
彼は与えられていないものを
取らないのか?
生き物に対して
行動を自制しているか?
怠けから遠ざかっているか?
彼は瞑想を放棄しないか?
解説
jhāna(ジャーナ)は、ここでは瞑想と訳しました。
SN1-9-157
"Na so adinnaṃ ādiyati, ない 彼は 否・与えられる 取る (iti sātāgiro yakkho) Atho pāṇesu saññato; また 生物に対して 自制 Atho ārā pamādamhā, また 離れ 怠慢 buddho jhānaṃ na riñcati". 覚者は ジャーナを ない 捨てる
サーターギラ:
彼は与えられていないものを取らない。
生き物に対して自制している。
怠惰からは程遠い。
覚醒した彼は
瞑想を放棄しない。
SN1-9-158
"Kacci musā na bhaṇati, どうか 偽り ない 話す (iti hemavato yakkho) Kacci na khīṇabyappatho; どうか ない 厳しい言葉 Kacci vebhūtiyaṃ nāha, どうか 中傷 否・言う kacci samphaṃ na bhāsati". どうか 無駄話 ない 話す
ヘーマヴァタ:
彼は嘘をつかないのか?
きつい話し方はしないか?
悪口を言わないか?
無駄話をしないか?
SN1-9-159
"Musā ca so na bhaṇati, 偽り と 彼は ない 話す (iti sātāgiro yakkho) Atho na khīṇabyappatho; また ない 厳しい言葉 Atho vebhūtiyaṃ nāha, また 中傷 否・言う mantā atthaṃ ca bhāsati". 考え 道理を と 話す
サーターギラ:
彼は嘘をつかない。
きつい話し方はしない
悪口は言わない。
よく考えて良識を話す。
SN1-9-160
"Kacci na rajjati kāmesu, どうか ない 楽しむ 欲 (iti hemavato yakkho) Kacci cittaṃ anāvilaṃ; どうか 心は 汚れのない Kacci mohaṃ atikkanto, どうか 無知 超える kacci dhammesu cakkhumā". どうか ダンマに対する 洞察力がある
ヘーマヴァタ:
彼は欲に溺れないのか?
心は汚れがないのか?
妄想を超えたか?
物事の本質を
見抜く力があるか?
解説
ここでの dhamma は、物事、現象、事象といった出来事のことです。
SN1-9-161
"Na so rajjati kāmesu, ない 彼は 楽しむ 欲 (iti sātāgiro yakkho) Atho cittaṃ anāvilaṃ; また 心は 汚れのない Sabbamohaṃ atikkanto, すべての無知 超える buddho dhammesu cakkhumā". 覚者は ダンマに対する 洞察力がある
サーターギラ:
彼は欲に溺れない。
心は汚れていない。
すべての無知を超えている。
覚者は物事の本質を
見抜く力がある。
解説
欲・怒り(汚れ)・無知(妄想、愚かさ)の3つが、心身を苦しめる最も克服すべき心の動きです。詳細はこちら。
SN1-9-162
"Kacci vijjāya sampanno, どうか 知識 備える (iti hemavato yakkho ) Kacci saṃsuddhacāraṇo; どうか 行いが清らか Kaccissa āsavā khīṇā, どうか・ある 汚れ 尽きた kacci natthi punabbhavo". どうか なし 再誕生
ヘーマヴァタ:
彼は智慧を備えているのか?
行いは清らかであるか?
心の汚れを滅したのか?
もう生まれ変わらないのか?
解説
saṃsuddha+cāra:清浄な(純粋な)+行動。清らかな行いとは、身体・言葉・思考における行いのことです。
SN1-9-163
"Vijjāya ceva sampanno, 知識 備える (iti sātāgiro yakkho) Atho saṃsuddhacāraṇo; また 行いが清らか Sabbassa āsavā khīṇā, すべて・ある 汚れ 尽きた natthi tassa punabbhavo". なし 彼には 再誕生
サーターギラ:
彼の智慧は完璧であり
その行為は純粋である。
心の汚れを滅し尽くし
彼はもはや生まれ変わることはない。
解説
「もはや生まれ変わることはない」とは、悟りの最終段階に達して解脱したのだから輪廻転生することはない、という意味です。