1. Ratanasuttaṃ 宝物のスッタ集 ②
3つの宝物についての続きです。
SN2-1-232
Ye ariyasaccāni vibhāvayanti, 人たちは 聖なる・真理を よく・理解する gambhīrapaññena sudesitāni; 深い・智慧のある人によって よく説かれた Kiñcāpi te honti bhusaṃ pamattā, たとえ〜でも 彼らは なっても わがまま na te bhavaṃ aṭṭhamamādiyanti; ない 彼らは 生存を 第8の・取ることは Idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, これ・も サンガにおける 宝 優れた etena saccena suvatthi hotu. この 真実において 幸せで あれ
深い智慧の賢者が教える
4つの聖なる真理を
よく理解する者は
たとえ大きく心を
乱されたとしても
8回生まれ変わることはない。
これはサンガにとって
素晴らしい宝です。
この真実によって
幸せでありますように。
解説
「4つの聖なる真理」とは、ブッダが解脱後の7週間で、悟りの完成に必要な考えをまとめたものです。ブッダ が語ったままの言葉は、マハーサティパッターナ・スッタにあります。
悟りの4段階のうち、最初の段階であるソーターパンナになると、いつか必ず完全な悟りを開いて、最高のアラハンに達することが決定しています。「7回生まれ変わる間に、完全に悟れます」とブッダは言っています。
SN2-1-233
Sahāvassa dassanasampadāya, 共に・まさに・彼の 見ること・達成した tayassu dhammā jahitā bhavanti; 3つの・か ダンマが 放棄 起こる Sakkāyadiṭṭhi vicikicchitañca, 有身・見解 疑い・と sīlabbataṃ vāpi yadatthi kiñci. 戒律・儀式 も・また それが・あろうとも 何で
悟りを達成すると共に
その者には真理によって
3つの放棄が起こる。
「私がいる」という自我意識
疑念、そして
無意味な戒律や儀式。
解説
dassana-sampadāya:見ることを達成した=開眼=悟りの達成としました。この悟りは、最終段階(完成)ではなく、最初の第1段階(悟りを得て涅槃への道に入った)と考えました。
「3つの放棄」とは、「10の束縛のうち3つが放棄される」ということだと解釈しました。悟りの第1段階のソーターパンナで消えるのは、この3つだけだからです。このスッタは234に続きます。
SN2-1-234
Catūhapāyehi ca vippamutto, 4つの・悪道から また 離脱して chaccābhiṭhānāni bhabba kātuṃ; 6つの・また・重罪を 能力 為すことは Idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, これ・も サンガにおける 宝 優れた etena saccena suvatthi hotu. この 真実において 幸せで あれ
また、
4つの下界から解放され
6つの大罪を犯すことが
できなくなる。
これはサンガにとって
素晴らしい宝です。
この真実によって
幸せでありますように。
解説
「4つの下界から解放」とは、ソーターパンナは解脱できずに死んでも、4つの下界に生まれ変わることはない、という意味です。4つの下界は、天界と人間界の下にある4つの悪道「アシュラ(阿修羅界)・ティラッチャーナ(動物界)・ペータ(霊界)・ナラヤ(地獄界)」のことです。死後の行先について、詳細はこちら。
6つの大罪とは、母親殺し・父親殺し・アラハン殺し・覚者を傷つける・サンガを分裂させる・異教者を師とする、の6つだそうです。
SN2-1-235
Kiñcāpi so kamma karoti pāpakaṃ, たとえ~でも 彼は 行為を 為す 邪悪な kāyena vācā uda cetasā vā; 身体で 言葉で あるいは 心で または Abhabba so tassa paṭicchadāya, 不可能だ 彼は 彼の 向かって・覆う abhabbatā diṭṭhapadassa vuttā; 不可能なこと 見た者・道を 説かれた Idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, これ・も サンガにおける 宝 優れた etena saccena suvatthi hotu. この 真実において 幸せで あれ
たとえ身体で
あるいは言葉や心で
罪な行為をしたとしても、
説かれた道を見た者は
それを隠すことはできない。
これはサンガにとって
素晴らしい宝です。
この真実によって
幸せでありますように。
解説
悟りの第1段階に達したといっても、欲や怒りは消えていないので、怒りっぽい性格や、欲深い心は、まだほとんど変わっていません。激しい執着はなくなりますが、小さな悪行を犯すことはあります。ただ、何が悪いことかはよく知っているので、隠すことの恐ろしさもわかっています。だから隠すことができないのです。涅槃の境地を見た人は、悪(他を傷つける行為)を隠すことはあり得ないのです。
SN2-1-236
Vanappagumbe yatha phussitagge, 森の・木立 ように 花の咲く梢の gimhānamāse paṭhamasmiṃ gimhe; 夏の・月に 1番目の 月に Tathūpamaṃ dhammavaraṃ adesayi, そのように・喩える ダンマ・最上の 教示された nibbānagāmiṃ paramaṃ hitāya; 涅槃に・導く 最大の 利益のために Idampi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ, これ・も ブッダにおける 宝 優れた etena saccena suvatthi hotu. この 真実において 幸せで あれ
まるで夏の最初の月に
森の木々の梢に
花が咲き乱れるように
涅槃に至る最上のダンマを
人々にとって最大の
利益のために説かれた。
これはブッダにとって
素晴らしい宝です。
この真実によって
幸せでありますように。
解説
夏の最初の月とは、3〜4月頃です。インドの季節は、暑期・雨季・乾季に分けられます。 4〜5月は気温が45度まで上がるような猛暑が続き、6月〜9月末まで雨季となります。 10月~3月までは乾季で、この期間は気温・湿度ともに下がり過ごしやすい気候が続きます。
SN2-1-237
Varo varaññū varado varāharo, 高貴な人は 高貴なものを知る 高貴なものを与える 高貴なものをもたらす anuttaro dhammavaraṃ adesayi; 比類なき人は ダンマを・優れた 教示された Idampi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ, これ・も ブッダにおける 宝 優れた etena saccena suvatthi hotu. この 真実において 幸せで あれ
貴いものを知り
貴いものを与え
貴いものをもたらす。
貴い比類なき人が
貴いダンマを説かれた。
これはブッダにとって
素晴らしい宝です。
この真実によって
幸せでありますように。
解説
貴い(たっとい)は、他に代えるものがない(貴重)ということです。
SN2-1-238
Khīṇaṃ purāṇaṃ nava natthi sambhavaṃ, 尽き 古いもの 新しいもの ない 発生 virattacittāyatike bhavasmiṃ; 離貪心・未来の 生存に対して Te khīṇabījā avirūḷhichandā, この 尽きた・存在の種が ない・増長・求める nibbantntti dhīrā yathāyaṃ padīpo; 滅尽する 賢者たちは このように 灯火 Idampi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ, これ・も サンガにおける 宝 優れた etena saccena suvatthi hotu. この 真実において 幸せで あれ
古い行為は消滅し
新しい行為は生じない。
未来に生まれ変わりたい
という欲を離れて
存在の種が尽き
欲がなくなった賢者たちは、
灯火のように消えていくのです。
これはサンガにとって
素晴らしい宝です。
この真実によって
幸せでありますように。
解説
これは悟りを完成したアラハンについてのスッタです。悟りの最終段階であるアラハンに到達すると、これまでの古い行為(kamma カンマ)は全て無効になります。新しく何かをしても、結果が出ないまま消えてしまいます。善いエネルギーも悪いエネルギーも生じないので、心にエネルギーを蓄えることができません。
すべての束縛が消えているので、どこかに生まれ変わりたいとか、もっとあれこれしたい、あれこれし足りないという気持ちが全く生まれません。つまり生命の源である衝動のエネルギーが発生しないので、輪廻転生のエネルギーがなくなり、生まれ変わることができなくなります。肉体の死(新しい細胞が生まれない)と共に灯火(ともしび)のようにスッと消えます。
SN2-1-239
Yānīdha bhūtāni samāgatāni, 彼ら・ここに 存在たち 集まった bhummāni vā yāni va antalikkhe; 地上に あるいは 彼ら あるいは 空中に Tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ, タターガタを 天神に・人間に・尊敬された buddhaṃ namassāma suvatthi hotu. ブッダを 帰依しよう 幸せで あれ
地上に住むもの
あるいは空中にあるもの
ここに集まった
生命あるものたちよ、
天神に人間に尊敬される
タターガタに
ブッダに帰依します
幸せでありますように。
解説
この発言者が誰かは不明ですが、アーナンダの語りを受けての返答だと思います。通説では、帝釈天=インドラ神となっているようです。
namassāma:namas(ナマス)は、敬意、尊敬、崇敬を表するという意味ですが、帰依の同義語です。インドやネパールでの挨拶の言葉「ナマステー(こんにちは)」のナマス(礼・おじぎ・挨拶をする)です。南無阿弥陀仏の南無でもあります。
Yānīdha bhūtāni samāgatāni, 彼ら・ここに 存在たち 集まった bhummāni vā yāni va antalikkhe; 地上に あるいは 彼ら あるいは 空中に Tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ, タターガタを 天神に・人間に・尊敬された dhammaṃ namassāma suvatthi hotu. ダンマを 帰依しよう 幸せで あれ
SN2-1-240
地上に住むもの
あるいは空中にあるもの
ここに集まった
生命あるものたちよ、
天神に人間に尊敬される
タターガタに
ダンマに帰依します
幸せでありますように。
解説
同じくダンマに帰依することを宣言しています。
SN2-1-241
Yānīdha bhūtāni samāgatāni, 彼ら・ここに 存在たち 集まった bhummāni vā yāni va antalikkhe; 地上に あるいは 彼ら あるいは 空中に Tathāgataṃ devamanussapūjitaṃ, タターガタを 天神に・人間に・尊敬された saṅghaṃ namassāma suvatthi hotūti. サンガを 帰依する 幸せで あれ
地上に住むもの
あるいは空中にあるもの
ここに集まった
生命あるものたちよ、
天神に人間に尊敬される
タターガタに
サンガに帰依します
幸せでありますように。
解説
ブッダ・ダンマ・サンガの三宝に帰依しました。修行者にとっての宝物とは、ブッダ(覚者)、ダンマ(教え=真理)、サンガ(出家者のコミュニティ)の三宝です。
Ratanasuttaṃ paṭhamaṃ niṭṭhitaṃ. 宝物・スッタ集 1番目の 終わり
1. 宝物のスッタ集 終わり
まとめ
このスッタ集の最後の3つのスッタでは、「(私は)三宝に帰依します」となっています。namassāma(帰依)とは、「優れたものを心の拠り所(励み)として、敬意をもって自力で教えを理解する」ということです。
namassāma(帰依する・お任せする)の部分を「礼拝する」とか「奉る」と訳してしまうと、帰依の本来の意味が違ってしまうように思います。ブッダは「拝みなさい、私を信じなさい」とは、一度も言っていません。
このスッタ集自体に問題があるわけではありませんが、ここからいつの間にか、自力で学ぶ意思が楽な方に流れていき「優れたものに頼ること、依存すること」になり、現在主流の「他力本願」に変わっていったように感じました。まさに、「人は6つの感覚器官から得た刺激情報を、自分の感覚を加えて、都合よく再構築して認識する」のですね。
ブッダ・ダンマ・サンガの力で幸せになるのではありません。拝めば幸せになるのではなく、信じれば幸せになるのでもないのです。教えが真理だから、誰もが幸せになるのです。
現代の瞑想修行でも、瞑想終了時に深々とお辞儀をする人がいたり、両手をすり合わせて「有難や、有難や、ブツブツ…」となっている人がいます。お辞儀をするしないは個人の自由なので、それ自体に問題はないのですが、それを見た人が、そうすべきなのかと真似してしまうことが問題のように思います。
かくいう私も実はその一人で、そういうものかと思って真似するうちに、いつの間にか儀式っぽく(心の声=ははーーっ)となっていたことがあるのです。ある方が「深々とお辞儀って、どうなんだろう?」と言った言葉にハッとして、それからは普通の挨拶としての一礼(心の声=ウッス)にとどめています。
「幸せになりたければ、自分自身で確信をもって、教えの中身を正しく理解しなさい」とブッダは説いています。三宝に依存するのではなく、三宝を励みにして自らの修行によって悟りを得るのです。
このスッタ集の元となるヴェーサーリーの町を一掃した件も、両国の王が、わざわざ来てくれるブッダのために、道をきれいにしなくては、と自ら動いたから衛生状態が改善し、自然の摂理(ダンマ)でやっと大雨が降ったから、かんばつが解消されて飢饉が改善し、その大雨が整備した道を洗い流したから、死体も病原菌も一掃されたのではないでしょうか。
悪霊は、そもそもいるのかどうか不明ですが、飢饉と疫病に苦しむ人々の心は、邪気に満ちていたことでしょう。ブッダたち(サンガ)が来てくれると聞いただけで、安心して明るい心になったのでは? ブッダが何かをしたわけではなく、ブッダを心の励みとして、みんなが自分で頑張ったからだと思います。
そういう意味で、ブッダ・ダンマ・サンガは宝物なのは間違いないと思います。