第1章 蛇:2. 富裕層ダニヤ 26〜34

2.Dhaniyasuttaṃ ダニヤのスッタ集 ②

SN1-2-26

‘‘Atthi vasā atthi dhenupā, 
いる 仔牛 いる 母牛(乳牛) 
(iti dhaniyo gopo)
Godharaṇiyo paveṇiyopi atthi;
雌牛 若牛 いる 
Usabhopi gavampatīdha atthi,
雄牛 牛王・ここに いる
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

仔牛もいれば母牛もいる、
とダニヤ は言う。
雌牛も若牛もいるし
雄牛やボス牛もここにはいる。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

この時代の牛は貨幣の代わりに交換対象となる財産です。ダニヤは豊かな牧草地に、あらゆる種類の牛を3万頭も所有しています。家があり、食に困らず、従順で良き妻がいて、安定した稼ぎがあり、息子たちも健全に育ち、財産はたっぷりあるのです。ダニヤはこれらを、自分の幸せの根拠としています。

SN1-2-27

‘‘Natthi vasā natthi dhenupā, 
ない 仔牛 ない 母牛
(iti bhagavā)
Godharaṇiyo paveṇiyopi natthi;
雌牛 若牛 いない 
Usabhopi gavampatīdha natthi,
雄牛 牛王・ここに いない
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

仔牛もいないし母牛もいない、
とブッダ は言う。
雌牛も若牛もいないし
雄牛やボス牛もここにはいない。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

ブッダは持たないことの幸せを説いています。何かを所有すれば、それがなくなることを心配しなくてはなりません。あらゆるものは、いつかは必ず離れていくのが真理です。死んだり、病気になったり、怪我をすることもありますし、永遠に朽ちない物質はありません。何かを所有し、そこに愛着が生まれれば、その度に新たな苦しみを生むことになるのです。所有しているダニヤ自身もいつかは必ず死を迎え、死んでしまえば、どんな牛も持っていくことはできないのです。

あらゆる物事は常に変化する現象であり、「私」も心が作り出した現象に過ぎません。「私」というものは本当は存在しないのだから、心が作り出した「私」が、財産を持っていると思っても、それは事実ではない、意味のないことなのです。

SN1-2-28

‘‘Khilā nikhātā asampavedhī, 
杭 埋もれた 否・緩い
(iti dhaniyo gopo)
Dāmā muñjamayā navā susaṇṭhānā;
縄 カヤ・つくる 新しい よく整えられた
Na hi sakkhinti dhenupāpi chettuṃ,
ない さえ できる 若い牛 切る
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

杭はしっかり打ち込まれている、
とダニヤは言う。
茅で編んだ新しい縄はよくできていて
若い牛でも切れないだろう。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

ダニヤは自分が所有する財産である牛を、しっかりつなぎ止めています。そこには「自分の牛」という概念が芽生え、それに対する執着があります。「他人の牛」はなくなっても気になりませんが、「自分の牛」がなくなっては嫌だからつなぎ止めるのです。ダニヤは牛を束縛して安心感を得ようとしていますが、その執着こそが自分自身の心を束縛し、苦しみの原因となるのです。

SN1-2-29

‘‘Usabhoriva chetva bandhanāni, 
雄牛のように 切断する 束縛
(iti bhagavā)
Nāgo pūtilataṃva dālayitvā;
象(大蛇)は 蔓草 分割(破壊)
Nāhaṃ punupessaṃ gabbhaseyyaṃ,
ない・自分 再び・隷属 胎内
atha ce patthayasī pavassa deva’’.

雄牛のように束縛を破った、
とブッダは言う。
象が蔓草を踏みにじるように
私はもう母胎に宿ることはない。
だから神よ
いつでも雨を降らせなさい

解説

対するブッダは、拘束された雄牛に自身を重ね、その束縛を破り、象のように蔓草を踏みにじったとしています。nāgonāga)には「蛇」という意味と「象」という意味があります。この章が「蛇の章」であることから、蛇と訳すこともできますが、この章では蛇を「uraga、sappa」としているので、ナーガは象と訳しました。いずれにせよ、象なり大蛇なりが、蔓草を踏みにじるように、束縛から解放された、ということです。

「もう母胎に宿ることはない」とは、束縛から解放されて涅槃に至った人は、輪廻転生しないので、再び母親の胎内に生まれることはない、という意味です。

SN1-2-30

‘‘Ninnañca thalañca pūrayanto, 
低地 高地 いっぱいにする
mahāmegho pavassi tāvadeva;
大雲は 雨を降らせる その時
Sutvā devassa vassato,
聞いて 神が 雨を降らせるのを
imamatthaṃ dhaniyo abhāsatha.
このように ダニヤは 言った

その時、大雲が現れ
平地も高台も埋め尽くすほどの
大雨が一気に降り注いだ。
神が降らせる雨音を聞いて
ダニヤはこう言った。

解説

ついに嵐が起こって大雨が降り、洪水となりました。ダニヤがつないだ牛も岸辺の小屋も全てが水没してしまいます。

SN1-2-31

‘‘Lābhā vata no anappakā, 
利益 実に 私たちの 多くの
ye mayaṃ bhagavantaṃ addasāma;
それは 私たちが 世尊を 見た 
Saraṇaṃ taṃ upema cakkhuma,
拠り所に あなたに 近づく 洞察力や智慧がある 
satthā no hohi tuvaṃ mahāmuni.
先生 私たちの ある あなたは 偉大な・賢人

私たちが世尊にお目にかかったことは
実に計り知れない恩恵です。
洞察力や智慧のあるあなたを
拠り所として帰依します。
偉大なる賢者よ
私たちの師となってください

解説

牛も家も流され、仕事も失ったダニヤは、すべてを失ったことで、何ものにも束縛されない真の自由を得たことに気づきました。それはブッダに出会い、ブッダ との会話によって学んだからこそ、気づくことができたのです。bhagavant:世の中で最も尊い人。ブッダに対する敬称です。

SN1-2-32

‘‘Gopī ca ahañca assavā, 
牛飼い女 そして 私も 従順
brahmacariyaṃ sugate carāmase;
戒律に従って修行を 善処・行き 行う
Jātimaraṇassa pāragū,
生・死・の 向こう側に渡った人
dukkhassantakarā bhavāmase’’.
苦しみ・終焉・成す人 なるだろう

私も妻も従順に
あなたのもとで戒律に従い
修行を行えば
輪廻のサイクルから解脱し
苦しみを終わらせることができるでしょう

解説

災難に見舞われた時、全てを失ったことで嘆き悲しみ絶望するのが一般的な反応ですが、ダニヤはここから悟りを得ました。そしてダニヤは、新しい人生を始めることを決意したのです。

SN1-2-33

‘‘Nandati puttehi puttimā, 
喜ぶ 子供によって 子を持つ人 
(iti māro pāpimā)
と マーラ 罪深い
Gomā gohi tatheva nandati;
牛飼い 牛 によって・こそ 喜ぶ
Upadhī hi narassa nandanā,
近く・置くことから 実に 人々の 喜
na hi so nandati yo nirūpadhi’’.
ない 実に 彼は 喜び 人は ない・近くに置く

子供がいるから
親には喜びがあるのだ、
と罪深いマーラ は言う。
牛がいるから
牛飼いには喜びがある
人々の喜びは
得たものから生じる
何も持たない人に喜びはない

解説

ダニヤとブッダの会話に、悪の化身マーラが加わります。マーラは、ブッダが悟りを開く際に、瞑想を妨げるために現れたとされる魔物のことですが、「悪魔」のような存在ではありません。外部からやってくる何かではなく、私たちの心の中にある邪悪な部分の象徴です。無我の境地に至ると自己が死滅することになるので、それを妨害しようと現れる心の動きでもあります。

ここでは、聖なる道を歩もうと決心したダニヤ の心の邪悪な部分が現れて、ダニヤ を引き止めようとしています。「持つことが喜びだ」とするマーラ の発言は、世間の常識でもあります。

SN1-2-34

‘‘Socati puttehi puttimā, 
憂う 子供によって 子を持つ人
(iti bhagavā)
Gopiyo gohi tatheva socati;
牛飼い 牛 によって 憂う
Upadhī hi narassa socanā, 
近く・置くことから 実に 人々の 憂いは
na hi so socati yo nirūpadhī’’ti.
ない 実に 彼は 憂う 人は ない・近く・置く

子供がいるから
親は心配になるのだ、
とブッダ は言う。
牛がいるから
牛飼いは心配になる
人々の心配は
得たものから生じる
何も持たない人は心配しない

解説

世間の価値観においての幸せは、家族や財産です。しかし家族や財産があることは、心を縛ることになるのです。子供がいるから、心配になり苦しみが生まれます。財産があるから、その維持に苦しみ、失うことの不安が生まれます。財産や家族があるから不安になるのです。
それがない人、何も持たない人は怖れも不安もなく、安心で自由なのです。

ブッダが目指した道は、俗世間で幸福に生きることではありません。生きるためにあらゆる人や物に依存することをやめ、心を強くして『依存』からの『絶対的な独立』を目指す道です。

Dhaniyasuttaṃ dutiyaṃ niṭṭhitaṃ.
ダニヤのスッタ集 2番目 終わり

2. ダニヤのスッタ集 終わり