第2章 小さな章:6. 出家生活① 276〜280

6. Dhammacariyasuttaṃ 出家生活のスッタ集①

dhamma(ダンマの)+cariya(行動)=ダンマの生き方、出家生活のことです。

このスッタ集には、「カピラのスッタ集」という別名がついています。

カピラは、カッサパ・ブッダの時代(ゴータマ・ブッダの前の時代)に、出家修行僧としてカッサパの元で修行していました。弟のソーダナはすぐにアラハンとなりましたが、カピラは、ティピタカ(三蔵経典)に精通している自分の知識に酔いしれて、誰に対しても反対意見を述べる、我の強い欲深い人物でした。周りの戒めも聞かず、母や妹に付きまとい、悪行の限りを尽くしたそうです。

ある日、カピラがパーティモッカ(出家修行者のための227の規律)を唱えている時、他の出家僧が誰も返事をしなかったので(カピラは守っていないという意味)、怒って「ダンマも戒律もない」と否定しました。こうして彼は解脱の道を自ら閉ざし、死後に魚に生まれ変わりました。

魚に生まれ変わったカピラは、ある日、漁師に捕まり、コーサラ王に捧げられました。その魚が金色に輝いていたので、王はその色の説明を求めてブッダのところに連れて行きました。

魚が口を開けると、ジェータバーナ(ブッダが滞在していた僧院『祇園精舎』)全体が悪臭を放ちました。ブッダは魚に問いただし、自分の罪を告白させました。魚は自責の念にかられたまま死に、地獄に生まれ変わりました。

このスッタ集は、そのカピラの話です。ブッダが魚のカピラに問いただした時の言葉なのかもしれません。

SN-2-6-276

Dhammacariyaṃ brahmacariyaṃ, 
ダンマの・行動 禁欲・行動
etadāhu vasuttamaṃ;
これ・言う 富・最上の
Pabbajitopi ce hoti, 
出家 もし なる
agārā anagāriyaṃ.
家庭 ない・家

ダンマの生き方
清らかな生活である
出家は無上の財産と言えます。
家を出て家庭がなくても。

解説

brahmacariyaṃ:戒律を守り、淫欲を断って簡素な生活をすることです。出家は、大金をお布施するよりも遥かに大きな功徳となるそうです。上座部(テーラワーダ)仏教の国々では、親孝行のために出家する人がたくさんいます。

出家生活は、戒律に違反しない限り自由です。瞑想しようがしまいが、各自で戒め律することなので、どこまでも堕落していくこともできます。森の中での修行を選べば、野宿で過酷な生活となりますが、街中の僧院を選べば、在家のお布施に助けられて居心地よく生活することもできます。

SN-2-6-277

So ce mukharajātiko, 
彼は もし 饒舌な・人種
vihesābhirato mago;
害を・喜ぶ 獣人
Jīvitaṃ tassa pāpiyo, 
生活 彼の より悪い
rajaṃ vaḍḍheti attano.
汚れ 増やす 自分の

もし口が達者で
他者が害することを
喜ぶ獣のような人種なら
その人の生き方は
どんどん悪くなり
自分の汚れを増大させる。

解説

カピラのことですが、出家者でなくとも、言葉で他者を傷つけ、苦しめることを楽しむような人は、結局自分が汚れて不幸になるだけです。

SN-2-6-278

Kalahābhirato bhikkhu, 
争い・悦に入る 比丘は
mohadhammena āvuto;
無知・ダンマに 覆われた
Akkhātampi na jānāti, 
説明・たとえ ない 知る
dhammaṃ buddhena desitaṃ.
ダンマを ブッダが 説いた

争いを好む出家修行者は
無知に覆われていて
ブッダの説いたダンマを
説明されても理解しない。

解説

他人事のように聞こえるでしょうか? 誰かの説明を聞く時、批判的な気持ちがあったり、「そんなの知ってる」と思って聞けば、役に立つ話も自分のためになりません。たとえつまらない話でも、真剣に耳を傾ければ、何かしら役に立つ発見が必ずあるものです。

出家者でなくとも、他者を侮ってはいけないのです。損をするのは自分だけです。

SN-2-5-279

Vihesaṃ bhāvitattānaṃ, 
困らせる 修習された人々を・自己
avijjāya purakkhato;
無明 優先する
Saṃkilesaṃ na jānāti, 
自分の・穢れ ない 知る
maggaṃ nirayagāminaṃ.
道 ニラヤに・至る

修行者たちを困らせて
無知を顧みず
自分の心が穢れて
地獄への道であることに
気づいていない。

解説

この世には、人の数だけ考えがあり、一致しているようでも完全一致の考えはあり得ません。

同じことを経験していても、それぞれの感覚や捉え方、立場、社会通念など様々な要因によって、それぞれの心に映る経験は、大きく異なっています。それを元に、さらに各人が色眼鏡(偏見)で味付けした判断なのですから、正しいも正しくないもないのです。

それぞれの見方であり、考え方でしかありません。100人いれば、必ず100通りの見解があるのです。ノーベル賞を受賞した博士であろうとも、殺人犯であろうとも、それぞれの意見に過ぎず、本当は正しいも正しくないもないのです。

にもかかわらず、「自分が正しい」と判断する心は、「自分以外は正しくない」という判断であり、他者よりも自分を優先させる考えです。だから「自分が正しい」という思いがある時には、自分は無知なんだ、無明(真理に明るくない)だと気づいた方がいいのです。気づかずにそのまま進めば、周囲を否定し続けることになり、他者を困らせるだけでなく、結局、自分の居場所がなくなるだけです。お先真っ暗です。

SN-2-5-280

Vinipātaṃ samāpanno, 
下に・落ちる 到達した者は
gabbhā gabbhaṃ tamā tamaṃ;
母胎から 母胎に 闇から 闇に
Sa ve tādisako bhikkhu, 
彼は 実に そのような 比丘は
pecca dukkhaṃ nigacchati.
死後 苦しみを 受け取る

堕落した者は
胎内から胎内へと
生まれ変わり
闇から闇へと進む
そのような出家修行者は
死後に苦しみを受け取る。

解説

人には、4つの道があります。光から光へと進む道、闇から光へと進む道、光から闇へと進む道、闇から闇へと進む道です。光から光、または闇から光へと進みたいものです。

カピラのスッタ集②に続きます。