第2章 小さな章:6. 出家生活② 281〜285

6. Dhammacariyasuttaṃ 出家生活のスッタ集②

出家生活の調和を乱すカピラのスッタ集の続きです。

SN-2-5-281

Gūthakūpo yathā assa, 
糞便・坑 のように 状態
sampuṇṇo gaṇavassiko;
いっぱい  年季が入った
Yo ca evarūpo assa, 
人は と このような 状態
dubbisodho hi sāṅgaṇo.
清めるのが難しい 実に 汚れた

年季が入った糞便坑に
汚物がこびりつくように
邪悪に満ちた者は
きれいにするのが難しい。

解説

Gūthakūpaは、排出された糞便を溜める縦穴、「肥だめ」のことです。カピラの心は汚物がこびりついて、もはや浄化できない状態です。

インドのトイレはこのスッタの時代(2500年前)と、あまり変わっていないようです。インドのトイレ事情について少しだけ、レポートします。

インドのモディ首相は、2014年の就任時に「すべての人にトイレを」と公約し、「Toilet first, Temple later(トイレが先、寺院は後)」のスローガンを掲げて、トイレ普及運動を展開しました。2019年10月、ガンジー生誕150年に合わせて、「13億人の国民全員にトイレが整備され、インドから野外排泄がなくなった」と宣言しました。

これによって、女性が夜になるまでトイレを我慢しなくていい、などメリットもあるようですが、実際には、新たに整備されたトイレの多くが使われていないとの指摘もあります。ヒンドゥー教徒が宗教的な理由で、不浄であるトイレを禁忌したり、トイレ掃除や汚物回収費用を懸念して、これまで通り野外で排泄し、トイレを利用しない家庭も多いのです。そして新たな問題も起きています。

この運動によって新設されたトイレの多くは、下水処理施設のない農村地帯にあります。それまでは人家から離れた森や雑木林で用を足していた人々が、この政策により、2パターンのトイレを利用することになりました。

1つは、このスッタと同じく排せつ物を井戸のような汚水槽に溜めるパターンです。糞尿の処理は、マンホールのような縦穴式の汚水槽に人(男性)が入り、汚物を汲み取ったり、手で下水の詰まりを取り除きます。もう1つは、乾式の簡易トイレを設置して、糞尿は家の片隅に放置するパターンです。朝になると汲み取り人(女性)が糞尿を掃除し、頭上にのせて家の外に捨てに行きます。いずれも手作業で排泄物を処理する、違法な糞尿処理方法です。

インドでは手作業による糞尿処理が、2013年に法律で禁止されたにもかかわらず、多くの農村地域で、こうした仕事が手作業で、安全装備もないまま不衛生な状態で行われています。

そしてこの仕事は「カースト外」とされている人々「ダリット(壊された民)」がやらされています。

ダリットとは、スッタニパータ「第1章 蛇」の7番目のスッタ集「ヴァサラ・卑しい人」のテーマとなっている貧困層のことです。2500年以上前のブッダの時代から、「カースト外」としてインド社会で根拠なく差別されてきた先住民です。

ブッダの時代から変わることなく彼らに、選択の余地なく与えられる仕事のひとつが、この「糞尿処理」です。

インドには、汲み取り人として働く人が現在、約34万人いるそうです。彼らは尊厳を無視され、人が嫌がる仕事をしても、感謝されることなく蔑まれています。その代価はわずかなお金や古くなった食べ物だそうです。

SN-2-5-282

Yaṃ evarūpaṃ jānātha, 
彼を このように 知りなさい
bhikkhavo gehanissitaṃ;
比丘は 在家に執着している
Pāpicchaṃ pāpasaṅkappaṃ, 
悪い・欲望を持つ 悪い・思考
pāpaācāragocaraṃ.
悪い・行為・餌

出家者よ
彼は世俗に執着があり
悪い欲や邪悪な考えがあり
悪行を餌にしている人
だと知りなさい。

解説

これは誰の発言なのかは不明ですが、カピラに対する批判の言葉です。

SN-2-5-283

Sabbe samaggā hutvāna, 
一切は 統一 ある
abhinibbajjiyātha naṃ; 
向かって・外に・出す 彼を
Kāraṇḍavaṃ niddhamatha, 
籾殻を 外に・吹く 
kasambuṃ apakassatha.
ゴミを 除去しなさい

みんなで一致団結して
このような者は外に掃き出し
籾殻のように吹き飛ばし
ゴミを片付けなさい。

解説

ちょっとキツイ言葉ですね。果たしてブッダが言うだろうかと思いますが、サンガ(出家修行者の集団)においては、戒律を守らなかったり、真理の教えを混乱させたり、邪悪な考えで他者を翻弄したりすることは、厳しく罰せられたそうです。

戒律の「」は戒めであり、厳格な規則ではなく自発的に守るもので、出家者が生きるためのあらゆる欲に節度をもたせるためのものです。「」は律することで、サンガとして守る集団規則で、独りよがりな修行や他者の修行の妨げとなることを防ぐため、違反内容に従って罰則が設けられています。一番重い罰則が「破門」です。

SN-2-5-284

Tato palāpe vāhetha, 
それ故 籾殻 運び
assamaṇe samaṇamānine;
ない・サマナ サマナ・慢心ある
Niddhamitvāna pāpicche, 
吹き飛ばせ 悪い・欲
pāpaācāragocare.
悪い・行為・餌

自惚れ者は出家者ではない
だから籾殻は取り除き
邪悪な欲望を持ち
悪行を餌にする者を
吹き飛ばしなさい。

解説

なぜ籾殻なのでしょう? 籾殻は、中身である米がなく外観だけの状態です。籾殻=中身のない上っ面だけの、吹けば飛ぶ人間ということだと思います。

SN-2-5-285

Suddhā suddhehi saṃvāsaṃ, 
清浄な人は 清浄な人と 共住
kappayavho patissatā;
相応 記憶する
Tato samaggā nipakā, 
それ故 統一 賢明な
dukkhassantaṃ karissathāti.
苦しみ・静まる 行う・だろう・と

清い人は清い人と
共に暮らし
賢い統一見解をもって
苦しみを終わらせることが
できるでしょう。

解説

全員一致でカピラを破門とする、ということのようです。いつの世もどこにでも、必ず困ったちゃんはいるものです。出家者と在家者とでは、守る戒律が違います。このスッタ集は出家生活がテーマなので、出家者の視点での厳しい制裁となったのでしょう。

Dhammacariyasuttaṃ [kapilasuttaṃ (aṭṭha.)] chaṭṭhaṃ niṭṭhitaṃ.
ダンマの・生き方・スッタ集(カピラの・スッタ集)6番目の 終わり

6. 出家生活 終わり

まとめ

このカピラのスッタ集は、自我が特に強い場合の戒めだと思います。

瞑想修行をしていても、自我がなくなるどころか、ますます強くなる場合もあるのです。すべての生命には、自我があります。犬も魚もです。感覚に反応するのは、自我があるからです。

自我は、感覚から生じます。

見た・聞いた・嗅いだ・味わった・触った・感じた、その主体として自我が生じます。この我を張ると、家庭でも職場でも人間関係がギスギスします。我が強い人は、他者とよく衝突しますが、我が強いということは、他者との区別がより明確だということで、そこに分断が生じます。そして自我が強ければ強いほど、独裁的になり、最終的には社会に居場所がなくなり、孤立や自殺に追い込まれます。

日本には、我が強いことをよしとしない文化がありますが、これも元々はインドで発生した仏教の精神のはずです。生命はお互いに協力しないと成り立ちません。

日本人の多くはこのことを直感的に選び取り、「和を尊び」譲り合って、お互い様の精神で生きていると思います。西洋文化の影響で、個人の意識が強くなり、外で「損しないように」「負けないように」と身構える中で、我が強くなった部分も否めませんが、私たちは「損して徳とれ」「自分に負けない。怠けない」ができる強い精神の民族だと思います。

インドのトイレは2500年前とさして変わりませんが、これに比べて日本のトイレは半世紀で、汲み取り便所、水洗、洋式、暖房便座、音姫、温水洗浄、自動開閉洗浄と進化し、今ではマドンナも絶賛するほどです。両国の文化の成熟度の違いは、この「」の強さの違いもあるかもしれないと思いました。

世界では現在、3人に1人がトイレのない生活をしています。そのことを問題だと捉えるかどうかは各人の自由です。

いずれにせよ、総じて平和に、こうしてブッダのスッタに親しみ、瞑想して暮らせることは、私たちがダンマの生き方に則っているからだと思います。日本は、人間界よりも上の天界なのかもしれませんね。せめてトイレ掃除は、自分でやりましょう。