第2章 小さな章:11. 息子ラーフラ 337〜344

11. Rāhulasuttaṃ ラーフラのスッタ集

Rāhula(ラーフラ)は、ブッダ のひとり息子の名前です。ブッダが出家する前、まだゴータマ・シッダッタ王子だった頃、妻であるヤショーダラーとの間にもうけた王家の後継ぎです。ブッダは後継者であるラーフラが生まれた後に、王室を出て出家したといわれていますが、そのタイミングは諸説あります。

Rāhu(ラーフ)は、光を遮るもの(障害)という意味です。元々はインド神話に登場するアスラ(魔神。天神=デーヴァと対立する存在)の名前で、4本の腕と1本の尾を持ち、日食・月食を起こす原因とされます。ブッダは息子に「光を遮るもの=枷・束縛」と名付けたのです。

ラーフラは小僧として、幼いうちにブッダ の元に出家しました。ブッダは最も信頼する弟子であるサーリプッタにラーフラを託しました。

個人的には、このスッタ集が読みたくてスッタニパータの翻訳を始めたと言っても過言ではありません。いったいどんなスッタなのでしょうね。

SN-2-11-337

‘‘Kacci abhiṇhasaṃvāsā, 
だろうか 習慣に・共住
nāvajānāsi paṇḍitaṃ;
ない・軽視する 賢者を
Ukkādhāro manussānaṃ, 
松明・保持する 人間に
kacci apacito tayā’’.
だろうか 尊敬する 君は

一緒に暮らしているうちに
賢者を軽んじてはいないか?
人類に光を与える者を
君は尊敬しているか?

解説

ブッダがラーフラに尋ねた質問です。賢者とはサーリプッタのことです。

SN-2-11-338

‘‘Nāhaṃ abhiṇhasaṃvāsā, 
ない・我 習慣に・共住
avajānāmi paṇḍitaṃ;
軽視する 賢者を
Ukkādhāro manussānaṃ, 
松明・保持する 人間に
niccaṃ apacito mayā’’.
常に 尊敬する 私は

一緒に暮らしているうちに
私が賢者を軽んじることはない。
人類に光を与える者を
私は尊敬しています。

解説

ラーフラの答えです。人は、遠い関係であれば気にならないことも、近い関係の相手だと気になるものです。

SN-2-11-339

‘‘Pañca kāmaguṇe hitvā, 
5つの 欲の・対象を 捨てて
piyarūpe manorame; 
好む・色形 心は・喜ぶ
Saddhāya gharā nikkhamma, 
確信により 家から 出た 
dukkhassantakaro bhava.
苦しみを・止める ありなさい


5つの感覚器官の対象である
心を喜ばせる好むものを捨て、
確信をもって
出家したのだから
苦しみは終わりにしなさい。

解説

「5つの感覚器官の対象である、心を喜ばせる好むもの」とは、好きな見た目(色形)・好きな音や声・好きな香り・好きな・好きな触り心地の5つです。

「確信をもって出家した」とは、自分の意志によって、間違いはないと理解した上で出家したということです。

SN-2-11-340

‘‘Mitte bhajassu kalyāṇe, 
友と 親みなさい 善き 
pantañca sayanāsanaṃ; 
辺境の・と 寝る場所
Vivittaṃ appanigghosaṃ, 
遠離 少しの・音
mattaññū hohi bhojane.
適量を あれ 食べ物は

善き友と親しみ
静かな人里離れた場所で
暮らしなさい。
食べ物は適量を知ること。

解説

自分の内側を見つめるためには、外からの刺激は極力減らします。そして周りの人や物に依存しない心を鍛えます。出家修行者であれば、山奥に籠ることもできますが、在家であれば、世俗の暮らしの中で精神的に依存しないように努めます。

食べ物の適量とは、どのくらいでしょう? この場合は、瞑想修行に必要なだけの食事になります。出家修行者は正午以降は食べないので、朝と昼だけです。世俗の食事は楽しみのひとつでもありますが、出家者にとって、楽しみや満足感は不要です。生きるために最低限必要な分が適量です。

SN-2-11-341

‘‘Cīvare piṇḍapāte ca, 
衣 托鉢食 と
paccaye sayanāsane;
必需品 寝具
Etesu taṇhaṃ mākāsi, 
これらに 渇望 起こさないように
mā lokaṃ punarāgami.
なかれ 世界に 再び・戻る

衣服、托鉢食、寝床、必需品
これらに渇望を抱かないこと。
この世に再び戻らないように。

解説

渇望とは、「もっと欲しい」と現状で満足せず、それ以上を求める気持ちです。渇望がある限り、解脱できません。

出家者の衣服・食事・寝床・必需品とは?

衣服:糞掃衣(廃棄された材料で作られた衣)だけを着る。上衣、下衣、重衣の3枚のみ。

食事:托鉢で得た食事だけをする。食べ始めたら、それ以上は受け取らない。家を選んで托鉢しない。昼から翌日の夜明けまで食べ物を口にしない。

寝床:森林や墓地、木のほこらに住み、寝具は用いない。寝床として割り当てられたどんな住居でも満足する。一カ所に定住しない。

必需品:坐ったり寝る時に使う長方形の敷物。腰巻。手拭い。薬と交換するための布など。

世俗の暮らしは、まさにこの逆です。もっといい服が欲しい! もっと美味しいものが食べたい! もっと大きな家に住みたい! 便利なものは何でも欲しい! というエンドレスの願望を目標に、せっせと働いています。ミニマリストはこの中間でしょうか? 足るを知るという点では賢明ですが、選び取っているという点では傲慢なのかもしれません。

大切なことは、いかなるものに対しても「自分のもの」という概念を抱かないことだと思います。

SN-2-11-342

‘‘Saṃvuto pātimokkhasmiṃ, 
制御された者は 戒律条項において
indriyesu ca pañcasu; 
感覚器官 と 5つによる
Sati kāyagatātyatthu, 
気づき 身体に・関係する・君に・する
nibbidābahulo bhava.
嫌悪・多くの ある

規律によって
5つの感覚器官において
制御された者は、
自分の身体に注意を向ければ
多くの嫌悪感がある。

解説

pāṭimokkha(パーティモッカ):(vinaya・ヴィナヤ)の中核を成すもので、出家者の規則となる戒律条項を記したもの。規則というと、守らなくてはいけないもの、自由を奪うものだと捉えがちですが、実際には、自由ほど不自由なものはなのです。規律を守って生活すれば、私たちは間違いを犯すことなく、まず幸せに生きていけるのです。

indriya(インドリヤ):感覚器官。感覚知覚等の能力。5つの感覚器官(pañc’ indriyāni・パンチンドリヤーニ)=目・耳・鼻・舌・身体です。この5つを制御することとは、つまり反応をコントロールすることです。

5つの感覚器官が感受した感覚に対して人は、快・不快・どちらでもないの3種類の感情を抱きます。この感情をコントロールするのではなく、この感情に正しく気づき(ネガティブであればネガティブな感情があると気づく)、その後の反応(行動)をコントロールするのです。この反応が人の行為となり、となるからです。

ここで気をつけなければならないのは、実際に行動にうつさなくても、心の中での想像上の行為も業になる点です。何もしなくても、心の中で「バカヤロウ」と思っただけで「バカヤロウ」と相手に対して言葉を発したのと同じ行為をしたことになります。これが私たちが特に気づいていない重要な点です。

自分の身体を観察していれば、5つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・身体)に何らかの刺激が接触すると、快・不快・どちらでもないの感覚を抱き、それが好みで欲しいと思ったり、嫌だと嫌悪する感情がたくさん現れるということです。

SN-2-11-343

‘‘Nimittaṃ parivajjehi, 
のために 避ける
subhaṃ rāgūpasañhitaṃ; 
心地よい 情欲を・伴う
Asubhāya cittaṃ bhāvehi, 
不浄の 心を 状態・実に
ekaggaṃ susamāhitaṃ.
平静に よく・統一した

情欲を誘う
心地よい感覚を退けるため
汚れた心を一点に集中して
平静さを保ちなさい。

解説

Nimitta(ニミッター):印。前兆

SN-2-11-344

‘‘Animittañca bhāvehi, 
無・印の・そして 状態・実に
mānānusayamujjaha;
慢心・心の奥底の・捨て
Tato mānābhisamayā, 
そうすると 慢心の・止滅
upasanto carissatī’’ti.
静まる 行くだろう・と

心を無の集中状態に導き
心の奥底の汚れを取り除く。
慢心が払拭されると
心は鎮まり
涅槃に行くだろう。

とブッダは言いました。

解説

「心を無の集中状態に」とは、あらゆる事象は絶えず変化しているということ(無常)、私という自我は存在しないこと(無我)を理解し、心を一切動かさずに集中状態だけを保つということだと思います。

具体的には、6つの感覚器官(目・耳・鼻・口・身体・心)を通して身体の内外から得る刺激に対して、心が過去の記憶に基づいて再構成して認識する作用に常に気づき、外からの情報をありのままに受け止めるようにします。すると、全ての物事が絶え間なく変化する現象であること(無常)、自分という実体は本質的には存在しない(無我)という真実を発見できます。この状態のままあらゆる念が静止した状態だと思います。違うかもしれません。

自我の意識が完全になくなれば、心には一切の慢心がなくなります。自惚れる主体がないからです。誰にでも理解できる真実、これが真理ダンマです。

Itthaṃ sudaṃ bhagavā āyasmantaṃ rāhulaṃ imāhi gāthāhi abhiṇhaṃ ovadatīti.
このように まさに 世尊は 尊者 ラーフラに このような 偈 しばしば 忠告した

ブッダはこのような言葉で、ラーフラ尊者にしばしば助言されました。

解説

編者の言葉です。

Rāhulasuttaṃ ekādasamaṃ niṭṭhitaṃ.
ラーフラのスッタ集 11番目 終わり