第2章 小さな章:13. 正しい遍歴 ② 370〜377

13. Sammāparibbājanīyasuttaṃ 正しい遍歴 ②

SN-2-13-370

‘‘Sāruppaṃ attano viditvā, 
適切 自分は 知って
no ca bhikkhu hiṃseyya kañci loke;
ない また 比丘 傷つくならば 誰も 世に
Yathā tathiyaṃ viditvā dhammaṃ, 
ように 真実を 知って ダンマを
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

比丘はこの世で誰も傷つけず
自分が適切かを理解している
真実の通りにダンマを理解して
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

適切」の基準は何でしょう。「誰も傷つけない」とあるので、まずは五戒を守ることだと思います。「殺さない盗まない嘘をつかない不適切な性行為をしない酒や薬などで酩酊しない」の5つです。これらを守らないということは、誰かを傷つけることになり、不適切な行為です。「正しいか、間違っているか」よりも、わかりやすいですね。

SN-2-13-371

‘‘Yassānusayā na santi keci, 
人に・潜在的気質 ない 寂静 誰でも
mūlā ca akusalā samūhatāse;
根が と 不善の 除去した
So nirāso anāsisāno, 
彼は 欲なき ない・求める
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

悪意は根こそぎ絶たれ
心の奥底に穢れはなく
誰に対しても穏やかで
欲も願いもない人は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

Anusaya(アヌサヤ)は、心の深層の気質、先天的に備わった感情の反応傾向反応特性です。本人も気づいていない潜在的な性質のことです。この性質は普段は感じませんが、適当な縁に接触すればすぐに現れます。

例えば、リンゴの種には、リンゴの実はついていませんが、種を土に埋めて、水と空気が循環し、太陽が降り注げば、果実を実らせる反応特性があります。これが潜在的な性質です。そしてリンゴの種から、ブドウは実りません。リンゴには、リンゴの実をつける潜在的な性質があり、ブドウの房を実らせる性質は持っていないからです。

このように今は表面化していなくても、条件が揃えば表面化する可能性のある「潜在的な性質」は、人それぞれです。これは、それまでの長い輪廻の中で蓄積してきた反応特性なので、悪い気質が多い人もいれば、少ない人もいます。だからといって、ガッカリする必要はありません。それを理解して、自分にはそういう性質があることに気づいていれば、悪い反応が出てしまった時にも、すぐに抑えることができるようになります。

ブッダにはこの潜在的な性質を見抜く力がありました。だからその人が何に気づいて修行すればいいか、的確にアドバイスができたのです。ブッダ の時代には大勢の修行者がアラハンになったのも、そのためです。

SN-2-13-372

‘‘Āsavakhīṇo pahīnamāno, 
穢れ・尽きた 捨てた・慢心
sabbaṃ rāgapathaṃ upātivatto;
すべての 欲望の・道を 逃れた
Danto parinibbuto ṭhitatto, 
訓練された 完全・涅槃は 自制
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

穢れが尽きた人
慢心を捨てた人
あらゆる欲の道を逃れた人
訓練された自制心をもって
完全なる涅槃に到達した人は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

Māna(マーナ)慢心」おごる気持ちは実は、欲や怒りよりも根強く心に残る性質です。悟りの第3段階に到達して、欲や怒りを完全に滅尽したアナーガーミーでも、この慢心散漫(uddhacca)が最後まで残ります。

慢心は比較する心です。なにかを成し遂げた時に「やった!」という気持ちになりますが、その時、成し遂げた「私」がいると同時に、成し遂げていない他者が暗に存在し、そこには比べる自分があり、優越を感じているようです。

SN-2-13-373

‘‘Saddho sutavā niyāmadassī, 
確信した 見聞した 決定・見た
vaggagatesu na vaggasāri dhīro;
群れに・至って ない 群れに・本質 賢明な人は
Lobhaṃ dosaṃ vineyya paṭighaṃ, 
欲を 怒りを 制するなら 恨みを
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

学び、確信を得て
聖なる道に入った賢い人は
仲間がいても群れることなく
欲や怒り憎悪を制して
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

niyāma 決定(けつじょう)」は、悟りの第一段階(ソータパンナ)に入り、いずれは必ず悟ることが決定したという意味です。まだアラハンにはなっていませんが、下界に生まれ変わることはない聖者です。

paṭigha 恨み」は「dosa 怒り」の一種ですが、自分の意に背くことへの恨み・憎しみなど憎悪の感情です。

同じ怒りでも「kodha 憤怒」は、カッと怒ってすぐに収まる怒り、家族や友人などに向かう怒りですが、見くびる気持ちから発生する怒りです。一方、「paṭigha 恨み」は、自分の思い通りにならないことへの悔しさや憤り周囲への憎しみ、相手に対しての妬みの心など、複数の気持ちが積み重なった怒りです。

SN-2-13-374

‘‘Saṃsuddhajino vivaṭṭacchado, 
純粋な・勝者は 脱ぐ・覆いを
dhammesu vasī pāragū anejo;
ダンマにおいて 自在な 彼岸に渡った 不動の人は
Saṅkhāranirodhañāṇakusalo, 
反応の・滅尽・智慧・善の人は
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

ダンマにおいて意のままに
彼岸に渡った人、動じない人
逃げも隠れもせず堂々として
純粋なる勝者は
反応を止めて
智慧のある善なる人は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

vivaṭṭacchado:ベールを脱ぐ人。chadaは「蓋・覆い・屋根」という意味です。人には逃げたがる、隠れたがる習性がありますが、心の浄化を終えた人は、何があっても堂々として逃げも隠れもしません。

SN-2-13-375

‘‘Atītesu anāgatesu cāpi, 
過去において 未来において そして・また
kappātīto aticcasuddhipañño;
時間を・超え 極めて・清浄・智慧
Sabbāyatanehi vippamutto, 
全ての・入る処から 解放された人
sammā so loke paribbajeyya.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

過去も未来も
時間を超えて
純粋な智慧を極めて
すべての感覚器官から
解放された人は
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

私たちの心は、常に「今ここ」にはありません。心は常に、過去の思い出や、未来の期待や不安に忙しく飛び回っています。このことは瞑想をするとよくわかります。私たちの心は、主人の言うことを聞かず、かたときもジッとしていられないのです。

Sabbāyatanehisabba(すべての)āyatana(入る処)とは、人が外部からの刺激を感受する6つの感覚器官(目耳鼻口身心)です。

SN-2-13-376

‘‘Aññāya padaṃ samecca dhammaṃ, 
了知して 歩みを 身に付けた ダンマを
vivaṭaṃ disvāna pahānamāsavānaṃ;
明らかに 見て 捨離を・煩悩の
Sabbupadhīnaṃ parikkhayāno, 
すべての・所依を 消滅する人は
sammā so loke paribbajeyya’’.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう

煩悩の放棄を明らかに見て
ダンマを身につけて
歩む道を悟り
一切の拠り所を滅するならば
正しく世間を渡り歩くだろう。

解説

pada(パダ):足・ 足跡・歩・ 句・語法」をどう訳すかが難しいところですが、13章「正しい遍歴」の最後の言葉なので、「遍歴」と「歩み」をかけた掛詞(かけことば)なのでは、と解釈して「padaṃ(歩む道を)」としました。

この歩む道は、現実的に歩く道程であり、その道中に起こる様々な事象であり、真理を学ぶステップでもあり、悟りの段階でもあり、読み手の心の状態に応じて、解釈が変化するのではないかと考えました。ブッダの語る言葉は、一語対一語の訳語があるわけではなく、どのパーリ語も一語対十訳語くらいの幅があります。読み手が、これは自分のことだと思い当たる訳語が、まさに適切な言葉なのだと思います。

一切の拠り所を滅する」は、最終的には、一切の心の拠り所を消し去り、涅槃に至るということだと思いますが、ここでは正しい遍歴のあり方として、「誰かに頼ったり、何かを当てにしたり甘えたりすることは一切なく」ということではないでしょうか。

SN-2-13-377

‘‘Addhā hi bhagavā tatheva etaṃ, 
真に 実に 世尊よ その通り これは
yo so evaṃvihārī danto bhikkhu;
人は 彼は このように・生活 ならされた 比丘
Sabbasaṃyojanayogavītivatto, 
全ての・束縛・ない軛・超えた人は
sammā so loke paribbajeyyā’’ti.
正しく 彼らは この世を 遍歴するだろう 

世尊よ、
まことに実にその通りです。
訓練された比丘として
このように生活し
すべての束縛を克服したならば
正しく世間を渡り歩くでしょう。

とブッダに言いました。

解説

ブッダに対しての発言ですが、発言者はブッダの化身です。

Sammāparibbājanīyasuttaṃ terasamaṃ niṭṭhitaṃ.
正しい・遍歴・スッタ集 13番目の 終わり

13. 正しい遍歴のスッタ集 終わり

まとめ

これが古代インドにおける、75歳を過ぎてからの理想的な生き方です。いかがでしたか? 老後資金をファイナンシャルプランナーに相談して、老後のライフプランを設計するよりも、この生き方の方が素晴らしい、と思える日本人がどれだけいるでしょうか。

決して多くはないかもしれませんが、私は「やってみようかな、インドで」と思っています。大してないお金を心配して、しみったれて生きるよりも、もうドーンと捨てて、笑顔で晴々と乞食行脚する。今はまだそこまで思い切れませんが、75歳過ぎてなら、もう何でもできそうな気がします。