第3章 大きな章:2. 苦行 427〜451

2. Padhānasuttaṃ 苦行

このスッタ集は、前のスッタ集の続きです。アーナンダが語った「ブッダの出家物語」を、比丘たちと一緒に聞き終わったブッダ は、自室に戻って出家直後のことを思い起こしました。「私は出家して、実に厳しい苦行をやり遂げた。今日は苦行時代のことを比丘たちに語ろう」と思い起こし、再び部屋から出て弟子たちに語ったのが、この回想録です。
 
Padhāna とは、激しく奮闘すること「苦行」です。ブッダ は出家後、当時のインドで解脱するための道として実践されていた苦行を行いました。苦行とは、息を止めたり断食したりして、肉体の欲求を抑えて、身体を痛めつけることで、精神力を高めて解脱できるとする修行法です。ブッダ は最終的に「苦行では解脱できない」と気づき、苦行を一切やめて、瞑想によって解脱に至りました。

SN-3-2-427

"Taṃ maṃ padhānapahitattaṃ, 
それは 私に 苦行に・専念する
nadiṃ nerañjaraṃ pati;
? ネーランジャラーに 向かい
Viparakkamma jhāyantaṃ, 
激しく努力して 瞑想している
yogakkhemassa pattiyā.
束縛から安穏を 得るため

ブッダ:
それが私に、
ネーランジャラー川の畔で
苦行に専念する私に、
束縛から安穏を得ようと
懸命に努力して
瞑想している私に……。

解説

「それが私に…」と比丘たちの興味を惹きつける語り方が、これまでの教えのスッタ集とは違った印象を受けました。「それって何?」と惹きつけられます。

SN-3-2-428

"Namucī karuṇaṃ vācaṃ, 
悪魔が 憐みの 言葉を
bhāsamāno upāgami;
語りながら 近づいて・来た
'Kiso tvamasi dubbaṇṇo, 
痩せて お前はある 悪い色
santike maraṇaṃ tava.
面前に 死は お前の

悪魔のナムチが憐みの言葉を
語りながら私に近づいてきた。

悪魔のナムチ:
おいおい、お前さん
痩せこけて顔色も悪いし
いまにも死にそうじゃないか。

解説

Namuci(悪魔)は、マーラの一種で、自分自身の心の中にある解脱を妨害する化身です。心の中で葛藤する悪魔 vs 天使の、悪魔だとお考えください。ちょっとワルなイメージで翻訳してみました。

SN-3-2-429

"Sahassabhāgo maraṇassa, 
千の・等分に 死に
ekaṃso tava jīvitaṃ;
一部 お前の 命は
Jīva bho jīvitaṃ seyyo, 
生きよ お前よ 命は より良い
jīvaṃ puññāni kāhasi.
生命は 徳を 作るだろう

悪魔のナムチ:
お前さんが死なずに
生きる確率は千分の一だな。
おい、生きろよ
生きてる方がいいって。
生きてりゃ功徳を為せるだろ?

SN-3-2-430

"Carato ca te brahmacariyaṃ, 
行ない そして お前が 梵行を
aggihuttañca jūhato;
火への供犠を・そして 捧げれば
Pahūtaṃ cīyate puññaṃ, 
多くの 積まれる 功徳が
kiṃ padhānena kāhasi.
何を 苦行によって 作るだろう

悪魔のナムチ:
お前さんが梵行を続けて
で、火に供犠を捧げれば
功徳がたんまり積める。
苦行なんかして何になる?

解説

Brahmacariya(梵行=ぼんぎょう)とは、戒律を守って禁欲生活を送ることです。当時のインドで主流だった宗教(バラモン教やジャイナ教)では、毎日の儀礼で食事などの供物を火に供え、神の力を授かって幸せを願いました。

SN-3-2-431

"Duggo maggo padhānāya, 
行き難い 道は 苦行のため
dukkaro durabhisambhavo";
困難 難い・到達は
Imā gāthā bhaṇaṃ māro, 
これらの 偈を 唱えつつ マーラは
aṭṭhā buddhassa santike.
住立していた ブッダの 面前に

悪魔のナムチ:
苦行の道はキツイって
解脱は無理、無理。

こうした言葉を語りつつ
マーラはブッダの前に居座った。

解説

悪魔のナムチ=マーラです。私たちの前にもずっと居座っています。このスッタの2行目の終わりには「”」があり、会話の終了を示していますので、3〜4行目は編者の言葉です。

SN-3-2-432

Taṃ tathāvādinaṃ māraṃ, 
それは その如く語る人に マーラに
bhagavā etadabravi;
世尊は これ・語った
"Pamattabandhu pāpima, 
怠惰の親族 罪深い
yenatthena idhāgato.
その・利益のため ここに・来た

このように語るマーラに
世尊はこう語った。

シッダッタ:
罪深い怠け者の一味よ
ここに来たのは
自分の利益のためだ。

解説

このスッタには「bhagavā世尊に」という第三者的な言葉が出てきますが、このスッタの始まりには「”」も付いていないので、編者のスッタになります。

「ここに来たのは自分の利益のためだ」の主語が誰なのか悩みましたが、マーラであり、シッダッタ自身だと思い至りました。マーラがここに来たのは「シッダッタを輪廻させて生命を回転させるため」であり、シッダッタがここに来たのは「シッダッタを輪廻から解放して生命を回転させないため」です。マーラ=シッダッタの心の中の悪魔なので、お互いの利益は相反していますが、自分の利益のためという点では一致しています。

SN-3-2-433

"Aṇumattopi puññena, 
少し・もし 功徳によって
attho mayhaṃ na vijjati;
利益は 私には ない 見出される
Yesañca attho puññena, 
その者に・こそ 利益は 功徳によって
te māro vattumarahati.
それら マーラは 話者・値する

シッダッタ:
功徳によって得る利益は
私には少しも必要ない。
功徳によって
利益を望む者にこそ
マーラが語る価値がある。

解説

マーラが考える利益は、世俗の価値観です。功徳を積んで来世でよい生まれになることです。しかしブッダの考える利益は、生きることは苦しみなので、輪廻してもう生まれない解脱するということです。

SN-3-2-434

"Atthi saddhā tathā vīriyaṃ, 
ある 確信 それから 努力
paññā ca mama vijjati;
智慧 と 私には 見出される
Evaṃ maṃ pahitattampi, 
このように 私を 専念する・でも 
kiṃ jīvamanupucchasi.
なぜ 生存する・問うのか

シッダッタ:
私には確信と努力があり
智慧もある。
こんなに苦行に励んでいるのに
なぜ、生きることを問うのか。

解説

心の中の悪魔に投げかけたブッダの言葉ですが、激しい苦行を実践していたブッダ は、生命の危機に瀕する極限まで励んでも、やっぱりどんなに頑張っても、なぜ自分は生きようとしてしまうのかと、自分に問うたのかもしれません。

SN-3-2-435

"Nadīnamapi sotāni, 
川の・さえも 流れ
ayaṃ vāto visosaye;
この 風は 乾かすだろう
Kiñca me pahitattassa, 
なぜ・また 私の 苦行のために
lohitaṃ nupasussaye.
血を ない・干上がるだろう

シッダッタ:
この風は川の流れさえも
干上がらせることができる。
苦行に励む私の血が
どうして干上がらないことか。

解説

Vāta(ヴァータ)」とは何でしょう?
インドの伝統的医学アーユルヴェーダでは、宇宙は5つの元素(土・風・火・水・空)から成り、人体を含めた万物はそのバランスで構成される、と考えます。その組み合わせを、Vāta(ヴァータ・風+空)・Pitta(ピッタ・火+水=胆汁・熱)・kapha(カパ・水+土=粘液・痰)という3種類のドーシャ(生命エネルギー)に分類して、体質を診断します。

この時、シッダッタは呼吸を止める苦行をしていました。ここでの風は、呼吸を止めることで体内に留まる風や気のエネルギーかもしれません。

SN-3-2-436

"Lohite sussamānamhi, 
血が 枯渇すると
pittaṃ semhañca sussati;
胆汁を 唾液・と 乾く
Maṃsesu khīyamānesu, 
筋肉が 衰えることで
bhiyyo cittaṃ pasīdati;
より多く 心は 浄まる
Bhiyyo sati ca paññā ca, 
より多く 念 と 智慧 と
samādhi mama tiṭṭhati.
精神統一 私の 立つ

シッダッタ:
血が乾けば胆汁と唾液も乾き
筋肉が衰えることで
心はさらに浄化される。
注意力と智慧と精神統一が
どんどん確立する。

解説

ここでは Pitta(ピッタ・胆汁)も登場します。

SN-3-2-437

"Tassa mevaṃ viharato, 
その 私の・このように 生きる
pattassuttamavedanaṃ;
得た・有情の・最上の・感覚を
Kāmesu nāpekkhate cittaṃ, 
快を ない・望み 心は
passa sattassa suddhataṃ.
見よ 有情の 清浄さを

シッダッタ:
このようにして私は
極限の感覚を経験した。
心が心地よさを望むことはない。
見よ、
人間の心の高潔さを。

解説

Satta(サッタ・有情)とは、心のあること。人間としての感情があること。苦行の限りを尽くして、死にそうになるほどの限界まで行っても、「食べたいとか、水が飲みたいとか、横になりたい、という気持ちにはならない」ということです。

SN-3-2-438

"Kāmā te paṭhamā senā, 
快楽 お前の 第1に 軍勢は
dutiyā arati vuccati;
第2に 不快 言われる
Tatiyā khuppipāsā te, 
第3に 飢えと渇き お前の
catutthī taṇhā pavuccati.
第4に 渇望 言われる

シッダッタ:
お前の妨害方法は
1. 感覚的な欲求
2. 不快感
3. 飢えと渇き
4. 渇望

解説

シッダッタは自分の解脱を妨害しようとする、心の中の悪魔の妨害方法を列挙します。
 
①五感から快感(快いと感じる刺激)を得たいという身体欲求です。心地快いと感じるものを見たい、聞きたい、嗅ぎたい、味わいたい、触れたいという欲求です。
②不快感は、逆に嫌だと感じて拒絶することです。
③飢えと乾きの苦しみは、生存本能に基づく苦しみです。
それによって人は生きようと④渇望します。

SN-3-2-439

"Pañcamaṃ thinamiddhaṃ te, 
第5に 怠けと眠け お前の
chaṭṭhā bhīrū pavuccati;
第6に 恐怖 言われる
Sattamī vicikicchā te, 
第7に 疑い お前の
makkho thambho te aṭṭhamo.
偽善 頑固 お前の 第8は

5. 怠惰と眠気
6. 怖れ
7. 疑い
8. 偽善と頑固さ。

解説

⑤怠けと眠気は、やる気がなくなり、心が認識したくない状態です。これは物事がうまくいかずに、心が揺らいで自信がなくなり、⑥怖れている状態です。また、自信がないということは、心が自分を⑦疑っている状態です。⑧偽善と頑固さは、不安と慢心の現れです。

SN-3-2-440

"Lābho siloko sakkāro, 
利得 名声 尊敬
micchāladdho ca yo yaso;
邪悪に・得た そして それは 名誉
Yo cattānaṃ samukkaṃse, 
それは また・自分を 賞賛し
pare ca avajānati.
他を そして 軽視する

シッダッタ:
そして不正に得た名誉
利得、名声、尊敬。
また、自分を褒め称えて
他者は見下すことだ。

解説

悪魔の妨害方法の続きです。出家して修行中であっても人は、托鉢で得したいと利己的だったり、修行仲間から尊敬されたい、解脱して名声を得たいと思ったり、修行がうまくいけば自分が偉くなったと勘違いして、他者を見下したりするようになるものです。

SN-3-2-441

"Esā namuci te senā, 
これが ナムチ お前の 軍勢
kaṇhassābhippahārinī;
邪悪な・攻撃
Na naṃ asūro jināti, 
ない それを 非・勇者は 勝つ
jetvā ca labhate sukhaṃ.
勝てば しかし  得る 安楽を

シッダッタ:
悪魔のナムチよ、
これがお前の妨害方法
邪悪な攻撃だ。
勇者でなければこれに勝てない
しかし勝てば安楽を得る。

解説

この悪魔の妨害方法が、解脱するための修行を妨げる nīvaraṇa(ニーヴァラナ・障害)であり、のちに五蓋pañca nīvaraṇa)となる要素です。

SN-3-2-442

"Esa muñjaṃ parihare, 
これ ムンジャ草を 守る
dhiratthu mama jīvitaṃ;
厭わしい・存在 私の 生命を
Saṅgāme me mataṃ seyyo, 
戦いで 私は 死ぬ よりよい
yaṃ ce jīve parājito.
それは もし 生きる 負けて

シッダッタ:
絶対、降伏しない。
私の生命など厭わしい存在だ。
負けて生きるくらいなら
私は戦いで死ぬ方がよい。

解説

Muñja(ムンジャ)は、イグサに似た草の一種で、浄化作用があるとされ、バラモン教徒の儀式にも用いられます。当時、戦いでは、頭や武器などにムンジャ草を結んで、降伏しない宣言をしたそうです。

SN-3-2-443

"Pagāḷhettha na dissanti, 
沈む・ここに ない 見る
eke samaṇabrāhmaṇā;
ある サマナ・バラモンは
Tañca maggaṃ na jānanti, 
その・そして 道を ない 知る
yena gacchanti subbatā.
そこから 行く 善行者が

シッダッタ:
一部の行者やバラモンは
堕落してしまった。
そこから善行者が
歩む道を知ることもなく。

解説

涅槃への道に進むことなく、自分の心に負けてしまったということです。

SN-3-2-444

"Samantā dhajiniṃ disvā, 
全方向 軍旗を 見て
yuttaṃ māraṃ savāhanaṃ;
整えた マーラに 共に・軍勢と
Yuddhāya paccuggacchāmi, 
戦いへと 向かって・行く・私は
mā maṃ ṭhānā acāvayi.
なかれ 私を 場から 退かせる

シッダッタ:
四方八方に軍旗がひるがえり
マーラが軍勢を整えたとしても
私は戦いへと向かって行く。
私をこの場から
退かせることはできない。

SN-3-2-445

"Yaṃ te taṃ nappasahati, 
何であれ お前の それは ない・征服し
senaṃ loko sadevako;
軍勢に 世界は 共に・神々は
Taṃ te paññāya bhecchāmi, 
それは お前 智慧で 破るだろう・私は
āmaṃ pattaṃva asmanā.
加工しない 鉢の・ように 石で

シッダッタ:
お前の攻撃には
神々の世界でも克服できないが
私はお前を智慧で打ち砕くだろう
素焼きの鉢を石で砕くように。

解説

私たちの領域である人間界も、デーヴァの神々の領域である天界も、共に欲界です。五感による感覚がある世界です。

SN-3-2-446

"Vasīkaritvā saṅkappaṃ, 
制御して 思惟を
satiñca sūpatiṭṭhitaṃ;
気づきを・そして よく・定立する
Raṭṭhā raṭṭhaṃ vicarissaṃ, 
国から 国へ 放浪しよう
sāvake vinayaṃ puthū.
弟子たちを 律する 多数の

シッダッタ:
思考をコントロールし
気づきを確立して
多くの弟子たちを導くために
国から国へと渡り歩くんだ。

解説

シッダッタは、自分が解脱して輪廻から解放されて終了ではなく、同じように修行する者たちを助けて歩こうと決意しました。

SN-3-2-447

"Te appamattā pahitattā, 
彼らは ない・怠惰に 励む・自ら
mama sāsanakārakā;
私の 教えに・従う者に
Akāmassa te gamissanti, 
ない・欲 彼らは 行くだろう
yattha gantvā na socare’’.
そこへ 行けば ない 憂い

シッダッタ:
熱心に自ら励んで
私の教えを実践する者は
欲がなくなり至るだろう。
そこに至れば憂いはない。

解説

欲がなくなり至る「そこ」は、涅槃です。このスッタ集でのシッダッタの発言はこれで終了です。

SN-3-2-448

"Satta vassāni bhagavantaṃ, 
7 年間 世尊に
anubandhiṃ padāpadaṃ;
ついて・縛る 一歩一歩
Otāraṃ nādhigacchissaṃ, 
過失を ない・見つけた
sambuddhassa satīmato.
正覚者に 気づきのある人

悪魔のナムチ:
7年間、俺様は
世尊につきまとったけど
常に気づいている
サンブッダ(正覚者)には
まったく隙がなかった。

解説

このスッタは重要です。悪魔は7年間ブッダにつきまとったと自分で言っています。ということは、出家してから解脱するまで7年間なのでしょうか? 諸説によると、悪魔はシッダッタが解脱するまでの6年間に加えて、解脱した後も、悟りを後退させようと1年間つきまとったそうです。

SN-3-2-449

"Medavaṇṇaṃva pāsāṇaṃ, 
脂肪・色の・ような 岩に
vāyaso anupariyagā;
カラスが ついて・歩く
Apettha muduṃ vindema, 
かも・ここで  柔らかいを 見つける
api assādanā siyā.
かも 美味が ある

悪魔のナムチ:
カラスが脂身だと思って
岩の周りをつついて
歩くようなもんだな。
柔らかい食べ物が
美味いもんがここに
あるかもしれないって。

解説

悪魔のナムチは自分をカラスに例えています。私たちには身近ではない例えですが、古代インドではイメージしやすいのでしょうか。

SN-3-2-450

"Aladdhā tattha assādaṃ, 
ない・得て そこで 美味を
vāyasetto apakkami;
カラスは・そこから 去っていった
Kākova selamāsajja, 
カラスの・ように 岩に・接近して
nibbijjāpema gotamaṃ’’.
嫌になり・離れる ゴータマを

悪魔のナムチ:
美味いもんがなければ
カラスはどっか行っちまう。
俺様はまるで
岩に近づいたカラスだ
あーあ、ガッカリ
ゴータマから離れるわ。

解説

悪魔のナムチは、こうしてゴータマ・ブッダから離れました。

SN-3-2-451

Tassa sokaparetassa, 
彼は 悲しみに・打ちひしがれた
vīṇā kacchā abhassatha;
竪琴が 脇の下から 落ちた
Tato so dummano yakkho, 
その後 彼は 不快 ヤッカは
tatthevantaradhāyathāti.
その場で・姿を・消し去った・と

落胆した悪魔の脇から
竪琴がすべり落ちました。
不機嫌になった悪魔は
その場から姿を消し去った
ということです。

解説

Vīṇā(ヴィーニャー・ヴィーナ)は、古代インドの弦楽器の総称です。ヤッカ(夜叉)=悪魔は、ヴィーナを脇に抱えていたようですが、これにどのような意味があるのかは、現時点ではわかりません。映画「ビルマの竪琴」で、出家僧役の中井貴一が持っていた楽器のようなイメージでいいと思います。ちなみに出家僧は戒律により、音楽を奏でることも歌うことも禁止です。所有物は三衣一鉢(3種類の僧衣と鉢)+寝る時の敷物と手拭いのみで、竪琴の所有はもちろん不可です。このスッタには、432のスッタと同様に「”」での区切りがないので、編者のスッタになります。

Padhānasuttaṃ dutiyaṃ niṭṭhitaṃ.
苦行のスッタ集 2番目 終わり

2. 苦行のスッタ集 終わり