第3章 大きな章:4. スンダリカのバラモン① 457〜470

4. Sundarikabhāradvājasuttaṃ スンダリカのバラモン ①

Sundarikā(スンダリカ川)bhāradvāja(献上物を施す)。スンダリカ川は、罪を洗い流す効果があると評判の川です。その河岸でいつも祭祀を執り行っていたバラモン司祭は、スンダリカ・バーラドヴァージャと呼ばれていました。

前文

Evaṃ me sutaṃ – 
このように 私は 聞いた
ekaṃ samayaṃ bhagavā kosalesu viharati sundarikāya nadiyā tīre. 
ある 時 ブッダは コーサラ国に 滞在 スンダリカ 川の 岸で
Tena kho pana samayena sundarikabhāradvājo brāhmaṇo 
それにより 実に そこで 時に スンダリカ・バーラドヴァージャ は バラモンの
sundarikāya nadiyā tīre aggiṃ juhati, 
川の 岸で 火を 供養し
aggihuttaṃ paricarati. 
火・供物を 奉仕した
Atha kho sundarikabhāradvājo brāhmaṇo 
さて そこで スンダリカ・バーラドヴァージャ は バラモンの
aggiṃ juhitvā aggihuttaṃ paricaritvā
火を 供養した後で 火・供物を 奉仕した後で
 uṭṭhāyāsanā samantā catuddisā anuvilokesi – 
立ち上がり 周囲を 四方を 見回した

"ko nu kho imaṃ habyasesaṃ bhuñjeyyā"ti? 
誰か だろうか 実に この 残り物 手渡すべき と

Addasā kho sundarikabhāradvājo brāhmaṇo 
彼は見た 実に スンダリカ・バーラドヴァージャ は バラモンの
bhagavantaṃ avidūre aññatarasmiṃ
ブッダに 近くに あるのが
rukkhamūle sasīsaṃ pārutaṃ nisinnaṃ; 
木の・根本 頭に 被った 着座の
disvāna vāmena hatthena habyasesaṃ gahetvā 
見て 左の 手に 残り物を 持って
dakkhiṇena hatthena kamaṇḍaluṃ gahetvā
右の 手に 水瓶を 持って
yena bhagavā tenupasaṅkami.
そこから ブッダへ それ故・近づいた

Atha kho bhagavā sundarikabhāradvājassa brāhmaṇassa 
そこで 実に スンダリカ・バーラドヴァージャのため バラモンの
padasaddena sīsaṃ vivari. 
足音により 頭を 明らかにした

Atha kho sundarikabhāradvājo brāhmaṇo – 
そこで 実に スンダリカ・バーラドヴァージャは バラモンは

"muṇḍo ayaṃ bhavaṃ, 
剃頭 この 尊師は
muṇḍako ayaṃ bhava"nti 
ハゲ坊主は この 存在 と
tatova puna nivattitukāmo ahosi. 
そこから 再び 引き返そうと した

Atha kho sundarikabhāradvājassa brāhmaṇassa etadahosi – 
そこで 実に スンダリカ・バーラドヴァージャによって バラモンの こう考えた

"muṇḍāpi hi idhekacce brāhmaṇā bhavanti, 
剃頭・も 実に この世には・かもしれない バラモン 存在する
yaṃnūnāhaṃ upasaṅkamitvā jātiṃ puccheyya"nti. 
してみよう 近づいて 生まれを 問う と

Atha kho sundarikabhāradvājo brāhmaṇo
そこで 実に スンダリカ・バーラドヴァージャは バラモンは
yena bhagavā tenupasaṅkami; 
そこから ブッダへ それ故・近づいた
upasaṅkamitvā bhagavantaṃ etadavoca – 
近づいて ブッダに こう言った
"kiṃjacco bhava"nti?
何・家系は あなた と

Atha kho bhagavā sundarikabhāradvājaṃ brāhmaṇaṃ 
そこで 実に ブッダは スンダリカ・バーラドヴァージャに バラモンの
gāthāhi ajjhabhāsi –
偈で・実に 話しかけた

このように私は聞きました。
 
ブッダがコーサラ国のスンダリカ川の岸辺に滞在していた時のことです。ちょうどその時、バラモンのスンダリカ・バーラドヴァージャ(以下、スンダリカ)が、河岸で火の祭祀を行い、火に供物を捧げていました。スンダリカは、火に供物を捧げた後、火の祭祀を終え、立ち上がって周囲をぐるりと見回しました。
 
「この供物のお下がりを、誰に施すのがいいだろうか?」
 
ちょうど近くの木の下に、頭に布を被ったブッダが座る姿が、スンダリカの目に止まりました。それを見て、左手に供物を持ち、右手には水瓶を持って、ブッダへと近づいていきました。
 
足音に気づいたブッダは、スンダリカのために、頭の布を外しました。
 
それを見たスンダリカは、
「バラモンじゃない、剃髪した坊主じゃないか!」と、そこから引き返そうとしました。
 
しかしスンダリカは、こう考えました。
「いや、剃髪したバラモンだって、この世にはいるかもしれない。近くに行って生まれを訊いてみよう」
 
そこでスンダリカは、ブッダに近づいていき、ブッダに向かってこう言いました。
「あなたのお生まれは?」
 
するとブッダはスンダリカに、次のような詩句で話しかけました。

解説

この時ブッダは、たまたまここに居合わせたわけではなく、スンダリカが解脱の準備ができていることを知って、彼を導くためにここで座っていたそうです。ブッダが剃髪を布を被って隠していたのも、剃髪した行者には最初から近づかないと思ってのことでしょう。バラモンの修行者は髪を切らないからです。

スンダリカはバラモン司祭なので、インドの身分制度「カースト」の最上位であるバラモン階級です。ブッダのことを、同じ階級の修行者だと思い、供物の残り物をあげるのにふさわしい相手だと思って近づいています。しかし、その剃髪を見て、バラモン階級じゃないから止めようとします。それでも神々しいブッダ に魅かれて近づいたようです。

SN-3-4-457

"Na brāhmaṇo nomhi na rājaputto, 
ない バラモン ない・確かに ない 王子
na vessāyano uda koci nomhi;
ない 庶民 或は 誰か ない・確かに
Gottaṃ pariññāya puthujjanānaṃ, 
家柄を 遍知して 凡夫に
akiñcano manta carāmi loke.
ない・何もの 智慧で 歩く・私は 世界を

ブッダ:
バラモンではない
もはや王子でもない
庶民でもないし
誰かでもない。
俗人の階級を知り尽くした
私は何者でもなく
智慧でこの世を歩いている。

解説

ブッダは rāja(王)の putta(子供)でしたが、王家も家庭もすべてを捨てて出家したので、もはや何者でもありません。バラモン(司祭階級)、クシャトリヤ(王侯貴族)、ヴァイシャ(庶民。商人や農業、牧畜に従事)の次に続く「誰か」とは、スードラ(労働者や奴隷)とカースト外とされた先住民ヴァサラです。

ブッダは、人を出生で区別するカースト制に反対でした。まして人間扱いしようとしないスードラとヴァサラについては、その名称さえ認めたくなかったのでしょう。私たちは、自分が何者であるかにこだわり、結局、それに縛られて、自分で自分を苦しめているのです。

SN-3-4-458

"Saṅghāṭivāsī agaho carāmi, 
重衣を・着て ない・家は 歩く・私は
nivuttakeso abhinibbutatto;
剃られた・髪の 完全・寂静・得た
Alippamāno idha māṇavehi, 
ない・けがされる・心 ここで 人々に
akallaṃ maṃ brāhmaṇa pucchasi gottapañhaṃ".
不・適当 私に バラモンよ 問うた 家柄・問いを

ブッダ:
家はなく僧衣をまとい
髪を剃って完璧に穏やかな心で
私は生きている。
世俗の人々に
心を乱されることもない。
バラモンよ
私にカーストを問うのは
見当違いだ。

SN-3-4-459

"Pucchanti ve bho brāhmaṇā, 
問う 実に 友よ バラモンたちは
brāhmaṇebhi saha brāhmaṇo no bhava"nti.
バラモンたちに 共に バラモンは ない 存在 と

スンダリカ:
友よ、バラモンたちは
バラモンに会った時にはお互いに
「バラモンですか?」と
必ず尋ねるものです。

解説

スンダリカは、ブッダをバラモンの修行者だと思ったから、いつも通り尋ねたのだと説明しています。

SN-3-4-460

"Brāhmaṇo hi ce tvaṃ brūsi, 
バラモンは 実に もし あなたが 言う
mañca brūsi abrāhmaṇaṃ;
私は・と 言う ない・バラモンでは
Taṃ taṃ sāvittiṃ pucchāmi, 
あなたに 即ち サーヴィッティを 私は問う
tipadaṃ catuvīsatakkharaṃ.
3つの・詩句 24・文字を

ブッダ:
あなたが言うバラモンは
私が言うバラモンではない。
では、あなたに質問します
24文字3行の詩が
=サーヴィトリーのマントラですか?

解説

Sāvitti は、古代インドのバラモン教のヴェーダの聖典の『リグ・ヴェーダ』にある24文字(8音節)の3行句で、太陽神サーヴィトリーを称える有名なマントラです。バラモン司祭にとっては、毎朝唱える超お馴染みのマントラです。

ブッダがバラモンだと認める人は、カースト制のバラモン階級ではなく、価値のある人アラハンです。「あなたがバラモンだと言うバラモンは、私にとってはバラモンではない。あなたたちにとって24文字の3行句といえば、サーヴィトリーのマントラが一番に思い浮かぶかもしれないが、かと言って、24文字でできた3行句がすべて、サーヴィトリーのマントラではないよね? それはあなたたちの価値観でしか通用しないよね? バラモンも同じことです」という解釈をしました。 

SN-3-4-461

"Kiṃ nissitā isayo manujā, 
何 依って 仙人の 人々は
khattiyā brāhmaṇā devatānaṃ;
王族は バラモンは 神々への
Yaññamakappayiṃsu puthū idha loke.
祭祀を・行う 多くの この 世で

スンダリカ:
この世で仙人の人々や
王族やバラモンが
神々への祭祀を
数多く行うのは
何のためですか?

解説

ブッダ の質問に対してスンダリカは、おっしゃる通りだ、と思ったようです。逆にブッダに質問しています。

Isi(イシ・仙人)は、修行を積んで超常能力(神通力)を体得し、世俗を離れて山上に住む人です。ブッダは神通力を使うことを禁じていましたが、神通力そのものについては否定はしていません。

SN-3-4-462

"Yadantagū vedagū yaññakāle, 
それは・訓練された人 ヴェーダに通じた人 祭祀・時に
yassāhutiṃ labhe tassijjheti brūmi".
その・供物を 得るなら それ・成功した・と 言う・私は

ブッダ:
それは祭祀の時に、
完成された人や
ヴェーダに通じた人が
供物を受け取るのであれば
その供物が功徳となるからです。

解説

お布施をする場合には、悪人にするよりも凡人凡人にするよりも善人にした方が、人の役に立ちます。悪人に多額の寄付をすれば、それを元手に悪い商法をはじめて、世の中を混乱させるかもしれませんが、善人であれば、人助けになるようなことに使われる可能性が高くなります。確実に善いことに使ってもらうためには、悪い行為ができなくなっているアラハンにお布施するのが確実です。人の役に立てばたつほど、そのお布施はより大きな功徳となって、後世の自分に利益となって返るという考えです。

Vedagū(ヴェーダグー・ヴェーダに通じた人)とは、バラモン教の聖典「ヴェーダ」の聖なる知識をよく理解した人=という意味です。ブッダとしては、聖なる智慧をよく理解した人=アラハンですが、スンダリカでも理解できるように

SN-3-4-463

"Addhā hi tassa hutamijjhe, 
確かに 実に その 供物・成功した
(iti brāhmaṇo)
と バラモンは
Yaṃ tādisaṃ vedagumaddasāma;
人に そのような ヴェーダに通じた人・見たので
Tumhādisānañhi adassanena, 
あなたのような 無見の
añño jano bhuñjati pūraḷāsaṃ".
他の 人は 享受する 献菓を

バラモン:
確かにおっしゃる通りです。
まさにそのような
ヴェーダに通じた人を
見つけたのだから、
この供物は功徳となります。
あなたのような人を
見かけなければ、
他の人が献菓を
受け取るところでした。

解説

そのようなヴェーダに通じた人=ブッダ のことです。

SN-3-4-464

"Tasmātiha tvaṃ brāhmaṇa atthena, 
それ故・実に あなたは バラモンよ 求めるによって
atthiko upasaṅkamma puccha;
求めて 近づいた 問いなさい
Santaṃ vidhūmaṃ anīghaṃ nirāsaṃ, 
寂静の 離・怒り 無・苦悩 無欲の
appevidha abhivinde sumedhaṃ".
おそらく・ここで 見出すだろう 善慧を

ブッダ:
であれば、バラモンよ、
まさにあなたは何かを求めて
ここに来たのだから
求めるものを質問しなさい。
穏やかで怒りのない
苦悩のない無欲の智慧を
おそらくここで見つかるでしょう。

解説

「求めよ、さらば与えられん」というキリストの言葉がありますが、それと同じような意味だと思います。先生に「教えてください」と尋ねれば、先生だと信頼されたのだから、教えてくれます。さらに真摯に聞こうとする態度があれば、先生は気を良くして、求められた以上のことを教えてくれます。

SN-3-4-465

"Yaññe ratohaṃ bho gotama, 
祭祀に 喜び・私は 友よ ゴータマ
yaññaṃ yiṭṭhukāmo nāhaṃ pajānāmi;
祭祀を 祀る・望む ない・私は 知識が
Anusāsatu maṃ bhavaṃ, 
教えて下さい 私に 尊師
yattha hutaṃ ijjhate brūhi me taṃ".
どこに 供物を 成功する 説いて 私に それを
"Tena hi tvaṃ, brāhmaṇa, 
それでは 実に あなたに バラモンよ
odahassu sotaṃ; 
注意して 耳を
dhammaṃ te desessāmi –
ダンマを あなたに 説明しよう

スンダリカ:
友よ、ゴータマ、
私は祭祀に喜びを覚え
祭祀を祀りたいのですが
私は知らないのです。
尊師、私に教えてください。
どのような場合に供物が
功徳になるですか?
どうか私に説明してください。

ブッダ:
それでは、バラモンよ
注意して聞きなさい
あなたに真理を説明しよう。

解説

バラモン階級は、祭祀を執り行う司祭です。伝統に従って儀式を進行しますが、本当の意味での「祀り」を知っている訳ではないようです。正直なバラモンですね。功徳を得るためには、どこに供物を捧げればいいのかという質問です。

SN-3-4-466

"Mā jātiṃ pucchī caraṇañca puccha, 
なかれ 生まれを 問う 行為を・しかし 問え
kaṭṭhā have jāyati jātavedo;
薪から 必ず 生まれる 火は
Nīcākulīnopi munī dhitīmā, 
低い家柄・でも 賢者は 堅実で
ājāniyo hoti hirīnisedho.
了知した人に なる 恥を知り・防止

生まれを問うのではなく
行為を問いなさい。
火は必ず薪から生じる。
低いカーストでも賢者は
堅実で、恥を知って慎み
完全な人となる。

解説

価値のある人間は、生まれで決まるのではなく、行為で決まるというブッダの教えです。私たち人間はみな不完全です。どんなにすごい博士でも、大統領でも、みんな必ず何らかの欠点があります。しかし、すべてを了知した人は、人格を完成させた人なので、欠点のない完全な人です。

火は必ず薪から生じる」とは、薪が燃え尽きてなくなれば、火は消えます。心も同じで、汚れがなくなれば、火は消える、ということか、あるいは、「原因(薪)があるから結果(火)が生じる」という比喩なのか、ちょっとわかりません。

SN-3-4-467

"Saccena danto damasā upeto, 
真実によって 訓練された人 訓練 備えた
vedantagū vūsitabrahmacariyo;
ヴェーダに通じた 梵行の・行為者
Kālena tamhi habyaṃ pavecche, 
適切な時に それにおいて 供物 与えなさい
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

真実によって自制心を備え
訓練された人
ヴェーダに通じて
梵行生活をする人。
バラモンが功徳を期待して
祀るのならそのような人に
適宜、供物を与えなさい。

解説

真実によって」とは、「cattāri ariyasaccāni 4つの聖なる真理」のことです。

SN-3-4-468

"Ye kāme hitvā agahā caranti, 
彼らは 快楽を 捨てて 歩く
susaññatattā tasaraṃva ujjuṃ;
よく抑制された 杼のように まっすぐな
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それに 供物 与えなさい
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼らはよく制御された
シャトルのように誠実で
楽しみを捨てて生きている。
バラモンが功徳を期待して
祀るのなら彼らに
適宜、供物を与えなさい。

解説

Tasara(杼・シャトル)は、機織りで横糸を通す道具です。シャトルバスのシャトルです。織物を作る時に、シャトルを左右に繰り返し動かす様子を意味しています。まっすぐ正確に規則正しく横糸を運ばなければ、いい織物にはなりません。そのように彼らは行動するということです。

SN-3-4-469

"Ye vītarāgā susamāhitindriyā, 
彼らは 離貪 よく・統一・インドリヤで
candova rāhuggahaṇā pamuttā;
月・ような 蝕・捉われから 脱する
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与えなさい
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

5つの能力で心を集中して
月食から脱した月のような
(明るく輝く)彼らには
何かを欲する気持ちがない。
バラモンが功徳を期待して
祀るのなら彼らに
適宜、供物を与えなさい。

解説

Rāga(ラーガ)は、何かを欲しいと意識的に望む欲です。「何かをしたい、何かを得たい、こうなりたい」といった欲望です。Rāhu(ラーフ)は、日蝕や月蝕が生ずる蝕=妨げのことです。ブッダ の一人息子ラーフラの名前の由来も「妨げるもの」という意味です。

5つの能力とは、indriya(インドリヤ)のことです。修行を妨げる5つの障害とは対照的に、修行を助ける5つの能力です。

SN-3-4-470

"Asajjamānā vicaranti loke, 
無・執着で 渡り歩き 世界を
sadā satā hitvā mamāyitāni;
常に 気づきある  捨てて 私のものを
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与えなさい
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

「私のもの」という概念を捨て
常に気づいている人たちは
執着することなく世間を渡り歩く。
バラモンが功徳を期待して
祀るのなら彼らに
適宜、供物を与えなさい。

解説

私たちは何かを見たり聞いたりした時に、それをそのまま認識していません。「見た」と思っても、ありのままに見ていないのです。目に刺激が入った瞬間に、自分の過去の経験に照らし合わせて、自動的に自分の見方を加えた、各自オリジナルの概念を「見た」と思っています。その「見えたもの」について、他者との相違点や共通点を知るうちに、「私が見たもの」として自分の概念を一貫して感じるようになります。こうして「私のもの」ができあがります。

常に気づく」ということは、見た時には、「見た」とはっきりと意識して自覚することで、それまで自動的にやっていた、この反応を意識的に止めるのです。「見えたもの=目が捉えた色形」をそのまま認識して終わりにします。意識することで、自分の見方を加える捏造を止めることができるようになります。それが気づきです。何気ない動作の1つひとつを客観的に自覚することで、無自覚にしているあらゆる行為が自覚できるようになるのです。

生きている限り、私たちは見たり、聞いたりすることを避けることはできませんが、現れる外部刺激に対して、過度に反応することをこうして抑制できます。それが「常に気づいている」と状態です。これができるようになると、「私のもの」という錯覚が徐々になくなり、「私のもの」ではなければ、執着したり、怒ったり喜んだりすることも少なくなるのです。