4. Sundarikabhāradvājasuttaṃ スンダリカのバラモン ②
SN-3-4-471
"Yo kāme hitvā abhibhuyyacārī, 人は 快楽を 離れ 克服して・歩く yo vedi jātīmaraṇassa antaṃ; 人は 見出し 生・死のために 終局に Parinibbuto udakarahadova sīto, 完全な・寂静の 水・湖・ような 涼しい tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
快楽を離れて
苦しみを克服した人
輪廻の終焉を見出した人
湖の水のように清涼な人
完全なる寂静のタターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
「歩く=生きること」と解釈して、「生きることは苦しみ」なので、苦しみを克服した人と訳しました。
SN-3-4-472
"Samo samehi visamehi dūre, 平静は 平等によって 不平等から 遠くに tathāgato hoti anantapañño; タターガタは ある 無限の・智慧 Anūpalitto idha vā huraṃ vā, ない・穢れ ここで 或は あちらで 或は tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
不平等からは離れて
平等で平静な人
タターガタには
無限の智慧がある
この世でもあの世でも
穢れのないタターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
不平等とは、カースト制のことを指していると思います。バラモンはインドに侵略したアーリア人であり、カースト制を築いた人々です。当然、激しい差別意識がありますが、ブッダは、すべての生命は人間も動物も昆虫も何もかも平等だと考えました。
生きている限り、私たちは見たり、聞いたりすることを避けることはできませんが、現れる外部刺激に対して、過度に反応することをこうして抑制できます。それが「常に気づいている」と状態です。これができるようになると、「私のもの」という錯覚が徐々になくなり、「私のもの」ではなければ、執着したり、怒ったり喜んだりすることも少なくなるのです。
SN-3-4-473
"Yamhi na māyā vasati na māno, そこには ない 幻が 住む ない 慢心は yo vītalobho amamo nirāso; 人は 離欲求の 非利己的 無欲 Panuṇṇakodho abhinibbutatto, 払拭・憤怒 寂静を・得た yo brāhmaṇo sokamalaṃ ahāsi; 人は バラモン 憂い・垢を 除いた Tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
無欲で利己的ではなく
何も求めない人には
おごる心はなく
妄想することもない。
怒りを払拭して涅槃を得た人、
憂い・穢れを取り除いた
バラモンであるタターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
私たちは、欲深く利己的で、欲しいものがいっぱいで、すぐに調子に乗り、妄想しっぱなしです。すぐにカチンときて、嫌だ、と憂う心は真っ黒です。それでは、つらい毎日です。
すべてを手放して、何も求めずに、とにかく他者を優先させて生きる。自分が欲しいものや、自分の利益はいったん手放して、他者の役に立つように、他者が喜ぶように生きてみる。何があっても、他者の気持ちを優先させれば、おごる心が消え、妄想する必要もなくなります。
他者が優先であれば、カチンとくることもなくなり、ささやかであっても他者に喜ばれた心は、外に居場所を見つけて、明るく輝きます。
SN-3-4-474
"Nivesanaṃ yo manaso ahāsi, 執着を 人は 心の 除いた pariggahā yassa na santi keci; 所有物 彼には ない 存在 何も Anupādiyāno idha vā huraṃ vā, ない・しがみつく ここで 或は あちらで 或は tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
執着を除いた人には
「私のもの」は何も存在しない
この世でもあの世でも
しがみつくものがない
タターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
Pariggaha は、執着の対象となる所有物で、家や財産、妻子など、「私のもの」だと思う対象です。執着は、大切に思うあまり、失うことを怖れて、しがみつきたい気持ち。深く思い込んで、こだわる気持ちです。
SN-3-4-475
"Samāhito yo udatāri oghaṃ, 心を統一した 人は 渡る 洪水を dhammaṃ caññāsi paramāya diṭṭhiyā; 真理を 知った 最高の 見解によって Khīṇāsavo antimadehadhārī, 尽きた・煩悩 最終の・身体・身に着ける tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
最高の見解によって
真理を知った人は
精神を統一して激流を渡る
煩悩が尽きて
最後の肉体となるタターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
激流を渡るとは、「涅槃に至る」ということです。解脱したならば、輪廻から外れるので、来世に生まれることはありません。今世のいまある肉体が最後の身体になります。
SN-3-4-476
"Bhavāsavā yassa vacī kharā ca, 存在・汚れ 彼には 言葉が 粗い と vidhūpitā atthagatā na santi; 破壊された 没した ない 存在 Sa vedagū sabbadhi vippamutto, 彼は ヴェーダに通じた あらゆる点で 脱している tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
彼には生存欲も乱暴な言葉も
破壊されて消え、存在しない。
ヴェーダに通じ
あらゆる点で解放された人
タターガタは
御供物を受けるに値する。
SN-3-4-477
"Saṅgātigo yassa na santi saṅgā, 執着を越えた 人に ない 存在 執着から yo mānasattesu amānasatto; 人は 慢心・ある人々の中で ない・慢心の Dukkhaṃ pariññāya sakhettavatthuṃ, 苦しみを 了知する 共に・土地・対象を tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
しがらみを超えて
こだわりのない人
傲慢な人々の中でも
おごることのない人。
苦しみが生じる場所と原因を
完全に理解した人タターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
Sakhettavatthuṃ:sa(共に)khetta(土地=何かが生産される場所)vatthu(原因=6つの感覚器官)=苦しみが発生する場所と原因。
SN-3-4-478
"Āsaṃ anissāya vivekadassī, 望みに ない・依る 分別・見ている paravediyaṃ diṭṭhimupātivatto; 他の・知るべき 見解を・脱した人は Ārammaṇā yassa na santi keci, 対象 彼には ない 存在 何も tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
他の考え方や常識に
とらわれなくなった人は
自分の望みに依ることなく
ものごとを客観的に見ている。
望むような対象が
何も存在しないタターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
Āsā(希望・願望・意欲)。1行目は直訳すると「望みに依らずに、分別を見ている」となります。「自分の望みは加えずに、ありのままに認識している」という意味です。人は通常、自分の望む結果を達成するために行動し、それに向かって努力します。望みによって、目標や意思決定が影響を受け、行動が動機づけられています。
Paravediyaṃ diṭṭhimupātivatto(他の知るべき見解を脱した人は)の部分は、ブッダ の言葉は常に普遍的なので、「既存の考え方や常識にとらわれない人」と解釈しました。難しく言えば、「人間の認識の次元を超えた人」ということだと思います。解説書などによれば、ブッダがまとめた誤った62の見解(邪見)だそうです。
私たちは生まれてから多くの経験をする中で、他からインプットした情報(知るべきこと)を、知識や考えとして蓄えて、それを判断基準にしてあらゆるものを認識します。経験が多くなればなるほど、ありのままの事実ではなく、自分の主観(知識)を加えて認識します。例えば、英語を知らなければ、英語で話しかけられても、単なる音としか認識できませんが、英語を知る経験があれば、音ではなく意味のある言葉として認識します。
学んだ知識を加えて認識の範囲が広がることは、何も悪いことではありませんが、人が認識する時には、常に自分の好き嫌い(望み)に依って認識する癖があります。単なる音でしかなかった英語も、「嫌だ、悪口を言われた」とか「えへへ、褒められた」と、主観が加わった認識に変わるのです。これが苦しみの原因になります。
Ārammaṇa 感覚の対象= 目・耳・鼻・舌・体・心が、接触する対象。
SN-3-4-479
"Paroparā yassa samecca dhammā, あらゆる種類の 彼は 認知し 現象を vidhūpitā atthagatā na santi; 破壊された 没した ない 存在 Santo upādānakhaye vimutto, 寂静の 執着・滅尽 解脱した人は tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
あらゆる種類の現象を
彼は認知し、
破壊されて消え、存在しない。
執着を滅尽して解脱した
寂静の人タターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
ここでは dhamma を現象と訳しました。
ヴィパッサナー瞑想は、各人が体験するすべての現象を主観を交えずに、ありのままに認識する訓練です。「ありのままに認識する」とは、例えば、悪口を言われても、心が一切動かず、雨音を聞いた時と変わらず、ただの音として認識することです。これを、その人が生きる上で体験する全ての事象で、ありのままに認識することができるようになると修行完了で、完全な人「アラハン」です。
しかし、心に浮かぶ現象は、人それぞれに違うので、その人の全パターンは、その人だけに通用するものです。そこが難しいところで、だから誰にも教えることができないのです。とにかく自分で、1つ1つ気づくしか道がないのです。
SN-3-4-480
"Saṃyojanaṃ jātikhayantadassī, 10の束縛を 生・滅尽・終わり・見て yopānudi rāgapathaṃ asesaṃ; 人は・除去した 欲望の・道を なく・残り Suddho nidoso vimalo akāco, 純粋な ない・過失 ない・垢 清らかな tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
誕生と死のサイクルの終焉を見て
10の束縛を五感が求める欲を
徹底的に排除した人は
純粋で欠点がなく無垢で
清らかなタターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
Saṃyojana(10の束縛)は、悟りの最終段階に到達するために捨てるべきものです。Jātikhayantadassī (生)は、「生と滅尽=誕生と死」の終焉を見て=輪廻の終わりを見て=解脱と解釈しました。
SN-3-4-481
"Yo attano attānaṃ nānupassati, 人は 自我によって 自我を ない・観察するなら samāhito ujjugato ṭhitatto; 心が定まり まっすぐに・行く 自立して Sa ve anejo akhilo akaṅkho, 彼は まさに 不動の ない・強情 ない・懐疑 tathāgato arahati pūraḷāsaṃ. タターガタは 値する 献菓に
自分を自我によって観察せず
心が定まりまっすぐで自立し
強情さや疑いはなく
心が動じなくなったタターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
バラモン教は、自己の本質である「真我(アートマン・魂)」があり、個人の肉体が死を迎えても、自我の意識は永遠に自主独立して存続し、死後にその魂は新しい肉体を得る(輪廻)という考えです。そして個々の魂は、個人の自我であると同時に、宇宙原理である「ブラフマン」と一体であり、真の実在はアートマンのみであって、他は幻である、と説いています。
これに対してブッダは、物事は互いの条件付けによって成立し、あらゆる事物は現象として生成し消滅しているだけで、不変的な本質は存在しない。だから「私」という不変の自我は存在しない、としています。肉体の死後に意識は輪廻しますが、同一の自我が続くわけではないということです。
このスッタの1行目「自分を自我によって観察せず」は、その点の指摘なのだと思います。ブッダの教えるヴィパッサナー瞑想は、自分の心を観察する際に「主観を一切排除して観察する」修行です。自我は存在しないことを、自分の身体を通して体験する修行です。
SN-3-4-482
"Mohantarā yassa na santi keci, 痴の・中 彼には ない 存在 いかなる sabbesu dhammesu ca ñāṇadassī; 一切の 現象において そして 智見を・見て Sarīrañca antimaṃ dhāreti, 身体・と 最終の 保持する patto ca sambodhimanuttaraṃ sivaṃ; 得た そして 正覚者を・無上の 吉祥な Ettāvatā yakkhassa suddhi, この範囲で ヤッカのために 浄化 tathāgato arahati pūraḷāsaṃ". タターガタは 値する 献菓に
彼には愚かさのかけらもなく
あらゆる現象において
智慧によって認識する。
最後の肉体を身につけ
祝福された無上の正覚者
ヤッカ神もここまで浄化される
タターガタは
御供物を受けるに値する。
解説
愚かさとは「自我」があるという無知です。ここでは唐突にヤッカが登場しますが、バラモンを相手に話しているので、「ヤッカ=神々であっても、ここまで浄化される」という意味だと思います。バラモンにとって宇宙の創造主ブラフマーや、ヴィシュヌ神やシヴァ神といった神々は、人智を超えた存在です。その神々に供物を祀ることで、自分の心が浄化されると考えます。彼らの究極の願いは、死後、天界に再生することです。それに対してブッダは、天界に存在する神々(ヤッカ)も輪廻する欲界の衆生に過ぎないというスタンスです。
SN-3-4-483
"Hutañca mayhaṃ hutamatthu saccaṃ, 供物が・そして 私の 供物であるように 真実を yaṃ tādisaṃ vedagunaṃ alatthaṃ; 彼を そのような ヴェーダに通じた 得難い Brahmā hi sakkhi paṭigaṇhātu me bhagavā, ブラフマーが 実に 証人 受け入れる 私の 世尊よ bhuñjatu me bhagavā pūraḷāsaṃ". 受けて下さい 私の 世尊よ 献菓を
スンダリカ:
あなたのようなヴェーダに通じた
得難い人への私の供物が
真の供物となりますように。
まさにブラフマーが
世尊が私の供物を受け取る
証人です。
世尊よ、私の献菓をどうぞ
お受け取りください。
解説
スンダリカは、ブッダに会う直前まで火の儀式を行いブラフマーに供物を捧げて、そのお下がりをブッダに捧げようとしたのですから、まさにブラフマーが証人になるということです。
SN-3-4-484
"Gāthābhigītaṃ me abhojaneyyaṃ, 説法で得たものを 私は ない・受けるべき sampassataṃ brāhmaṇa nesa dhammo; 正しく見る人には バラモンよ ない・これは ダンマは Gāthābhigītaṃ panudanti buddhā, 説法で得たものを 拒否する 覚者は dhamme satī brāhmaṇa vuttiresā. ダンマに 存在する バラモンよ 行為
ブッダ:
教えを説いて得たものを
私は受け取ることはできない。
バラモンよ
正しく見る人にとって
これはダンマに反する。
バラモンよ
教えを説いて得たものを
覚者は拒否します
これがダンマに則った行いです。
解説
ブッダ は教えの対価として、何かを受け取ることは決してしません。真理の教えを人々に与え続け、人々から与えられたもので肉体を維持する、それが覚者の生き方です。
SN-3-4-485
"Aññena ca kevalinaṃ mahesiṃ, 他によって と 完全な人に 大仙人に khīṇāsavaṃ kukkuccavūpasantaṃ; 煩悩を滅尽した人に 後悔・静まった人に Annena pānena upaṭṭhahassu, 食べ物によって 飲物によって 仕えなさい khettañhi taṃ puññapekkhassa hoti". 耕作地・実に それは 福徳を・期待する人のために なる
ブッダ:
私ではなく他の
アラハンや偉大な仙人
煩悩を滅尽した人や
後悔する悪行をやめた人に
食べ物や飲み物を施しなさい。
福徳を期待する人にとって
それはまさに
種を撒く土地になる。
解説
スッタニパータ 第1章「4. 農夫バーラドヴァージャ」と同じ結末になりました。修行者は、心という土地を耕し、ダンマの種子を蒔いて育てるのが仕事です。
SN-3-4-486
"Sādhāhaṃ bhagavā tathā vijaññaṃ, どうか・私は 世尊よ そのように 了知する yo dakkhiṇaṃ bhuñjeyya mādisassa; 人は 施しを 受けてくれる 私の如き人の Yaṃ yaññakāle pariyesamāno, 人を 祭祀時に 探し求めて pappuyya tava sāsanaṃ". 得たい あなたの 教えを
スンダリカ:
世尊よ、
私のような者の施しを
受けてくれる人は
どんな人なのかを
どうか私に教えてください。
祭祀の時にはどんな人を
探し求めたらいいのか
あなたの教えを得たいのです。
解説
Sādhāhaṃ(Sādhu+ahaṃ):サードゥは、同意しますの意味です。師が説法を終えた時には、弟子は「サードゥ、サードゥ、サードゥ」と、3回唱えます。
SN-3-4-487
"Sārambhā yassa vigatā, 激情は その人の 消失する cittaṃ yassa anāvilaṃ; 心を その人の ない・濁り Vippamutto ca kāmehi, 脱した そして 欲望から thinaṃ yassa panūditaṃ. 無気力を その人の 払拭され
ブッダ:
激しい感情は消えて
心には曇りがない人
また、怠け心が払拭され
五感の欲から脱した人
SN-3-4-488
"Sīmantānaṃ vinetāraṃ, 罪悪・終辺を 取り除いた jātimaraṇakovidaṃ; 生・死を・熟知した Muniṃ moneyyasampannaṃ, 賢者 道徳心・備えた tādisaṃ yaññamāgataṃ. そのような人が 祭祀に・来たなら
ブッダ:
罪悪を克服して生と死を熟知し
道徳心を備えた賢者
そんな人が
祭祀の時に来たなら
解説
バラモンの祭祀にやって来たなら、ということです。
SN-3-4-489
Bhakuṭiṃ vinayitvāna, 渋面を 取り除いて pañjalikā namassatha; 合掌の 礼拝しなさい Pūjetha annapānena, 供養しなさい 食物・飲物により evaṃ ijjhanti dakkhiṇā. このように 成功する 施しは
ブッダ:
しかめっ面をやめて
合掌して礼拝しなさい。
食べ物や飲み物を捧げなさい
そうすれば施しは成就する
解説
バラモンは祭祀の時に呼んでいない人が来ると、火が汚れると言って嫌がるようです。かつてブッダ も嫌がられたことがあります。詳細はこちら
SN-3-4-490
"Buddho bhavaṃ arahati pūraḷāsaṃ, 覚者の 尊師は 価する 献菓に puññakhettamanuttaraṃ; 福徳・土地・無上の Āyāgo sabbalokassa, 受献者は 全・世界の bhoto dinnaṃ mahapphala"nti. 師に 与えられた 大きな・果実・と
スンダリカ:
覚者である先生は
布施に値する
無上の福徳となる土地です。
世界中の布施を受ける人
先生に与えたものは
大きな成果となります。
とスンダリカは言いました。
結び
Atha kho sundarikabhāradvājo brāhmaṇo bhagavantaṃ etadavoca – そこで 時に スンダリカバーラドヴァージャは バラモンの こう・言った "abhikkantaṃ, bho gotama, 素晴らしい 尊い ゴータマ abhikkantaṃ, bho gotama! 素晴らしい 尊い ゴータマ Seyyathāpi, bho gotama, 同じ・まるで 尊い ゴータマ nikkujjitaṃ vā ukkujjeyya, 倒れたるを 或は 起こす如く paṭicchannaṃ vā vivareyya, 覆われたるを 或は 開く如く mūḷhassa vā maggaṃ ācikkheyya, 迷いたる 或は 道を 示す如く andhakāre vā telapajjotaṃ dhāreyya – 暗闇で 或は 燈火を 保持する如く cakkhumanto rūpāni dakkhantīti; 具眼者は 色を 見えるように evamevaṃ bhotā gotamena anekapariyāyena dhammo pakāsito. まさにこのように 先生 ゴータマによって 種々の・説明で 明らかにされた Esāhaṃ bhavantaṃ gotamaṃ saraṇaṃ gacchāmi dhammañca bhikkhusaṅghañca. ここで・私は 尊師を ゴータマを 帰依し 行く・私は ダンマ・と 比丘・サンガ・と Labheyyāhaṃ bhoto gotamassa santike pabbajjaṃ, 得たい 尊い ゴータマ より 面前 出家を labheyyaṃ upasampada’’nti. 得て 具足を と Alattha kho sundarikabhāradvājo brāhmaṇo…pe… arahataṃ ahosīti. 不可能な 実に スンダリカ・バーラドヴァージャ は バラモンの…省略…アラハンに なった
そこで、バラモンのスンダリカ・バーラドヴァージャ はこう言いました。
「尊いゴータマ、素晴らしい!
尊いゴータマ、素晴らしい!
尊いゴータマ、
それはまるで倒れたものを起こし
閉ざされていたものを開き
迷う人に道を示し
暗闇に灯りが灯って
目で色形が見えた時のように。
このようにゴータマ先生は
数々の説明でダンマを明らかにされたのです。
ここで私は、尊師ゴータマ に、ダンマに、そして比丘のサンガに帰依して、一緒に参ります。尊いゴータマ師の御前で具足を得て、出家させてください」
バラモンのスンダリカ・バーラドヴァージャ は実に不可能な…省略…アラハンとなりました。
解説
省略部分は、次の通りです。
出家してからのスンダリカは、一人で隠遁生活を送り、注意深く熱心に、精力的に修行しました。そして修行の最終段階の涅槃に、短時間に到達して悟りました。彼は理解しました。「もう誕生することはない。聖なる生活は成就し、仕事は終わった。この世でこれ以上為すべきことは何もない」。こうしてスンダリカは、アラハンの一人となりました。
Sundarikabhāradvājasuttaṃ catutthaṃ niṭṭhitaṃ. スンダリカ・バーラドヴァージャ 4番目 終わり
4. スンダリカのバラモン 終わり