第3章 大きな章:5. 学徒マーガ② 498〜514

5. Māghasuttaṃ:マーガのスッタ集 ②

SN-3-5-498

"Yesu na māyā vasati na māno, 
彼らには ない 幻 住む ない 慢心
khīṇāsavā vūsitabrahmacariyā;
尽きた・煩悩 梵行をなした人
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

ブッダ:
彼らにはおごる心がなく
妄想にとらわれず
清く正しい生活をして
心の汚れが尽きている。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのならそのような人に
適宜、施しを与えなさい。

解説

497〜499は、最初の1行だけが違い、残りの3行は同じです。おごる心māna)は、他者と自分を比べる心であり、正しいとか間違っているとか判断する心です。この比較する心=自分と他を分別する心がなければ、自分が正しいとか、間違っているという妄想もなくなります。

SN-3-5-499

"Ye vītalobhā amamā nirāsā, 
彼らは 離・欲求 非・利己的 無欲
khīṇāsavā vūsitabrahmacariyā;
尽きた・煩悩 梵行をなした人
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼らは何も求めず
無欲で利己的ではなく
清く正しい生活をして
心の汚れが尽きている。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのならそのような人に
適宜、施しを与えなさい。

解説

497〜499の3スッタは、三毒について語っています。

SN-3-5-500

"Ye ve na taṇhāsu upātipannā, 
彼らは 実に 渇望へと 陥れる
vitareyya oghaṃ amamā caranti;
超えて 激流を 非・利己的 歩く
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼らはまさに
渇望に陥ることなく
激流を超えて
利他的に生きている。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのならそのような人に
適宜、施しを与えなさい。

SN-3-5-501

"Yesaṃ taṇhā natthi kuhiñci loke, 
彼らには 渇望が ない・存在 どこにも 世界に
bhavābhavāya idha vā huraṃ vā;
生存に対する ここで 或は 他界に 或は
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

この世でも他の存在界でも
どんな世界でも
彼らには生きることに対して
渇望することはない。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのならそのような人に
適宜、施しを与えなさい。

SN-3-5-502

"Ye kāme hitvā agahā caranti, 
彼らは 感覚的欲望 捨てて 歩く
susaññatattā tasaraṃva ujjuṃ;
完全な抑制 シャトル・あるいは まっすぐに
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼らはよく制御された
シャトルのように誠実で
楽しみを捨てて生きている。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのなら彼らに
適宜、施しを与えなさい。

解説

このスッタは、スンダリカのスッタ集の468と同じです。

SN-3-5-503

"Ye vītarāgā susamāhitindriyā, 
彼らは 離貪 よく・統一・インドリヤで
candova rāhuggahaṇā pamuttā;
月・ような 蝕・捉われから 脱する
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

5つの能力で心を集中して
月食から脱した月のような
(明るく輝く)彼らには
何かを欲する気持ちがない。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのなら彼らに
適宜、施しを与えなさい。

解説

同じくスンダリカの469と同じです。

SN-3-5-504

"Samitāvino vītarāgā akopā, 
静かになる 離・欲 ない・恨み
yesaṃ gatī natthidha vippahāya;
人 行く 非存在 放棄して
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それ 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

欲はなく恨みもなく
心が鎮まった人は
存在することを放棄して
輪廻を外れて行く。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのなら彼らに
適宜、施しを与えなさい。

SN-3-5-505

"Jahitvā jātimaraṇaṃ asesaṃ, 
離れた 生・死を なく・余り
kathaṃkathiṃ sabbamupātivattā;
疑いを すべての・逃れた
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それに 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

疑いをすべて晴らして
生と死を完全に離れた人々に、
バラモンが功徳を期待して
布施をするのなら彼らに
適宜、施しを与えなさい。

解説

ブッダは解脱して覚りの境地に達した直後、「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」

SN-3-5-506

"Ye attadīpā vicaranti loke, 
彼らは 自分を・頼りに さまよい 世界を
akiñcanā sabbadhi vippamuttā;
無所有の 一切の場で 自由になれる
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それに 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼らは何も持たずに
自分を頼りに世間を渡り歩き
どこでも心が自由になれる。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのなら彼らに
適宜、施しを与えなさい。

解説

自分を頼りに」とは自分の生き方を信じることです。私たちは、これができそうで実はなかなかできていないように思います。例えば、修行して解脱しなくても、角野栄子さんのような方は、本当に自分を頼りに自由な心で生きているのだと思います。

SN-3-5-507

"Ye hettha jānanti yathā tathā idaṃ, 
彼らは まさにここで 知る の如く その如くに 今ここで
ayamantimā natthi punabbhavoti;
これ・最終の ない 輪廻
Kālena tesu habyaṃ pavecche, 
適切な時に それに 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼らは今ここで
ありのままに認識している
まさにここが最終となり
輪廻しない。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのなら彼らに
適宜、施しを与えなさい。

SN-3-5-508

"Yo vedagū jhānarato satīmā, 
彼は ヴェーダに通じ 禅定・喜び 気づきある
sambodhipatto saraṇaṃ bahūnaṃ;
正覚に達せる 帰依される 多くの人々に
Kālena tamhi habyaṃ pavecche, 
適切な時に それにおいて 供物 与える
yo brāhmaṇo puññapekkho yajetha’’.
人は バラモンの 功徳を・期待して 祀るなら

彼はヴェーダに通じ
精神統一を楽しみ気づきがあり
多くの人々に頼られて
正覚者に達している。
バラモンが功徳を期待して
布施をするのなら彼らに
適宜、施しを与えなさい。

解説

マーガ がブッダにした「どんな人が布施に値するのか?」という質問の最後の答えは「正覚者」でした。ブッダの答えはここまでです。

SN-3-5-509

"Addhā amoghā mama pucchanā ahu, 
確かに ない・空虚 私の 質問は ある
akkhāsi me bhagavā dakkhiṇeyye;
教えてくれた 私に 世尊よ 施しに値する人々を
Tvañhettha jānāsi yathā tathā idaṃ, 
あなたは・ここに 知っている の如く その如くに 今ここで
tathā hi te vidito esa dhammo.
そのように 実に あなたに 見出された この ダンマは

マーガ:
私の質問は全くもって
無駄ではなかった。
布施に値する人々を
私に教えてくれた世尊よ
あなたはこの世ですべてを
如実に知っておられる。
まさにあなたによって真理が
あるがままに知らされたのです。

SN-3-5-510

"Yo yācayogo dānapati gahaṭṭho, 
人は 乞いに応じる 施主が 在家の
(iti māgho māṇavo)
と マーガ 青年
Puññatthiko yajati puññapekkho;
功徳を求め 布施で 功徳を期待して
Dadaṃ paresaṃ idha annapānaṃ,
与えるなら 他の人々に ここに 食物・飲物を
Akkhāhi me bhagavā yaññasampadaṃ".
教えてください 私に 世尊よ 布施・成就を

マーガ:
乞いに応じて在家の施主が
功徳を目的に布施を行い
功徳を期待してこの世で人々に
食べ物や飲み物を与える場合
布施を成功させる秘訣を
世尊よ、
私に教えてください。

解説

このスッタ集のマーガ の最初の質問491は「布施の献供物によって、なぜ心が浄化されるのか?」でした。ブッダ の答えは「施すにふさわしい人々によって、善行が達成されるから」でした。それに対してマーガ は「では、どんな人に施すべきか?」と尋ね、ブッダは14のスッタで答えました。そしてこのスッタでは「布施を成就させる方法」について質問しています。

SN-3-5-511

"Yajassu yajamāno māghāti bhagavā, 
布施せよ 布施において マーガよ・と 世尊は
sabbattha ca vippasādehi cittaṃ;
一切処で そして 喜び・実に 心を
Ārammaṇaṃ yajamānassa yañño, 
対象に 布施する人の 布施etthappatiṭṭhāya jahāti dosaṃ.
ここに・確立している 断つ 過ちを

ブッダ:
マーガよ、
布施をするあらゆる場面で
心に喜びをもって
布施をしなさい。
布施は、布施をする人の
悪意を断つ心が肝心です。

解説

お布施をする時は、喜びの心が必要だという教えです。他者を助けたいと願う慈悲の心を育てるのです。実際、他者に施すという行為は、他者の役に立ったという満足感が得られて、嬉しい気持ちになるものです。ここで注意しなければいけないのは、「してやった」という慢心です。

株式市場も今では錬金術場のひとつとなっていますが、元々は、経済的に余裕のある人が、やる気のある人々の事業を助けるために経済的支援をして、それに応えようと頑張って事業を成功させてきたものです。そのおかげで、日本は戦後すばらしい進化を遂げて、世界中で多くの人々の役に立ってきました。その心は金儲けではなく、頑張る人を応援したいというエネルギー+援助に応えて努力するエネルギーという、どちらも純粋なエネルギーが根底になりました。

戦後の何もない時代にあっても、執着なく懸命に今日を生きていた人々。欲と怒りと愚かさを捨て、清く正しく生活してきた日本人。彼らにはおごる心も妄想もなく、まさに渇望に陥ることなく、激流を超えて利他的に生きていました。真面目で誠実に、楽しみよりも役に立つために、生きるために頑張ってきました。だからこそ、施すにふさわしい彼らに与えられたものが、実を結んで大きな成就となったのでしょう。

ブッダが掲げた条件に合致していますね。あれから年月が流れ、私たちの今の心は、どうでしょう? お布施を受けるに値するでしょうか?

SN-3-5-512

"So vītarāgo pavineyya dosaṃ, 
彼は 離れ・欲を 追放して 怒りを
mettaṃ cittaṃ bhāvayamappamāṇaṃ;
慈しみを 心を 実践する・量を
Rattindivaṃ satatamappamatto, 
夜に・昼に 常に・不怠惰
sabbā disā pharati appamaññaṃ".
全ての 方角に 広がる 無量を

欲を離れ、怒りを消して
慈しみの心を育むのです。
昼も夜も常に怠けずに
あらゆる方向に慈しみの心を
無限に広げるのです。

解説

他者に施すということは、施すものに対する(愛着)を離れ、与えることに対する怒り(損)を捨てることになります。これだけでも素晴らしいことです。さらにここで、与えること=他者と共有できる機会を意識的に喜んで、その友愛の気持ちを広げるようにイメージするのです。これが慈悲の瞑想です。

欲や怒りは、どんなに広げても所詮、人間の限界がありますが、慈しみの心は無限に広げられるのです。得られるものには限界がありますが、与えるものには限界がないからです。これが真理=宇宙の法則です。是非、お試しください。

SN-3-5-513

"Ko sujjhati muccati bajjhatī ca, 
誰か 清まるのは 脱するのは 捕まるのは また
kenattanā gacchati brahmalokaṃ;
なぜか・自我は 行くのは 梵天の・世界に
Ajānato me muni brūhi puṭṭho, 
知らない 私の 賢者は 語って下さい 質問された
bhagavā hi me sakkhi brahmajjadiṭṭho;
世尊よ まさに 私の 証人 梵天を・今・見たこと
Tuvañhi no brahmasamosi saccaṃ, 
あなたは・まさに 我々にとって 梵天と・一緒 真実
kathaṃ upapajjati brahmalokaṃ jutima".
いかに 再生する 梵天の・世界に 光輝ある

マーガ:
誰が清らかになって
解脱するのですか?
また、誰が縛られるのですか?
どうすれば人は
ブラフマー界に行けるのですか?
賢者よ、質問します
私は知らないので教えてください。
世尊よ、
あなたはまさに我々にとって
ブラフマーも同じです。
今、私が本物のブラフマーに
会った生き証人です。
光り輝くあなたのような
ブラフマー界に生まれ変わるには
どうしたらいいのでしょう?

解説

マーガ はブッダに会って、この人こそ真のブラフマー(梵天)だと思いました。ブラフマーは、天界よりも高次の存在です。そして自分もそのような存在になりたいと思ったようです。

SN-3-5-514

"Yo yajati tividhaṃ yaññasampadaṃ, 
彼は 布施する 三種の 施主の成就
(māghāti bhagavā)
マーガよ・と 世尊は
Ārādhaye dakkhiṇeyyebhi tādi;
成功するだろう 施しにふさわしい人々によって そんな
Evaṃ yajitvā sammā yācayogo,
このように 布施して 正しく 乞いに応じる人は
Upapajjati brahmalokanti brūmī"ti.
再生する 梵天の世界に 説く・私は・と

ブッダ:
マーガよ、
三種の施主の成就を備えて
布施をする人は
布施にふさわしい人々と共に
成就するだろう。
乞いに応じる人は
このように正しく布施をして
ブラフマー界に生まれ変わる
と、私は説く。

解説

Tividha(三種)とは何なのか、スッタからは読み取れませんが、ブラフマー界に生まれ変わりたい人への答えなのですから、ブラフマー界に行く条件で三種といえば、悟りの種類が思い浮かびます。悟りの第3段階でしか、ブラフマー界に生まれ変わることはできないからです。

悟りには4段階ありますが、まず、最終段階に到達すればアラハンなので、もう輪廻から外れて生まれ変わりません。第1段階のソーターパンナは、まだ修行が必要なので、天界か人間界だけに生まれ変わります。第2段階のサカダーガーミは、輪廻が最後の1回なので、修行ができる人間界にしか生まれません。ということで、第3段階のアナーガーミだけが、ブラフマー界に生まれ変わります。これが最後の輪廻となり、ブラフマー界での寿命が尽きると消滅して終了です。

ということで、Yaññasampadā は「布施の成就」とこれまでは訳してきましたが、ここでは「施主の成就」と訳しました。 

結び

Evaṃ vutte, 
このように 言われた時に
māgho māṇavo bhagavantaṃ etadavoca – 
マーガは 青年 世尊に こう言った
"abhikkantaṃ, bho gotama…pe… 
素晴らしい 尊い ゴータマ…略…
ajjatagge pāṇupetaṃ saraṇaṃ gata"nti.
今日から 生きている限り 帰依します 行きます と

このように言われた学徒マーガ は、世尊にこう言いました。
「素晴らしい。ゴータマ先生!…省略… 今日から生きている限り、帰依してついて行きます」

解説

ブッダと会って話した人は、みんな感動して、ブッダに帰依します。うらやましいですね。

Māghasuttaṃ pañcamaṃ niṭṭhitaṃ.
マーガ・スッタ集 5番目 終わり

5. マーガ のスッタ集 終わり