第3章 大きな章:6. サビヤ④ 543〜552

6. Sabhiyasuttaṃ サビヤのスッタ集 ④

サビヤの質問がすべて終わりました。サビヤは4つの疑問を5回にわたって質問し、4×5=20の答えをブッダ から得ました。ここからはサビヤの振り返りです。ブッダの言葉はありません。

SN-3-6-543

"Yāni ca tīṇi yāni ca saṭṭhi, 
それら と 3つ それ と 60
samaṇappavādasitāni bhūripañña;
沙門の・論議・依る 広い・智慧者よ
Saññakkharasaññanissitāni, 
知覚・言葉・想念・依る
osaraṇāni vineyya oghatamagā.
撤退 除去 激流と・闇を・超えて

サビヤ:
広大な智慧のお方よ、あなたは
修行者たちが議論する
言葉と思考に依る認識である
63の人知を退けて
激流と闇を越えていく。

解説

この当時の識者たち(サビヤが最初に訪ねた六師外道)の間では、63の見解が正しい、正しくない、と議論されていたようです。いずれにせよ、言葉と思考で組み立てた見解なので「偏りのある見解=偏見」だと思います。

SN-3-6-544

"Antagūsi pāragū dukkhassa, 
終わりに達した 彼岸に渡った 苦しみの
arahāsi sammāsambuddho khīṇāsavaṃ taṃ maññe;
アラハン サンマー・サン・ブッダ は 尽きた・煩悩 あなたは 私は思う
Jutimā mutimā pahūtapañño, 
輝く 尊い 広大な智慧者は
dukkhassantakaraṃ atāresi maṃ.
苦しみ・停止 渡らせた 私を

あなたは煩悩が尽きて
苦しみを終わらせ
あちら側に渡ったアラハンであり
サンマー・サン・ブッダだと私は思う。
輝く尊い広大な智慧者が
私の苦しみを止めて救ってくれた。

解説

Sammāsambuddha(サンマー・サン・ブッダ)については、「ブッダとアラハンの違い」をご覧ください。

SN-3-6-545

"Yaṃ me kaṅkhitamaññāsi, 
人は 私の 疑いを・よく知る
vicikicchā maṃ tārayi namo te;
疑いから 私を 渡らせた 礼する あなたに
Muni monapathesu pattipatta, 
聖者よ 聖者道において 徳を得た
akhila ādiccabandhu soratosi.
ない・頑固 太陽・親族 温和な

私の疑問をよく理解して
私の疑惑を晴らしてくれた
あなたにお礼を申し上げます。
聖なる道において
徳を得た聖者よ、
頑固ではない温和な人
太陽の末裔です。

解説

温和な人(sorata)は520、聖者(muni)は532のブッダの答えを引用しています。ādiccabandhuは「日種族(太陽の末裔)」という意味です。

SN-3-6-546

"Yā me kaṅkhā pure āsi, 
その 私の 疑いに 前に あった
taṃ me byākāsi cakkhumā;
それを 私に 答えてくれた 眼識者よ
Addhā munīsi sambuddho, 
真に 聖者だ 正覚者
natthi nīvaraṇā tava.
ない 障害は あなたには

私がこれまで抱いていた疑念に
答えてくれた眼識あるお方よ
あなたには何の障害もない
本物の正覚者であり、聖者だ。

解説

Sambuddha(サン・ブッダ)=正覚者。Nīvaraṇa(ニーヴァラナ)は、蓋・覆いという意味で、解脱への修行を妨げる5つの障害のことです。

SN-3-6-547

"Upāyāsā ca te sabbe, 
悩み そして あなたの すべて
viddhastā vinaḷīkatā;
分散され 破壊され
Sītibhūto damappatto, 
落ち着いた 訓練・得た
dhitimā saccanikkamo.
堅実 真実に・励む

あなたの悩みは
すべて散って破壊され
訓練されて落ち着き
堅実で誠実な人です。

解説

521=訓練された人(danta)、536=精進する堅実な人(vīriya+dhīra)の引用です。

SN-3-6-548

"Tassa te nāganāgassa,
その あなたが ナーガの・ナーガであり
mahāvīrassa bhāsato;
大・英雄である 語るは
Sabbe devānumodanti, 
すべての 神々が・随・喜する
ubho nāradapabbatā.
両方は ナーラダ・山に住む

ナーガの中のナーガであり
偉大な英雄である
あなたが語るときには
すべての神々も
ヒマラヤのナーラダも大喜びする。

解説

Nāga(ナーガ)ついては、サビヤ が523で質問しています。ブッダは527で「この世でいかなる悪行も行わず、一切の束縛、結びを投げ出して、すべての束縛から逃れ、あらゆる場で執着しない解放された人」と答えています。それを受けて、「まさにナーガの中のナーガだ」ということだと思います。

Nārada(ナーラダ)は、増補改訂パーリ語辞典(水野弘元著)によると、アシタ仙人の甥だそうです。

聖者として名高いアシタ仙人は、ゴータマ・ブッダの実父スッドーダナ王の老師だった人です。ブッダが王子として生まれた時、サッカ神をはじめとする神々が、「王に高貴な王子が生まれた」と大喜びするのを聞いて、アシタ仙人は王を訪ねました。

アシタ仙人は王子の身体に偉大な人物の特徴(三十二相)を見つけ、「この尊い王子様はのちに、四大陸を統治する偉大な王になるか、人々の悩み苦しみを救うサン・ブッダ(正覚者)になる」と予言しました。そして悲しそうな顔をしました。心配した王が何か問題があるのかと尋ねると、「私は年寄りなので、この王子様がブッダになった時に、その尊い教えを、苦を滅するダンマが聞けないことが悲しい」と泣いた人です。

アシタ仙人は、自分は無理でも親族の誰かに聞かせたいと考えて、妹の息子である甥のナーラダ(ナーラカ)に託しました。「今すぐブッダの弟子になりなさい」とアシタ仙人に言われたナーラダは叔父を信頼し、その日のうちに将来のブッダを師として出家しました。それから35年以上、ヒマラヤ山脈の麓で誰とも話すことなく、一人で修行を続け、ブッダの出現を待ったそうです。す、す、すごいですね。

そして35年後、ゴータマ・シッダッタがブッダになり、5人の比丘に最初の説法をした7日後、バーラナシ郊外の鹿苑でブッダに会い、教えを聞いてすぐにアラハンになったそうです。本当によかったです。それがこのスッタのナーラダだと推測します。

SN-3-6-549

"Namo te purisājañña,
礼をします あなたに 高貴な生まれの人よ
namo te purisuttama;
礼をします あなたに 最上の人よ
Sadevakasmiṃ lokasmiṃ, 
共なる・神と 世界において
natthi te paṭipuggalo.
ない・存在 あなたに 対等の人は

高尚な人よ
あなたに敬意を表します。
最上の人よ
あなたに敬意を表します。
天界にも人間界においても
あなたに匹敵する人はいない。

SN-3-6-550

"Tuvaṃ buddho tuvaṃ satthā,
あなたは ブッダ あなたは 師
tuvaṃ mārābhibhū muni;
あなたは マーラを征服 聖者
Tuvaṃ anusaye chetvā,
あなたは 煩悩を 切断
tiṇṇo tāresi maṃ pajaṃ.
渡る 助けた 私を 人々を

あなたは邪悪を征服した
聖者であり、覚者であり
教えることができる人です。
あなたは自ら悟った
私を、人々を悟りに導く人です。

解説

1行目を直訳すると「あなたはブッダであり、あなたは先生です」となりますが、ブッダ(覚者)には3種類あり、他者に教えることができる人と、できない人がいます。他者に教えることができる人(他者を悟りに導くことができる人)は、サンマー・サン・ブッダだけです。ここではその意味での先生だと思います。また、サンマー・サン・ブッダは、他者に導かれて悟った覚者ではなく、自ら悟った覚者です。3行目「あなたは(自ら)煩悩を断ち切り」はそのことだと解釈しました。

SN-3-6-551

"Upadhī te samatikkantā, 
執着は あなたの 越えられた
āsavā te padālitā;
煩悩は あなたの 破られた
Sīhosi anupādāno, 
ライオン ない・とらわれ
pahīnabhayabheravo.
捨てた・畏怖・恐怖を

あなたは執着を越え
煩悩を破壊して
畏怖と恐怖を捨てた
とらわれのない獅子です。

解説

Upadhi(ウパディー):upa(近く)+dhā(置く)=頼る・依る・執着です。すべての苦しみの源は怖れです。未知への怖れ(畏怖)と現実での怖れ(恐怖)、いずれも失いたくないと執着する何かがあるからです。死にたくない、老いたくない、病気になったらどうしよう、お金がなくなったらどうしよう、家がなくなったら、家族がいなくなったら……、どうしていいかわからないことに対して、漠然と怖いのです。

しかし、人は必ず老いて死にます。お金も使えばなくなるし、病気になるかもしれないし、ならないかもしれない。家は物質なのでいつかは朽ちるし、家族は人間なので必ず老いて死にます。事実は、すべてが必ず変わる、このまま変わらないものはない、ということですが、人はその事実から目を背けて、変わらないで欲しいと願うのです。

人はさまざまな怖れを抱えているように見えますが、結局のところ、自分(自分の肉体+自分の考え)が困ったことにならないようにしたいだけです。何ものにも執着することなく、義務(目の前のやるべきこと)を果たすのが人間の本来あるべき姿ですが、なかなかそうはできないようです。

SN-3-6-552

"Puṇḍarīkaṃ yathā vaggu, 
白蓮が ように 美しい
toye na upalimpati;
水に ない 汚染
Evaṃ puññe ca pāpe ca, 
そのように 善 と 悪 と
ubhaye tvaṃ na limpasi;
両方の あなたは ない 染まる
Pāde vīra pasārehi, 
足を 英雄よ 伸ばして
sabhiyo vandati satthuno"ti.
サビヤは 崇拜する 師を・と

美しい白蓮が水を弾くように
あなたは善と悪と
どちらにも染まらない。
英雄よ
足を伸ばしてください
サビヤは師を崇拝します。

とサビヤは言いました。

解説

(ハス)は、泥沼に育つ植物です。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」の通り、蓮の花は水面から立ち上がって咲き、葉にはロータス効果と呼ばれる水を弾く特殊構造があります。まるで蓮の葉が水を弾くように、執着なく、やるべきことをやって、罪にも善にも心を動かさないということです。

結び

Atha kho sabhiyo paribbājako bhagavato 
そこで 時に サビヤは 遍歴行者の 世尊が
pādesu sirasā nipatitvā bhagavantaṃ etadavoca – 
足下に 伏して 頭を 世尊に こう・言った
"abhikkantaṃ, bhante…pe… 
素晴らしい 尊者よ …略…
esāhaṃ bhagavantaṃ saraṇaṃ 
ここで・私は 世尊に 帰依し
gacchāmi dhammañca bhikkhusaṅghañca; 
行く・私は ダンマ・と 比丘・サンガ・と
labheyyāhaṃ, bhante, 
得たい 尊者よ
bhagavato santike pabbajjaṃ, 
世尊の 面前で 出家を
labheyyaṃ upasampada"nti .
得て 具足を と

"Yo kho, sabhiya, 
人は 時に サビヤよ
aññatitthiyapubbo imasmiṃ dhammavinaye
外道・以前 この ダンマ・ヴィナヤを
ākaṅkhati pabbajjaṃ, 
希望する 出家を
ākaṅkhati upasampadaṃ, 
希望する 具足戒を
so cattāro māse parivasati; 
彼は 4 月 別・住する
catunnaṃ māsānaṃ accayena 
4つに 月 経過
āraddhacittā bhikkhū pabbājenti, 
開始する・心 比丘たち 出家を
upasampādenti bhikkhubhāvāya. 
具足戒を授ける 比丘・存在する
Api ca mettha puggalavemattatā viditā"ti.
しかし また 個人・相違 見出された と

"Sace, bhante, 
もし 尊師よ
aññatitthiyapubbā imasmiṃ dhammavinaye
外道・以前 この ダンマ・ヴィナヤを
ākaṅkhantā pabbajjaṃ, 
希望する 出家を
ākaṅkhantā upasampadaṃ
希望する 具足戒を
cattāro māse parivasanti, 
4 月 別・住する
catunnaṃ māsānaṃ accayena 
4 月 経過
āraddhacittā bhikkhū pabbājenti, 
開始する・心 比丘たち 出家を
upasampādenti bhikkhubhāvāya, 
具足戒を授ける 比丘・存在する
ahaṃ cattāri vassāni parivasissāmi; 
私は 4 雨季 別・住する
catunnaṃ vassānaṃ accayena 
4 雨季 経過
āraddhacittā bhikkhū pabbājentu 
開始する・心 比丘たち 出家を
upasampādentu bhikkhubhāvāyā"ti.
具足戒を授ける 比丘・存在する

Alattha kho sabhiyo paribbājako bhagavato 
不可能な 時に サビヤは 遍歴行者の 世尊の
santike pabbajjaṃ alattha upasampadaṃ…pe… 
面前で 出家を 不可能な 具足戒に…略…
aññataro kho panāyasmā sabhiyo arahataṃ ahosīti.
もう1つの 時に また・尊い サビヤは アラハンに なった・と 

そこで遍歴者サビヤは世尊の足元に頭をかがめて、こう言いました。

「素晴らしい!…中略1…
ここで私は世尊に、ダンマに
そして比丘のサンガに帰依し、ついていきます。
尊者よ、
世尊の御前で具足戒を得て
出家させてください」

「サビヤよ、
以前に他の道で出家していた者が
このダンマとヴィナヤ(戒律)を望み
具足戒を希望する場合には
まず4ヶ月、別住しなければならない。
4ヶ月が経って比丘たちが出家を認めたら
具足戒を授けて、比丘となる。
しかし、これには個人差がある」
とブッダ は言いました。

「尊者よ、
たとえ4年でも私は別住します。
4年が経って比丘たちが出家を認めたら
私に具足戒を授けて、比丘にしてください」
とサビヤ は言いました。

遍歴者のサビヤは世尊の前で為しがたい具足戒を授かり、出家しました…中略2…こうして尊者サビヤは、もう一人のアラハンとなりました。

解説

ブッダに帰依し、ダンマとサンガに帰依しても、誰もが比丘になれるわけではないようです。Upasampadā(ウパサンパダー)具足戒:upa(近く)-sam(居住)-pad(移動)=「近くで寝起きしながら移動する」という意味で、比丘としてサンガに加わる資格であり、これによって候補者が受け入れられると判断された場合、出家者として共同体(サンガ)に入り、修行生活を行うことが許可されます。

このスッタ集はブッダの教えの初期のものとされていますが、この時点で比丘サンガ(修行者集団)があり、ブッダの一存では決められないようですね。元々は、ブッダが「いいよ」と言えばお供できたはずです。サビヤが外道だったからかもしれませんが、ここでは「4ヶ月の経過観察があって比丘たちが認めれば、比丘になれる」とブッダが言っています。

さらに「個人差がある」と付け加えています。続くサビヤの答えが「たとえ4年でも」となっているので、この個人差は経過期間のことだと思います。

中略部分は以下の通りです。

中略1:倒されたものを直立させ、隠されたものを明らかにし、道に迷う者に道を示し、暗闇に灯火をともして目のある者に姿を見せるように、それと同じように、福者は多くの道理を通してダンマを明らかにされたのです。

中略2:比丘となってから間もなく、一人でひっそりと暮らし、注意深く熱心に真摯に、一族が正しく出家者の聖なる生き方の至高の目標に、長い時間をかけずに至りました。彼は「誕生は終わり、聖なる生活は成就し、仕事は終わった。この世のためにこれ以上することは何もない」と悟りました。

Sabhiyasuttaṃ chaṭṭhaṃ niṭṭhitaṃ.
サビヤ・スッタ集 6番目 終わり

6.サビヤのスッタ集 終わり

まとめ

このスッタ集は大変長いので、当初はくじけましたが、それでも「1スッタずつ訳せば、いつかは終わるはず」とただ黙々と訳してみると、これが今までとは違う視点で、大変勉強になるスッタ集でした。次のスッタ集はもっと長いのです。まさに修行です。