7. Selasuttaṃ:セーラのスッタ集 ②
ブッダの言葉を聞いてバラモンの学者セーラは、ブッダが本物の偉大な人物であり、サン・ブッダだと納得しました。
SN-3-7-567
"Imaṃ bhavanto nisāmetha, これを 諸君は 心しなさい yathā bhāsati cakkhumā; のように 語る 具眼者 Sallakatto mahāvīro, 治療者 大英雄 sīhova nadatī vane. 獅子・ように ほえる 森で
セーラ:
眼識ある人が語るままに
諸君はこれを傾聴しなさい。
森の中で吠える獅子のように
彼は偉大な英雄であり
治療者である。
解説
セーラは連れて来た300人の若者に言いました。眼識ある人とは、物事の本質を見抜く見識がある人のことです。
SN-3-7-568
"Brahmabhūtaṃ atitulaṃ, 創造主・万物の 比べられない mārasenappamaddanaṃ; マーラの軍団を・砕破する Ko disvā nappasīdeyya, 誰が 見て ない・信じるだろう api kaṇhābhijātiko. でさえも 黒い・種族
万物の創造主であり
誰とも比較できない。
マラーの軍団を倒す彼を見て
誰が信じないだろうか
邪悪な人でさえも(信じる)。
解説
kaṇha(黒い・邪悪な)-ābhijāti(種族)は邪悪な人としましたが、黒=悪、白=善ということではなく、白(仮に善)と黒(白の対極)といった二元の概念に生きる人であっても、ブッダの存在を信じると言うことではないかと思います。
SN-3-7-569
"Yo maṃ icchati anvetu, 人は 私を 求める 従いなさい yo vā nicchati gacchatu; 人は 或は ない・求める 去りなさい Idhāhaṃ pabbajissāmi, ここに・私は 出家しよう varapaññassa santike". 優れた智慧を持つ人の 前で
私を必要とする人は従いなさい
必要としない人は去りなさい。
優れた智慧者の前で
私はここで出家します。
解説
セーラは300人の若者たちに、今後の道を選択するよう促しました。
SN-3-7-570
"Evañce ruccati bhoto, このように・もし 喜ぶ 尊師が sammāsambuddhasāsane; サンマー・サン・ブッダの・教えを Mayampi pabbajissāma, 私たち・も 出家しましょう varapaññassa santike". 優れた智慧を持つ人の 前で
セーラの従者:
完全なる正覚者の教えを
このように尊師が喜ぶのなら
私たちも優れた智慧者の前で
出家しましょう。
解説
Sammāsambuddha:Sammā(サンマー/正しい)sam(サン/完全な)buddha(ブッダ・覚者)=完全なる正覚者。
SN-3-7-571
"Brāhmaṇā tisatā ime, バラモンたちは 300の この yācanti pañjalīkatā; 乞求する 合掌して Brahmacariyaṃ carissāma, 修行を 実践しましょう bhagavā tava santike". 世尊よ あなたの 前で
セーラ:
この300人のバラモンたちは
合掌して願います。
先生、
私たちはあなたのお側で
修行生活を実践します。
解説
300人の若者全員が、セーラ と一緒に出家してブッダの教えに従って修行する道を選んだようです。Brahmacariya は梵行・仏道修行のことで、ブッダの戒律に従って清貧の禁欲生活を実践することです。
SN-3-7-572
"Svākkhātaṃ brahmacariyaṃ, よく・説かれた 梵行を (selāti bhagavā) セーラよ・と ブッダ は sandiṭṭhikamakālikaṃ; 現世に・非・時間の Yattha amoghā pabbajjā, 所へ 不・無用 出家が appamattassa sikkhato"ti. 不・放逸によって 学ぶ人は・と
ブッダ:
セーラよ、
修行生活はよく説かれていて
現世ですぐに見出せる。
真剣に学ぶ人にとって
出家が無駄になることはない。
解説
このスッタの翻訳は「sandiṭṭhikamakālikaṃ」部分が明確に理解できていませんので、暫定的なものとして掲載します。
散文
Alattha kho selo brāhmaṇo sapariso 得た 実に セーラは バラモンの bhagavato santike pabbajjaṃ, 世尊の 前で 出家を alattha upasampadaṃ. 得た 具足戒を Atha kho keṇiyo jaṭilo tassā rattiyā accayena そこで 時に ケーニヤは 結髪行者の 彼は 夜を 過ぎて sake assame paṇītaṃ khādanīyaṃ bhojanīyaṃ 自分の 庵に 適当な 甘いもの 軟らかい食べ物 paṭiyādāpetvā bhagavato kālaṃ ārocāpesi – 用意して 世尊の 時間を 告げた "kālo, bho gotama, 時間です 尊いゴータマ よ niṭṭhitaṃ bhatta"nti. 完成した 食事 と Atha kho bhagavā pubbaṇhasamayaṃ nivāsetvā そこで 時に 世尊は 午前・適時に 衣を着て pattacīvaramādāya yena keṇiyassa jaṭilassa assamo tenupasaṅkami; 器と袈裟 持って ケーニヤの所へ 結髪行者の 庵 それ故・近づいた upasaṅkamitvā paññatte āsane nisīdi saddhiṃ bhikkhusaṅghena. 近づき 用意された 座具に 座った 共に 比丘・サンガ Atha kho keṇiyo jaṭilo buddhappamukhaṃ bhikkhusaṅghaṃ そこで 時に ケーニヤは 結髪行者の ブッダを・先頭に 比丘・サンガに paṇītena khādanīyena bhojanīyena sahatthā santappesi sampavāresi. 適当な 甘いもの 軟らかい食べ物 自分の手で 満足させた 提供し Atha kho keṇiyo jaṭilo bhagavantaṃ bhuttāviṃ onītapattapāṇiṃ そこで 時に ケーニヤは 結髪行者の 世尊を 食事を終え 鉢から手を離した時に aññataraṃ nīcaṃ āsanaṃ gahetvā ekamantaṃ nisīdi. ある 低い 座を 取り 一方に 座り Ekamantaṃ nisinnaṃ kho keṇiyaṃ jaṭilaṃ bhagavā imāhi gāthāhi anumodi – 一方に 座った 時 ケーニヤに 結髪行者の 世尊は この 偈を唱えた 感謝の
バラモンのセーラは、世尊の前で出家の許可を得た。
結髪行者のケーニヤは、夜が明けるまでに、自分の庵に美味しい甘いものや軟らかい食べ物を用意して、世尊に食事の時間を知らせました。
「尊きゴータマよ、お食事の準備が整いました」
午前中、世尊は衣を着て、鉢と袈裟を持ち、結髪行者のケーニヤの庵に赴き、比丘のサンガと一緒に、用意された席に座りました。それから結髪行者のケーニヤは、ブッダをはじめとする比丘のサンガに、自らの手で美味しい甘い物と軟らかい食べ物を提供し、満足させました。
世尊が食事を終えて器から手を離したところで、結髪行者のケニヤは、低い席に離れて座りました。結髪行者のケーニヤが一方に座ると、世尊はこれらのスッタで感謝を示しました。
解説
ケーニヤさんの存在をすっかり忘れていました。1251人の食事の準備をしていましたね。嬉々として準備する様子が想像できます。ケニヤさん、お疲れさまでした。
SN-3-7-573
"Aggihuttamukhā yaññā, 火・供の・頂点 供犠の sāvittī chandaso mukhaṃ; サーヴィッティ 韻文の 頂点 Rājā mukhaṃ manussānaṃ, 王は 頂点 人間の nadīnaṃ sāgaro mukhaṃ. 川の 海は 頂点
ブッダ:
供犠の頂点は聖なる火であり
マントラの頂点はサーヴィトリー
人間の頂点は王であり
河川の頂点は海です。
解説
Sāvitti は、古代インドにおいてバラモン教のヴェーダの聖典の『リグ・ヴェーダ』にある韻文で、太陽神サーヴィトリーを称える有名なマントラです。スッタニパータ第3章「4. スンダリカ」でも、ブッダはサーヴィトリーに触れています。
SN-3-7-574
"Nakkhattānaṃ mukhaṃ cando, 星の 頂点 月は ādicco tapataṃ mukhaṃ; 太陽は 照らすもの 頂点 Puññaṃ ākaṅkhamānānaṃ, 功徳を 願って saṅgho ve yajataṃ mukha"nti. サンガは 実に 供養する人々の 頂点・と
星の頂点は月であり
照らすもの頂点は太陽
功徳を願って施すならば
頂点はまさにサンガです。
とブッダは言いました。
解説
ケニヤは、サン・ブッダと1250人の比丘のサンガにお布施したのですから、最高の功徳を積んだことでしょう。ここで功徳となるのは、ケニヤの純粋な心のエネルギーなのだと思います。
ブッダの教えに感動し、とにかく感謝の意を込めて、「ブッダとそのサンガに出来る限りのもてなしをしたい」という他者のために尽くす純粋なエネルギーです。自分をよく見せようとか、自分のやりがいのためではなく、全く見返りを期待しないで、ただひたすらそうしたいからするエネルギーです。作為の全くない純粋なエネルギーは、大変大きなエネルギーであり、人間の本質を開花させる力となるようです。だから結果として、功徳となるのだと思います。
散文
Atha kho bhagavā keṇiyaṃ jaṭilaṃ そこで 時に 世尊は ケニヤに 結髪行者の imāhi gāthāhi anumoditvā uṭṭhāyāsanā pakkāmi. この 偈を唱えた 感謝の 立ち上がり 去った Atha kho āyasmā selo sapariso eko vūpakaṭṭho そこで 時に 尊い セーラは 仲間と共に 一人で 離れて appamatto ātāpī pahitatto viharanto nacirasse 不・怠惰 熱心に 励み・自ら 生きる 不・久しく …pe… aññataro kho panāpasmā selo sapariso arahataṃ ahosi. …略…他にない 時 セーラは 然るに・見る 仲間と共に アラハンに なった Atha kho āyasmā selo sapariso yena bhagavā tenupasaṅkami, そこで 時に 尊い セーラは 仲間と共に そこから 世尊に それ故・近づいた upasaṅkamitvā ekaṃsaṃ cīvaraṃ katvā yena bhagavā 近づき 片方の肩に 袈裟を なして そこから 世尊に tenañjaliṃ paṇāmetvā bhagavantaṃ gāthāya ajjhabhāsi – それ故・合掌を 向けて 世尊に 偈によって 語りかけた
世尊はこれらのスッタで結髪行者のケニヤに感謝を述べて、立ち上がり去って行きました。
尊師セーラは、仲間と共に家庭を離れて出家し、怠けずに熱心に自ら励む生活を送り、短期間で…中略…「(なすべきことは)他にない」と思った瞬間に、尊師セーラは仲間と共にアラハンの一人となりました。
それから尊師セーラは仲間と共に世尊のところへ行き、袈裟を片方の肩にかけ、世尊に向かって合掌し、次のようなスッタで語りかけました。
解説
セーラと300人の若者は、さっそく修行をはじめ、すべてを観察し終わり、アラハンに到達したようです。
SN-3-7-575
"Yaṃ taṃ saraṇamāgamha, のために あなたに 帰依して・我々は来た ito aṭṭhami cakkhuma; これより 8日目 眼識ある Sattarattena bhagavā, 一週間で 世尊よ dantamha tava sāsane. 訓練された あなたの 教えにより
セーラ:
我々があなたに帰依して
8日目で悟りました。
世尊よ、
あなたの教えによって
一週間で訓練されました。
解説
眼識ある=気づかなかったものが見えるようになった(開眼した)=悟りを開いたということだと解釈しました。
SN-3-7-576
"Tuvaṃ buddho tuvaṃ satthā, あなたは 覚者 あなたは 師 tuvaṃ mārābhibhū muni; あなたは マーラ・征服者 聖者 Tuvaṃ anusaye chetvā, あなたは 煩悩を 断ち切った tiṇṇo tāresimaṃ pajaṃ. 渡る 渡らせた・私を 妨げを
あなたは覚者であり
あなたは師であり
あなたはマーラを打ち負かした
聖者であり
あなたは煩悩を断ち切り
妨げを超えて
私を渡らせてくれた。
SN-3-7-577
"Upadhī te samatikkantā, 拠り所 あなたにより 取り除かれ āsavā te padālitā; 煩悩は あなたにより 砕破された Sīhosi anupādāno, 獅子である ない・とらわれ pahīnabhayabheravo. 捨てた・怖れ・恐怖を
制限はあなたによって取り除かれ
煩悩はあなたによって滅ぼされた
怖れも怯えも捨てた人は
とらわれのない獅子です。
解説
Upadhi(ウパディ)は、何かを〇〇と定義し、それによって無意識の内に自分を規制し、制限することです。
SN-3-7-578
"Bhikkhavo tisatā ime, 比丘たちは 300の この tiṭṭhanti pañjalīkatā; 立っている 合掌して Pāde vīra pasārehi, 両足を 英雄よ 伸ばし nāgā vandantu satthuno"ti. ナーガたちに 敬意を表する 師への・と
セーラ:
合掌して立っている
この300人の比丘たちに
英雄よ、
両足を伸ばしてください
ナーガたちに師への敬意を
表させてください。
とセーラは言いました。
解説
ブッダ に対する最高の敬意は、両足に礼拝することです。尊者の足もとにひれ伏し、頭の先を尊者の両足につける礼拝です。人の足の裏は、穢れを放出する場所で、頭の先は宇宙のエネルギーを受け取る場所です。それだけ、ブッダの足の裏は尊いということですね。
仏像が登場する以前は、「仏足石(ブッダの両足の裏の形を刻みつけた石)」が、礼拝の対象であり、現代でも薬師寺や善光寺に残っています。
Selasuttaṃ sattamaṃ niṭṭhitaṃ. セーラ・スッタ集 7番目 終わり
7.セーラのスッタ集 終わり
こういうスッタ集を読むと、一見不要に感じる散文にも意味があるのだなぁと感じました。