8. Sallasuttaṃ 矢のスッタ集
Salla(矢)がテーマのスッタ集です。人間は例外なく必ず死にます。早く死ぬ者もあれば、長く生きる者もあります。
このスッタ集は、息子を亡くした在家者が、悲しみに暮れて一週間食事をとらずにいるのを聞いたブッダが、彼の家に行き、悲しみを取り除くために説いたスッタです。
このスッタ集には前文やあとがきがありません。シンプルにブッダの慰めの言葉のみです。
SN-3-8-579
Animittamanaññātaṃ, ない・前兆・ない・了知され maccānaṃ idha jīvitaṃ; 死ぬべきものの ここで 命 Kasirañca parittañca, 苦難の・また 少ない・また tañca dukkhena saṃyutaṃ. それは・また 苦しみに 結合する
死は知らされることも
予告もない
この世で人の命は儚く
また人生は苦難であり
苦しみがつきまとう。
SN-3-8-580
Na hi so upakkamo atthi, ない 実に その 手段は 存在 yena jātā na miyyare; それをもって 生まれた ない 死を避ける Jarampi patvā maraṇaṃ, 老いて・も 達して 死に evaṃdhammā hi pāṇino. このような・法則 実に 生命は
生まれたからには
死を避ける手段はない。
老いても死に至る
これが生命の法則なのだ。
解説
「老いても死に至る」とあることから、おそらくブッダが慰めている在家者の子供は、若くして死んだのでしょう。生まれた者は、老いても老いなくても、必ず死ぬのが自然の法則(dhamma)です。
SN-3-8-581
Phalānamiva pakkānaṃ, 果実・のように 熟した pāto patanato bhayaṃ; 早朝に 落ちることを 怖れ Evaṃ jātāna maccānaṃ, このように 生まれた 死ぬべきものを niccaṃ maraṇato bhayaṃ. 常に 死の 怖れ
熟した果実が
早朝に落ちるのを
怖れるように
生まれたときから
人間には常に
死ぬ怖れがある。
解説
熟した果実はいつ落ちてもおかしくありません。死は、それと同じくらい当たり前のことです。
SN-3-8-582
Yathāpi kumbhakārassa, そのように 陶工によって katā mattikabhājanā; 作られた 土の・器 Sabbe bhedanapariyantā, すべて 破壊・終わる evaṃ maccāna jīvitaṃ. このように 死ぬべきもの 生命は
陶工によって作られた
陶器がいつか壊れるように
人間の生命も
すべてが壊れて終わる。
解説
人間の身体が死を迎えて崩壊することを陶器に喩えたスッタです。物質は必ずいつか崩壊するのです。石も鉄もすべてがそうです。形あるものはいつか必ず崩壊し、永遠に形を留めることはできません。
SN-3-8-583
Daharā ca mahantā ca, 幼少 また 大人 また ye bālā ye ca paṇḍitā; 人たち 未熟な 人たち また 賢い Sabbe maccuvasaṃ yanti, すべて 死の力に 彼らは行く sabbe maccuparāyaṇā. すべて 死が・最終
子供でも大人でも
未熟な者でも賢い者でも
みんな死に支配されていて
最終的にはみんな死ぬ。
SN-3-8-584
Tesaṃ maccuparetānaṃ, 彼を 死に・負けて gacchataṃ paralokato; 行こうとする 他界に Na pitā tāyate puttaṃ, ない 父は 救う 息子を ñātī vā pana ñātake. 親族は 或は また 親族を
死の力に負けて
他界に行こうとする息子を
父親が救うことはできない
あるいはまた
親族であっても救えない。
SN-3-8-585
Pekkhataṃ yeva ñātīnaṃ, 看る だけ 親族たちを passa lālapataṃ puthu; 見よ 嘆き悲しむ 大いに Ekamekova maccānaṃ, 各々・実に 死ぬべきもの govajjho viya nīyati. 牛・屠殺される のように 導かれる
見なさい。
見守るしかなく
嘆き悲しむ親族たちを。
一人また一人と
死ぬべき者は
屠殺される牛のように
連れられていく。
SN-3-8-586
Evamabbhāhato loko, このように・悩まされる 世界は maccunā ca jarāya ca; 死により また 老いにより また Tasmā dhīrā na socanti, それ故 賢者は ない 悲しむ viditvā lokapariyāyaṃ. 知って 世界の・システムを
この世はこうして
死と老いに悩まされている。
賢者はこの世のシステムを
知っているので悲しまない。
SN-3-8-587
Yassa maggaṃ na jānāsi, 彼の 道を ない 知る āgatassa gatassa vā; 来た 行く 或は Ubho ante asampassaṃ, 両方の 目的を ない・正観 niratthaṃ paridevasi. 無益の 悲しみ
彼が来た道も行く道も
あなたは知らない
両方の目的を
正しく見ようともせずに
意味なく悲しんでいる。
解説
身内が死んで悲しいのは、なぜでしょう? 自分が寂しいからです。死んだ誰かが自分にとって大切だったから、心の支えであり、拠り所だったから、いなくなるのが嫌なのです。ただそれだけです。
「両方の目的」とは何でしょう? 来た道(過去世)と行く道(来世)かもしれないし、早死にする息子の人生と息子に先立たれる父親の人生の意味、かもしれません。ここは読み手が自分の人生に重ね合わせて、自由にインスピレーションを感じる部分だと思います。
SN-3-8-588
Paridevayamāno ce, 嘆き悲しむ・心が もし kiñcidatthaṃ udabbahe; 何でも・利益を 引き出す Sammūḷho hiṃsamattānaṃ, 混乱した 傷つける・自分を kayirā ce naṃ vicakkhaṇo. なすだろう もし それを 聡明な人は
もし嘆き悲しむことで
何か得るものがあるとしたら
それは自分を傷つけて
混乱することだ。
もしそれが利益になるなら
聡明な人もそうするだろう。
解説
嘆き悲しんでも、死んだ人は絶対に生き返りません。どうにもならないことに対して嘆き悲しむと、心が混乱して自分が傷つくだけです。もし嘆き悲しむことで、何か少しでも利益があるなら、聡明な人もきっと嘆き悲しむはずです。でも何の役にも立たないから、嘆き悲しんだりしません。無駄なことなのです。
SN-3-8-589
Na hi ruṇṇena sokena, ない 実に 泣いて 悲しみ santiṃ pappoti cetaso; 寂静を 得る 心の Bhiyyassuppajjate dukkhaṃ, ますます・生じる 苦しみに sarīraṃ cupahaññati. 身体が また・害される
泣いても悲しんでも
心の安らぎは決して
得られない。
ますます生じる苦しみで
健康を害する。
解説
泣いても嘆いても心が静まることは決してないのに、どうして泣くのでしょう? 事実を受け入れたくないからです。子供が母親に駄々をこねるのと全く同じです。ただ「やだー」と拒絶しているだけです。違う点は、泣き叫んでも絶対に受け入れてもらえないことです。
SN-3-8-590
Kiso vivaṇṇo bhavati, 痩せて 顔色が悪い 状態 hiṃsamattānamattanā; 傷つける・自分を・自分で Na tena petā pālenti, ない それにより 亡者を 保護すること niratthā paridevanā. 無利益 悲しむこと
痩せ衰えて顔色も悪くなり
自分で自分を傷つけても
死者を救うことはない
悲しんでも役にも立たない。
解説
痩せ衰えてボロボロの廃人になったところで、死者は蘇りません。悲しんだところで、何の役にも立ちません。周りの雰囲気がどんより悪くなるだけです。
SN-3-8-591
Sokamappajahaṃ jantu, 悲しみを・ない・捨てる 人は bhiyyo dukkhaṃ nigacchati; より多く 苦しみを 受ける Anutthunanto kālaṅkataṃ, 嘆く者は 死んだ人を sokassa vasamanvagū. 悲しみの 力に・従う
悲しみを捨てない人は
より多くの苦しみを受ける。
死んだ人を嘆く者は
悲しみに囚われる。
解説
これは嘆き悲しみに限ったことではありません。人が悩み苦しむことは全て同じです。怒りも憎しみも、愛情や承認を欲しがる気持ちも、自分が捨てなければ、さらに多くの苦しみを受けることになります。「やーめた! 諦めようっと」と吹っ切ることができれば、その瞬間に苦しみは消えてしまいます。
SN-3-8-592
Aññepi passa gamine, 他の・も 見よ 死に去く yathākammūpage nare; 業に従っていく 人々を Maccuno vasamāgamma, 死の 力に・よって phandantevidha pāṇino. 動揺する・だけ・ここで 生き物は
業に従って人々は死んでいく
他の人々を見てみなさい。
この世で生き物は
死を前にして
ただ動揺するだけだ。
解説
「業に従って」とは、「自分がした身体・言葉・心の行為に従って」ということです。
SN-3-8-593
Yena yena hi maññanti, 何か 何か 実に 考える tato taṃ hoti aññathā; その後 それは ある 異なる Etādiso vinābhāvo, このような 変異・状態 passa lokassa pariyāyaṃ. 見よ この世の システムを
あれこれと考えたところで
それはどんどん変化していく。
見なさい!
このように変わり続けるのが
この世のシステムだ。
解説
この世には決して「変わらないもの」はありません。あるとしたら、それは「真理(dhamma)」だけです。この世のすべてが無常(変わり続ける)なのです。
SN-3-8-594
Api vassasataṃ jīve, たとえ 百年 生きる bhiyyo vā pana māṇavo; より多く 或は また 若者は Ñātisaṅghā vinā hoti, 親族・仲間から 去って 存在 jahāti idha jīvitaṃ. 捨てて ここに 生命を
たとえ百年
あるいはそれ以上
生きたとしても
また、若者であっても
この世での生を捨てて
親族や仲間から去る。
SN-3-8-595
Tasmā arahato sutvā, それ故 アラハンの 聞いて vineyya paridevitaṃ; 除去 泣き悲しむのを Petaṃ kālaṅkataṃ disvā, 亡者の 死を 見て neso labbhā mayā iti. ない・彼は 可能 私には と
だからアラハンの言葉を聞いて
嘆き悲しむのをやめなさい。
死んだ亡骸を見て
「私には何もできない」
ことに(気づきなさい)。
SN-3-8-596
Yathā saraṇamādittaṃ, ように 依りどころ・燃えた vārinā parinibbaye; 水により 完全に・鎮めて Evampi dhīro sapañño, まさに・も 賢者は 有慧者 paṇḍito kusalo naro; それ故 分別ある 人は Khippamuppatitaṃ sokaṃ, 急に・生じた 悲しみを vāto tūlaṃva dhaṃsaye. 風が 綿毛を・ように 払う
火がついた家を
水で鎮火するように、
まさに智慧のある
分別ある人である賢者は、
風が綿毛を吹くように
悲しみが生じたなら
ただちに振り払う。
解説
Saraṇaṃ(依りどころ・避難所)は、「帰依」と訳す場合が多いですが、ここでは「家」としました。「初期消化が大事」の通り、火がついたらすぐに水をかければ消すことができます。悲しみも同じです。延焼を防ぐためには、心に生じたらすぐに消してしまえばいいのです。延々と焼き野原にする必要はありません。たんぽぽの綿毛を吹くように、フッと消してしまうのが賢明です。
SN-3-8-597
Paridevaṃ pajappañca, 悲しみを 強い・願い・と domanassañca attano; 精神的な痛みを・と 自分の Attano sukhamesāno, 自分の 幸せ・探す人は abbahe sallamattano. 引き抜く 矢を・自分の
悲しみと不満と
自分の心の痛みを。
自分の幸せを求めるなら
心の矢を引き抜きなさい。
解説
このスッタ集のテーマである「salla(矢)」は、自分で自分の心に刺す矢のことでした。
SN-3-8-598
Abbuḷhasallo asito, 引き抜く・矢を 不依存の人は santiṃ pappuyya cetaso; 寂静を 得て 心の Sabbasokaṃ atikkanto, すべての・悲しみを 超えて asoko hoti nibbutoti. ない・悲しみ 存在 涅槃に至る・と
矢を引き抜いて
依存がなくなった人は
心の静寂を得る。
すべての悲しみを乗り越えて
悲しみの存在しない
涅槃に至る。
Sallasuttaṃ aṭṭhamaṃ niṭṭhitaṃ. 矢の・スッタ集 8番目 終わり
8. 矢のスッタ集 終わり