Nālakasuttaṃ:11. ナーラカ 本編
アシタ仙人の甥ナーラカが、出家してから35年経ったある日、ついにゴータマ・ブッダに出会い、教えを授かった時のやりとりです。
SN-3-11-704
"Aññātametaṃ vacanaṃ, 了知した・この 言葉が asitassa yathātathaṃ; アシタの その通りだと Taṃ taṃ gotama pucchāmi, それで それを ゴータマよ 質問する・私は sabbadhammāna pāraguṃ. 全て・ダンマにおいて 超えた
ナーラカ:
アシタの言ったことが
その通りだとわかりました。
ですから全ての真理を極めた
ゴータマに私は質問します。
解説
アシタ仙人の甥ナーラカは、35年後にブッダを見て、「あぁ、叔父のアシタが言ったことは事実だった」と、すぐに理解したようです。
SN-3-11-705
"Anagāriyupetassa, 非家の者となって bhikkhācariyaṃ jigīsato; 乞食・生活を 求める者は Muni pabrūhi me puṭṭho, ムニよ 説いて下さい 私に 質問する moneyyaṃ uttamaṃ padaṃ". ムニの行を 最上の 歩みを
私は出家者となって
托鉢生活で食べ物を
乞い求めている者です。
ムニよ、私は質問します。
最上の歩みである
ムニの心得を教えてください。
解説
ナーラカ は、ブッダの父スッドーダナ王の老師、アシタ仙人の甥であることは一切説明していません。
Muni(ムニ)とは、牟尼・寂黙・黙者・賢人を指す言葉です。語源はヴェーダのMuni(沈黙の誓いを立てた人)です。Moneyya(muni-ya)は、ムニの所のものという意味で、同時に muni=「tuṇhībhāva(トゥンヒー・バーヴァ)沈黙の状態」=mona です。
SN-3-11-706
"Moneyyaṃ te upaññissaṃ, ムニの行を あなたに 近く・知るように (iti bhagavā) と ブッダは dukkaraṃ durabhisambhavaṃ; 難い・為すのは 難い・開始・発生 Handa te naṃ pavakkhāmi, いざ あなたに それを 説きましょう santhambhassu daḷho bhava. 堅く保つ しっかり 有れ
ブッダ:
始めるのも続けるのも難しい
ムニの心得を習得するために
では、あなたにそれを説明しましょう。
しっかり自制してください。
解説
Handaは、勧めうながす語です。
SN-3-11-707
"Samānabhāgaṃ kubbetha, 同じ・状態を 作りなさい gāme akkuṭṭhavanditaṃ; 村で 罵られても・拝まれても Manopadosaṃ rakkheyya, 心・過ちを 守るように santo anuṇṇato care. 静かに 非・昂る 歩きなさい
村で罵られても拝まれても
同じ態度でいなさい。
心を過ちから守り
興奮せず落ち着いて
過ごしなさい。
解説
心の過ちとは、罵られて怒ったり、拝まれて喜んだり、心を上下させることです。
SN-3-11-708
"Uccāvacā niccharanti, 高低の 点滅 dāye aggisikhūpamā; 森で 火焔・如く Nāriyo muniṃ palobhenti, 女たちが ムニを 誘惑する tāsu taṃ mā palobhayuṃ. 彼女らが あなたを なかれ 誘惑させる
森の中でも炎のように
心がメラメラ燃え上がる
女たちがムニを誘惑する
彼女たちに誘惑されるな。
解説
森の中でも異性の誘惑があるのです。異性の誘いは、炎のように心を煽り、心を燃え上がらせたり、奈落の底に突き落としたりします。修行どころか全身が感覚の虜になります。しかもそのお楽しみ期間は、せいぜい3ヶ月です。あっという間に、独占欲・執着に変わり、苦しみや諍いの元になるのです。くわばらくわばら(←古すぎ)
SN-3-11-709
"Virato methunā dhammā, 止め 性欲から 事象から hitvā kāme paropare; 捨てて 快楽を あれこれを Aviruddho asāratto, 不・反意 不・情熱的 pāṇesu tasathāvare. 生き物に対し 震える・動かない
身体的な快楽を捨て
性的なことは慎みなさい
弱いものでも強いものでも
生き物に対して
嫌悪も贔屓もしないように。
解説
身体的な快楽とは、見て・聞いて・嗅いで・味わって・触れて・感じて楽しむことです。
SN-3-11-710
"Yathā ahaṃ tathā ete, ように 私が かくの如くに これらは yathā ete tathā ahaṃ; ように これらは かくの如くに 私が Attānaṃ upamaṃ katvā, 自分を 喩えとして 行うことで na haneyya na ghātaye. ない 害する ない 害させる
自分がそうであるように
相手もそうであり、
相手がそうであるように
自分もそうである。
自分に喩えて行動することで
他を傷つけることなく
傷つけさせることもない。
解説
自分が嫌なことは相手も嫌であり、相手が嫌なことは自分も嫌です。だから自分が他者を「傷つけない」のは理解しやすいと思いますが、他者に「傷つけさせない」の方は、意外にやっているものです。他者をそそのかして、他者を利用して第三者を傷つけることはしなくても、他者の反感を煽って「自分を傷つけさせる」ことはないでしょうか?
例えば何か意見が対立した時、悔し紛れに捨て台詞を言ったり、黙っていても蔑むような視線を投げたりして、相手の怒りを買い、結果として相手が自分に暴言を吐いたり、暴力を振るったりする状況を招いたことはないでしょうか? これは夫婦喧嘩で女性がやりがちな態度です。
相手の怒りを誘発したのは自分の行いです。心で思うことは、身体で行わなくても、口に出さなくても、以心伝心、反意が伝わります。だから結果が返ります。身体・言葉・心の3つの行いにおいて「他者を傷つけない・他者に傷つけせない」ことが大切です。
SN-3-11-711
"Hitvā icchañca lobhañca, 捨てて 願い・と 欲求・と yattha satto puthujjano; 処の 衆生は 凡夫の Cakkhumā paṭipajjeyya, 眼ある者 実践するように tareyya narakaṃ imaṃ. 渡るように 地獄を これを
世俗の人々にとっての
願いや欲を手放して
眼ある者はこの地獄を
渡るために実践するように。
解説
世俗の人々=普通に人生を生きる人々にとって、楽しいことはなるべく多く、嫌なことはなるべく少なく、と思うのが自然な生き方だと思います。
しかし、普通の生き方をする人々が、よし(善し・良し・好し)とする快楽(楽しいこと・嬉しいこと)は、修行者にとっては苦しみの元です。そして修行者が喜悦を感じるサマタ瞑想や、知る喜びを得る洞察瞑想は、普通の人々にとっては黙って座るだけの苦しい行いでしょう。どちらがいいわけでも、悪いいわけでもありませんが、世俗とはあべこべなのです。
SN-3-11-712
"Ūnūdaro mitāhāro, 減少・胃は 節・食 appicchassa alolupo; 少欲の者となって 無・欲深い Sadā icchāya nicchāto, 常に 願いに対して 無・飢え aniccho hoti nibbuto. 無・願い 存在 涅槃に達した
節度ある食事で
胃は小さくなり
むさぼることなく
小欲の者となって
常に不満はなく期待もせず
涅槃に達した存在である。
解説
満腹と空腹。腹いっぱいに食べなくても、数日、食べなくても人間は生きていけます。出家者は、修行するのに必要な肉体を維持する最低限の食事で満足しなければいけません。節度ある食事で満足する=「足るを知る」です。ところが私たちは、「足るを知る」どころか、満腹になっても、「甘いものは別腹」と言って、さらに詰め込みます。これを強欲と言わずに、食いしん坊と呼んだりします。
SN-3-11-713
"Sa piṇḍacāraṃ caritvā, 彼は 托鉢を 行った後で vanantamabhihāraye; 森の・外れに・足を運び Upaṭṭhito rukkhamūlasmiṃ, 用意された 木の根元にある āsanūpagato muni. 坐所に・至る ムニは
托鉢を行った後は
森のはずれまで行き
木の根元でムニは坐る。
解説
修行者にも色々なタイプがあります。家庭を持ちながら修行する在家者、出家して集団で修行する比丘・サマナ、そして単身で山奥に籠もって修行するムニです。ゴータマ・シッダッタも出家後は、仙人アーラーラとウッダカのもとで学び、その後、マガタ国のウルヴェーラーの森に6年籠もって修行しました。この6年のほとんどは5人の行者と一緒に修行しましたが、それぞれがムニとして修行していたようです。
SN-3-11-714
"Sa jhānapasuto dhīro, 彼は 禅定・熱心に 賢者は vanante ramito siyā; 森の・外れで 楽しめる人 だろう Jhāyetha rukkhamūlasmiṃ, 禅定せよ 木の根元で attānamabhitosayaṃ. 自分を・大いに・満足させる
熱心に瞑想する賢者は
森のはずれでも
楽しめる人だろう。
自分を満足させるために
木の下で瞑想しなさい。
解説
「森の中で瞑想」と聞くと、私たちは森林セラピー的なイメージが浮かぶかもしれませんが、インドの山奥です。虎や象や蛇がウヨウヨしています。ヒルやアブやブヨなんかもわんさかいる中で、怖いものだらけの中で、独りで瞑想するのです。ゴータマ・シッダッタ でさえ、髪が逆立つような思いをして過ごしたと回顧しています。
ゴータマは、鹿が近寄って来たり、孔雀が枝をバサバサ揺らしたり、風が木の葉をカサコソ揺らすたびに、薄気味悪い思いをしましたが、同時に「なぜ、自分は常に恐ろしさを待ち受けているのだろう?」と思ったそうです。そして、坐っている時に恐ろしくなったら、坐る姿勢を続けることで、その恐れを静めよう。歩いている時には歩き続けることで、立っている時には立ち続けることで、横になっている時には横になり続けることで、恐れを静めようと訓練したそうです。
SN-3-11-715
"Tato ratyā vivasāne, その後 夜に 終わりに gāmantamabhihāraye; 村の・外れに・運ぶ Avhānaṃ nābhinandeyya, 招待を ない・喜ぶように abhihārañca gāmato. 持参・また 村からの
その後、夜明けまでに
村の外れに足を運ぶように。
村から持参されても
招待も喜ばないように。
解説
夜明けまで一晩中木の下で瞑想し、その後、夜明けには村の外れに到着して托鉢をするように、ということです。「え? いつ寝るの?」と思うかもしれませんが、正しい瞑想を実践すれば、寝ているのと同じ意識状態なので、睡眠は必要なく、肉体を一時的に横たえるだけでいいそうです。
托鉢で自ら村を歩き廻って食べ物を得るだけでなく、時には施主から食事に招かれたり、施主が食事を寺社に持参することもあります。食事に招かれても、比丘は喜んではいけないのです。施主の徳が減るからです。比丘が喜べば、そこである意味、結果を返すことになるのです。比丘が喜んだり、何も反応しなければ、施主の成した行為は、徳として積まれて、もっと大きな結果となって将来に返るからです。比丘は托鉢で食べ物を得ても、頭を下げることすらしません。
SN-3-11-716
"Na munī gāmamāgamma, ない ムニは 村に・行ったら kulesu sahasā care; 家々を 無理に 行く Ghāsesanaṃ chinnakatho, 食物を・求める間 断つ・話しを na vācaṃ payutaṃ bhaṇe. ない 言葉を 不注意に 発する
ムニは村に行ったら
無理に家々を廻らない。
食べ物を求める間
会話を断ち、
不注意に言葉を発しない。
解説
比丘の食事は、施主の善意から与えられるものです。求めてはいけません。托鉢行は、食べ物を乞い求めて回るのではなく、比丘はただ、家の戸口に器を持って、黙って立つだけです。すると家人が、その器に自分たちの朝食の一部を分け与えてくれるのです。これが托鉢の本来の姿です。
この家の食事は美味しいから、と選り好みして戸口に立つなど、もっての他です。
SN-3-11-717
"Alatthaṃ yadidaṃ sādhu, 得たものは 何でも 承認 nālatthaṃ kusalaṃ iti; 得なかったものは 善業 と Ubhayeneva so tādī, 両方・実に 彼は そんな rukkhaṃvupanivattati. 木に・のみ・戻る
得たものは何でも受け入れ
得られなくても善しとする
いずれにしても
木に戻るだけだ。
解説
托鉢で得たものは、「何でも受け入れる」=これは好きとか嫌いとか、美味しいとか不味いとか判断しないで、生命をつなぐ糧として受け入れる、ということです。「得られなくても善しとする」=「得られなかった」という現実をありのままに受け入れる=餓死してもそれが自分の結果として、ただ起こるに任せる、ということです。
頭では理解できますが、実際に飢えた場合に、私たちはどうなるのでしょう? 生存本能に突き動かされて、必死で食べ物を得ようと渇望(Taṇhā)するのでしょうか?
SN-3-11-718
"Sa pattapāṇi vicaranto, 彼は 器を・手に 彷徨う時 amūgo mūgasammato; ない・唖者は 唖者と・思われる Appaṃ dānaṃ na hīḷeyya, 少ない 布施を ない 軽視するように dātāraṃ nāvajāniyā. 施主を ない・軽蔑するように
托鉢の器を手に歩く時には
唖者でなくても
唖者と思わせて
施しが少なくても軽んじたり
施主を見下さないように。
解説
人間は愚かなので、ただでもらったものでも、すぐに少ないとか多いとか判断してしまいます。さらにうっかりボソッと言ってしまったりします。
SN-3-11-719
"Uccāvacā hi paṭipadā, さまざまな 実に 行道が samaṇena pakāsitā; 沙門により 示された Na pāraṃ diguṇaṃ yanti, ない 彼岸に 二重 行く nayidaṃ ekaguṇaṃ mutaṃ. ない・これは 一重 考える
実にさまざまな修行道が
サマナによって示された。
彼岸には二度行くことはないが
ムニの修行は一度ではない。
SN-3-11-720
"Yassa ca visatā natthi, 彼に そして 執着が なし chinnasotassa bhikkhuno; 断ち切り・流れを 比丘には Kiccākiccappahīnassa, 為すこと・為さざること・捨てた pariḷāho na vijjati. 苦悩は ない 見出される
執着がなくなり
(生存の)流れを断ち切り
すべきこともすべきでないことも
なくなった比丘には
苦悩は見当たらない。
解説
生存の流れとは、怒りと欲が生じ続け、渇望のエネルギーによって転生する激流の流れのような生命の流れ=輪廻のことです。
SN-3-11-721
"Moneyyaṃ te upaññissaṃ, ムニの行を あなたに 近く・知るように khuradhārūpamo bhave; カミソリの刃・喩え あるように Jivhāya tālumāhacca, 舌を 口蓋に・打って udare saññato siyā. 胃において 自制 あるだろう
ムニの心得を習得するために
剃刀の刃の喩えを心しなさい。
舌を口蓋に押しつけて
胃袋をコントロールしなさい。
解説
ブッダの剃刀の刃の喩えとは、「剃刀の刃に 蜂蜜を塗りつける。貪欲な者は剃刀の刃を舐めようとするが、舌を切らずにそれができるだろうか?」というものです。
美味しそうな食べ物を見た瞬間、身体では何が起こるでしょう? 唾液が出て、舌に流れ込みます。空気が匂いを伝えるのと同じように、唾液は味を伝えるために受け取る準備をします。
覚者の味覚は、私たちよりも遥かに鋭いはずです。覚者は食物を口にして、味を体験しますが、味に対する執着はありません。つまり舌にも涅槃があるのです。瞑想者は食事をする時に、完全に意識しながら食物を摂取することで、これを観察できます。味は、舌にも食べ物にもなく、舌と食べ物が一体となる「瞬間」にのみ、味が生じるのです。
SN-3-11-722
"Alīnacitto ca siyā, ない・沈滞・心は そして あるだろう na cāpi bahu cintaye; ない また・も 多く 考えて Nirāmagandho asito, 否・生の・臭いもの ない依存 brahmacariyaparāyaṇo. 梵行を・最終目標に
また、あまり考えずに
心を滞らないように
怠けずに依存せず
修行を最終目標にしなさい。
解説
Nirāmagandho(生臭さにならず)=怠けずに=五戒を守るという意味です。詳細は、スッタニパータ第2章「2. Āmagandhasuttaṃ 生臭いもの」をご覧ください。
Asita(依存のない人・自律した人)アシタ仙人に掛けて、アシタのようであれという意味もあるかもしれませんね。涅槃や解脱を目標にするのではなく、修行そのものを最終目標とするようにということです。
SN-3-11-723
"Ekāsanassa sikkhetha, 独坐を 学ぶがよい samaṇūpāsanassa ca; 沙門の訓練を そして Ekattaṃ monamakkhātaṃ, 独りは ムニの道と宣告された eko ce abhiramissasi; 一人は もし 楽しみを見出すなら Atha bhāhisi dasadisā. そこで 輝くだろう 十方に
サマナの訓練と
独りで坐ることを
学びなさい。
孤独はムニへの道である。
一人でも楽しみを見出せるなら
あらゆる場で輝けるだろう。
解説
このスッタでは、Samaṇa(サマナ)沙門とムニの違いを読み取ることができます。ムニは単独行で、サマナはグループ行のようです。
ブッダ以前のヴェーダの文献には、isi(イシ)・muni(ムニ)・samaṇa(サマナ)の区別があります。バラモン教やヒンドゥー教にも共通する言葉で、3つとも、崇高な目的のための求道者であることは同じです。当サイトでは、isi:雲上人・仙人(サマナやムニの老後)、samaṇa:サンガに属して修行する僧、muni:ひとりで黙々と修行する行者(悟っていれば聖者)、と解釈しています。
十方とは、東西南北の四方と、北東・北西・南東・南西の四隅、上下の10方向で、あらゆる方角です。
SN-3-11-724
"Sutvā dhīrānaṃ nigghosaṃ, 聞いて 賢者への ない・音声を jhāyīnaṃ kāmacāginaṃ; 瞑想して 快楽を放棄して Tato hiriñca saddhañca, それ故 羞恥・と 確信・と bhiyyo kubbetha māmako. さらに多く 行うがよい 信奉者は
賢者への評判を聞いても
喜んだりせずに瞑想して
私の弟子たる者は
謙虚であり確信を
より一層深めるがよい。
解説
賢者への評判とは、自分に向けられた良い評判だと思います。続けて「羞恥心と確信をさらに多く行うように」とあるので、「尊敬されても、恥を知って謙虚でありなさい、ますます確信をもって道を進みなさい」ということだと解釈しました。
SN-3-11-725
"Taṃ nadīhi vijānātha, それは 川・実に 理解しなさい sobbhesu padaresu ca; 溝で 峡で そして Saṇantā yanti kusobbhā, 音を立てて 彼らは行く 小さな・溝から tuṇhīyanti mahodadhī. 黙って・行く 大河は
それはまさに浅い川と
深い川で理解しなさい。
浅瀬の流れは
音を立てて進むが
大河は黙って静かに
流れていく。
SN-3-11-726
"Yadūnakaṃ taṃ saṇati, それ・不足 それは 音を立てる yaṃ pūraṃ santameva taṃ; ことは 充満 静か・実に それは Aḍḍhakumbhūpamo bālo, 半分・水瓶・喩え 未熟者は rahado pūrova paṇḍito. 湖 満ちた・ようだ 賢者は
水が足りなければ
川は音を立てるが
満ちていれば川は実に静かだ。
未熟者は半分水が入った瓶に喩え
賢者は水が満ちた湖のようである。
解説
「未熟者は、足りないと騒ぐが、満ち足りている賢者は実に静かだ」ということです。
SN-3-11-727
"Yaṃ samaṇo bahuṃ bhāsati, ことは 沙門は 多くを 語る upetaṃ atthasañhitaṃ; 備える 道理・伴う Jānaṃ so dhammaṃ deseti, 知り 彼は ダンマを 示す jānaṃ so bahu bhāsati. 知り 彼は 多く 語る
思慮分別あるサマナは
多くを語ることがある
知り得たダンマを教え
知り得たことを多く語る。
解説
Samaṇa(サマナ)沙門は、余計なことは語りませんが、体験を通して得たダンマについて語る時は、人々が理解を深められるように、気づきを得られるように、多くを語ります。
SN-3-11-728
"Yo ca jānaṃ saṃyatatto, 人は しかし 知り 自制する jānaṃ na bahu bhāsati; 知り ない 多く 語る Sa munī monamarahati, 彼は 黙者は ムニに・値する sa munī monamajjhagā"ti. 彼は 黙者は ムニに・到達した・と
しかし
知っていても抑えて
知りながら多くを語らない人
そんな黙者がムニに値する
黙者はムニに到達している。
とブッダは言いました。
解説
ムニは「知り得たダンマすらも語らない黙者」ということです。なるほど、ムニとサマナの違いが理解できましたね。
Nālakasuttaṃ ekādasamaṃ niṭṭhitaṃ. ナーラカ・スッタ集 11番目
11. ナーラカのスッタ集 終わり
ブッダは常日頃から弟子たちに、「余計なことを言うくらいなら、黙っていなさい」と言い聞かせていたそうです。